花笑みの宴・1

 シモンは多忙を極めていた。
 本の世界での戦いに加え、毒の沼地が広がる異世界での戦いや、ルールも知らない球技への試合にまで喚ばれて、体がいくつあっても足りない状況だった。
 英霊はその世界にふさわしいかたちを取り、魂の記憶も異なるものとなるが、本質はひとりの人間の精神を喚び出しているので、使命を終える頃には、大元であるシモンの心身は疲弊しきっているのだった。
 そんな中、新たな世界に喚び出されることを告げられ、シモンの神経はこれまで以上に昂ぶることとなった。その戦場では主に爆発物を使用しての戦い方が一般的であり、実際に取り扱うかはわからないが、爆弾についての知識や技能をひととおり改めたほうが良いだろうと、普段の鍛錬内容にそれらの技術の更新を加えていたのである。過去に使用していた武器とはいえ、ものがものだけに非常に神経を使うその道具と毎日向き合った結果、シモンの精神は常時強い緊張が続き、自力では安定した状態に和らげることも困難になっていた。
 
 青年の環境の変化や、心身の不調について、後進の狩人たちよりも慎重に様子を伺うものがいた。シモンと同時代に存在した、古の悪魔城の主である。長きに渡る戦いから、高名なる狩人とのあいだに特別な情を育てた伝説の吸血鬼は、誰よりも青年の健康を気遣っていた。忠臣である死神から青年の状況を伝え聞いた伯爵は、コウモリに一通の手紙を持たせた。明日の逢瀬を待っていると一方的に書き付けた内容だった。手紙を受け取ったシモンは苛立つように頭をかいた。武器の取り扱いも完璧とはいかない状況なのだ。そんな暇があれば修練に時間を割きたい。シモンは机に手紙を放って、ベッドに潜り込んだ。
 
 このまま寝過ごしてしまえば、不義理を怒った彼が部屋まで乗り込んでくるだろうか。そうしたら面倒もなく、こちらも急な呼び出しを怒ることができるのにな。そんなことを思いながら、寝付けない体をじっと横たわらせていた。

 翌日、待ち合わせ場所のラウンジに遅れずに来たが、伯爵の姿は見えなかった。睡眠不足の体が少し重くなった。まぁ時間ぴったりではあるし、彼が来るまでクロス磨きでもしていよう。シモンは装備品からL・クロスを取り出して息を吹きかけた。
 
 しばらくのち――伯爵に声をかけられてもシモンは振り返ろうとはしなかった。輝きを超えて、角がすり減るのではないかというくらいにクロスを磨いたからだ。その時間があれば朝の鍛錬ももっと中身のある内容になっただろう。
 
「シモン、遅れてすまない」
「なぜ遅れた」
「寝過ごしてしまって」

 シモンはソファから立ち上がり、振り返りもせずにラウンジから出て行こうとした。伯爵は慌てて後を追いかけた。
 
「シモン、顔を見せてくれないか」

 青年は肩を怒らせて大股で歩いた。今日の予定などもうどうでもよかった。今すぐに部屋まで戻ってろくに眠れなかったぶんを取り返したい。膨らんだ肩を掴まれて、つい大声が出た。「触るな!」

 手を振り払おうと後ろを向いた瞬間、目の前に赤い影が広がった。眼前に差し出された薔薇の花束だった。顔を上げると、困り顔の伯爵が、真摯なまなざしでこちらをじっと見つめていた。
 
「花束を作るのに手間取ってしまって――なにせ初めてだから」

 今さっき摘んできたばかりなんだ。
 シモンは花束を受け取った。伯爵と同じ表情をしていたが、頬は薔薇の赤みに照らされたように明るく色づいていた。予定の時間にきっちり起きて、慣れない手つきでこれを仕上げた伯爵のことを思うと、シモンは自分のしたことの恥ずかしさから、花束に顔を埋めたくなった。
 
「ありがとう。とても綺麗だ」

 高鳴る胸から絞り出した声でそう伝えると、伯爵はホッとしたように笑みを浮かべた。美しい大人の笑顔だった。
 
「実は君と一緒に薔薇園を巡りたくて――ちょうど見頃を迎えたんだよ。もしよければ一緒に見に行かないか」

 シモンは花束に顔を埋めた。うなずくつもりが胸がいっぱいになり、顔を隠さなければそこに立ってもいられなかった。薔薇はしっとりとした肌ざわりで、体が軽くなるような快い香りがした。

 蔓薔薇で覆われたアーチをくぐると、そこには見渡す限り見事な赤い薔薇が咲き誇っていた。一季咲きの真紅の蔓薔薇が、余計なものは見せまいとするように、背丈よりも高くに生い茂っている。剪定は最低限に、しかし蔓の誘引は園を美しく彩るかたちになされており、見る者の心を豊かにする生命の優美さが、甘く濃密な芳香とともに充ち満ちていた。
 
「星々の連なりを身近に感じ取れるようだよ」伯爵は手のひらを優美に返し、薔薇の美しさを褒めたたえた。「空よりも上、月と並ぶ世界にはこんな命が幾数も瞬いているだろう? あれらの光景によく似ていると思ってね――小宇宙というのだろうか、そんな連想をしてしまうな」

 シモンは目を細めて静かに息を吸い込んだ。夜空の冷たい空気が水のように胸に染みわたる。
 
「麗しい光景だ。それに本当に良い香りがする」

 ありがとう、ここまで連れて来てくれて。
 シモンは伯爵に心からの感謝を伝えた。
 
「またこれでしばらく頑張れそうだよ。良い気分転換になった」

 知っているだろうが、実はまた新たな地に喚ばれることになって――話の途中で伯爵に手を握られて、シモンは顔を上げた。熱を宿した瞳に見つめられて、青年は息を飲んだ。「その、もうすぐ帰らないと……」
 
 最後まで話さずに、自分のほうから目を閉じていた。懐かしく、忘れがたい快さが唇から全身に広がった。秘めやかな音を立てて、何度も重ね合うやわらかなキス。性的ではないが、情愛に満ちた感触だった。
 
 あぁ彼も予定をわかってくれているんだ――シモンは少しさびしい気持ちで口づけを返しながら、繋いでいる指先を離そうとした。あたたかい口髭の隙間からふわりとした良い匂いがした。花の香りと混じり合った彼の匂いだった。
 
 シモンは思わず目を見開いた。鼻から抜ける甘い声を抑えることができなかった。急に体の奥底から肉欲がこみ上げたのだ。下腹がきゅうと締まり、腰がゆらりと悩ましげに動いてしまった。「あ――」いけないと思ってもどうにもならずに、草摺は恥ずかしい角度に上向いた。崩れ落ちそうになる体を伯爵が支えた。
 
「すまない、こんなところで――」

 彼から離れたくてもうまく力が入らない。シモンは情けなさと恥ずかしさが入り交じった思いで伯爵にもたれかかっていた。伯爵は落ち着かせようとシモンの頭を撫でながらこう囁いた。
 
「近くに管理小屋がある。そこで休もう」

 改築したばかりだと話す伯爵に連れられて、シモンは薔薇園の管理小屋に招かれた。そこは電気水道が完備された広い敷地で(混沌の産物である悪魔城は時代を超越した文明を取り込むことがあり、主である伯爵はそれらを便利に使いこなしていた)、小屋というよりは邸宅といった趣だった。扉を開けると外よりも甘い空気が広がった。壁全体に赤い蔓薔薇が咲き誇っていたのだ。シモンは調度品を覆うように咲き乱れる花々に圧倒されながら、伯爵に導かれるままにソファに腰を下ろした。
 
「蜂蜜酒が冷えている。用意するから、楽にしていてくれ」

 息苦しさは収まらなかった。ここの空気は濃く甘い。シモンはめまいがするような思いで頭に腕を遣った。しばらくして伯爵が飲み物を持って戻ってきたが、シモンは口をつける気になれず、天を仰いでいた。伯爵が隣に座り、冷たいおしぼりを首筋に当ててくれた。頬や胸元を拭われると、体の昂ぶりは収まるどころかますます激しくなって、シモンは伯爵にやめてほしいという意味で彼の手を握った。目が合うと、なだめるようにキスをされた。うつむくシモンに伯爵が穏やかな声音で囁きかけた。
 
「その武骨な鎧を脱いでしまうといい」

 楽にして、落ち着いて――。
 シモンの体を支えて、ソファから起き上がらせると、伯爵は手慣れた動作で青年のベルトを解いていった。肩甲が外れて、草摺が落ちる。武具を取り払い、リストバンドをするりと脱がせると、伯爵はシモンの腰を抱いて、首筋に頭を寄せた。どくどくと脈打つ青年の鼓動を聞きながら、腰の手を股間に伸ばした。
 
 「はうっ」熱く勃ち上がるそれをぎゅっとつかむと、シモンは身をのけぞらせて甘く喘いだ。激しくもみしだかれる刺激に耐えようと瞳を切なくつむっている。伯爵は青年の首筋に優しいキスを繰り返しながら、手つきを休めずにこう囁いた。
 
「この小屋には広いベッドがあってね。よければそちらで休まないか」

 シモンは薄く目を開いた。熱く潤まされた瞳で伯爵と見つめ合うと、彼の頭を引き寄せて口づけを交わした。愛し合うことを求める熱烈なキスだった。