きっと育めるもの・6

 翌日の検査の結果、体内のりんごの魔力はほとんどが消滅したことが判明した。

「乱暴な方法だったが、昨夜、君の精神に介入して異質化した魔力を攻撃したのが効いたらしい。心に直接影響を及ぼすのは危険だから避けていたのだが、あのときは仕方なかったからな。うまくいったようで良かった」

 半日も経てば君の体は元通りになるだろうと伯爵は告げた。
 ソファに腰掛けて話を聞いていたシモンは、「そうですか」と答え、行儀良く膝に手を置いて、うつむき、なにも言わなくなった。紅茶のカップが湯気を立てている。「なにか食べないか」そう言って伯爵は指を弾き、フルーツコンポートをテーブルに出した。ぶどう、オレンジ、キウイ、生パインといった、少年が見たこともない果物がカットされて、きれいに盛り合わされている。それをじっと見たシモンは、「あの」と遠慮がちに言った。「ふつうのりんごはありませんか。できれば、まだ皮を剥いていないやつ。ぼく、おじ様に切って差し上げたい」

 その珍しい申し出を聞いた伯爵は、一瞬間を置いたが、次には嬉しそうにほほえんで、ふたたび指を軽く弾いた。真っ白な皿と果物ナイフ、そしてかご一杯の赤いりんごが現れた。「ありがとう」少年はナイフとりんごを手に取った。

「まだあんまり上手じゃないんだけど――」
「練習も兼ねてやってみたまえ」

 はい、と答え、シモンはりんごの皮むきに挑戦した。かたちは基本に忠実だが、表皮に刃先を押し当てる手つきはたどたどしく、いかにも危なっかしい。手のひらの成長が充分ではないのだろう。りんごの大きさを持て余しているようだった。それでもゆっくりと丁寧に皮を剥き、一本の赤い紐を生んでいく。途切れずにすべての皮を剥ききったシモンは、赤い螺旋状のりんごの皮を掲げて得意げに伯爵に見せた。「見事だな」伯爵は最後まで黙って見守っていたが、「しかしわたしにその丸ごとのりんごを食べろと言うのかね」と当たり前のことを聞いた。そこで初めてシモンはりんごの切り方が間違っていたことに気がついた。カットをしなくては。

 新しいりんごを手に取り、シモンは四つ割りに刃を入れた。ひとくち大に、食べやすいかたちに皮を剥くのだ。間違いを指摘されて焦っていたのだろう。たどたどしい手つきのまま急いだものだから、シモンは勢いよく刃を内側に滑らせてしまった。「あ」親指の付け根に刃が入り込み、赤い流れを生んだ。心を注いで彼のことを見守っていた伯爵は、手首に伝う赤い線を見て、その静かな流れに対応することができなかった。魂に働きかけるその貴い色を見て、伯爵の精神も呼応したのだ。シモンが慌ててナイフとりんごを皿に置き、親指の付け根を口で吸ったとき、少年は確かに目の前の相手が今までとは違う色を放っていることに気がついた。それは一瞬で静まったが、少年はその光景が見間違いではないことを一族の血で感じ取った。伯爵の目の光が美しい金色から、宝石よりも深く、月よりも明るい、深紅の色に変わったことに。

 シモンは傷口を吸うのもやめて伯爵を見つめていた。
 伯爵は立ち上がり、胸元からハンカチを取り出して少年の手に当てさせると、小物入れからポーションを手に取り、傷口に使用した。神薬で洗い清められた手をハンカチで拭う彼のことを、少年はじっと見つめていた。今では赤い光はかすかにも見えない。「ありがとう――ごめんなさい」声は静かで、透明な響きがあった。
「次は慎重にやればいいさ」すっかり塞がった傷口を見て、伯爵はふっと息をついた。そして指を弾いて、血が付着したナイフを消した。

 バルコニーに出たふたりは青い月夜を眺めていた。
 あとほんのわずかな時間を屋内で過ごす気にもなれずに、外の空気に当たることにしたのだ。伯爵はとなりに並んだ少年をちらりと見た。鼻までの高さがある手すりから三日月を眺める少年は背伸びをしているようにも見えたので、伯爵はふっと笑い、少年に背を向けた。「シモン」振り向いた少年は、伯爵が隣に屈んで背を向けていることに驚いた。後ろ手でちょいちょいと合図を送って、その肩に脚をかけるように言っている。

「肩車をしよう。ほら、乗りなさい」「でも」「いいから」

 シモンはとまどいながらも素直に脚をかけて、伯爵の肩にまたがった。「良い子だ」伯爵は身を起こした。シモンはその急な視界の変化に驚き、しっかりと伯爵の首にしがみついた。そして感嘆の声を上げた。少し上から見る景色はとても広々として、美しく、空気が澄み渡っていたからだ。心がのびやかになると同時に、体の均衡も取れて、ふたりは楽な力でバルコニーに佇んだ。夜空はどこまでも青く冴え冴えとして、森林の闇と月明かりが美しく調和していた。

 ふたりはしばらくのあいだ、物も言わずにその光景を眺めていた。ふくらはぎを抱く伯爵の手はやさしく、力強く、まるで父親のように頼もしかった。シモンは瞳に月を映して考えた。まるでおじ様の目の光のように厳かな明かりだと思い、そうだこの方はきっといつまでもぼくのおじ様なのだとはっきりと悟った。

「あなたは人と和解をしたんですね」シモンははっきりとした口調でそう言った。目線だけを上向けて伯爵は言葉の意味を探る。「総主教様とお話になられて、お互いに納得のいくかたちになったんだ。人と魔界の境目にあるこのお城で、あなたは誰も傷つけずに広大な土地を統治されて、人もここには関わらないとして――きっとそうだ。だってぼくとあなたが友達になったんだもの」

 伯爵は上げた目線を静かに降ろした。ゆっくりと時間をかけてこう尋ねる。

「今も、わたしと友達だと信じているのかね」

 はいとシモンは答えた。まっすぐな答えだった。

「あなたもぼくも、どちらも戦いを選ばずに、和解の道を探ったんだと思う。誰も血を流さないならそれが一番良いもの。大変な思いをしたんだろうけれど、それはうまくいって、こうして穏やかに話ができるまでになったんだ」

 少年の見た未来は人の理想だった。夢のような話だったが、人とは本来この道を歩まなければいけないという主からの教えを信じた姿で、それは清らかな心が生む追求であり、全人類の課題だった。
 シモンは月の輝かしさに未来を映した。目を細めて、声を弾ませる。その声音は希望の光に満ちていた。

「ぼくが大人になる頃にはきっと世界は平和になっているんだ。夜を怖れずに過ごせるくらいに。
 ――もちろん、病気とか飢えとか、乗り越えなきゃいけないものはたくさんたくさん残っているんだろうけれど、ぼくたち一族が役目を終えるときを迎えるんだと思うとすごく――嬉しいな」

 伯爵はなにも答えなかった。夜空のように静かな色を表情にたたえて、少年の言葉を胸の内で反芻していた。そして伯爵はこう尋ねた。

「君はわたしと友達になる未来を知って――君の一族の使命を果たすための鍛練をやめるかね」

 え、とシモンは未来の希望から今だけの現実へと目線を降ろした。伯爵の表情は伺い知れない。
「あなたに鞭を振るわなくてもいいのなら、ぼくは――」シモンはまつげを震わせて、声を包んだ。「ぼくは……」続きを答えられないでいると、伯爵は淡々と話を続けた。

「力がなくては友達を助けられないだろう? もしもわたしが君のように無力な状態に戻ってしまったら、君はわたしを守り抜くことができるかね? 庇護するための充分な経済力がなくては家にかくまうこともできはしまい。得体の知れぬ魔力に怯える友達を安心させるだけの豊かな幅広い知識があるのかね。誰かに害を受けようとしているのを見ても、今の君には敵を討ち払う力はないだろう? 誰かを助けたく思うのに、無力なばかりに力になれない――そんな状況を迎えて、君は悔しく思わないのかね」

 後悔をしてはいけないのだよと伯爵はよく通る声でそう言った。

「君は使命を果たすことを胸に、来たるべき日まで鍛練を続けなくてはならないよ。いつかなにかあったときに友達を助けたいからという思いでもいい。身も心もたくましく、美しく育つんだ」

 シモンは黙って伯爵の言葉を聞いていた。その表情は父からの教えを受ける聡明な子供のようだった。教えは水が土に染みこむようにごく自然に心の中に澄み渡り、少年の成長を促した。

「そしてもうひとつ。お互いに敵対する環境にあっても、友情は育めるものだ」

 忘れてしまうだろうが言っておきたかったと伯爵は告げた。
 シモンは星に映していた希望の本当の姿を知った。
 それは星よりも美しく、月の光よりもあたたかかった。
 音のない月夜はふたりの今だけの時間を見守るように青く深く晴れ渡っている。

「ぼく、きっと心のどこかでおじ様のことをずっと覚えていると思う」

 伯爵の頭にそっと手を添えてシモンが呟いた。「そうだと嬉しいな」伯爵が小さく笑った。シモンは背中を丸めて伯爵の顔を覗き込んだ。「ぼくのことを忘れないでねおじ様」「忘れるものか」

 ほほえむ声に安心して、シモンは冷たい風を吸い込みながら顔を上げた。そしてその表情に明るい色が輝いた。したいことを思いついたのだ。

「今度お会いしたらおじ様にちゃんときれいにりんごを剥いてあげる。面白い切り方を知ってるの、耳の大きなね――」

 呪いも魔法もそれは瞬時に解けるものだ。蝕むものが完全に消え去ったとき、別れは急に訪れた。体内のりんごの魔力がすべて消滅した少年は、その証として、伯爵の肩の上で異音を立てた。それは服の破ける音だった。驚く間もなく、ずんと伯爵の足腰に急激な負担がかかった。バレリーノのようにしなやかな脚が、急に顔が埋まるほどのたくましい太ももに変化したのだ。子犬のように感じていた体の重さが、子馬ほどに総量が増して、伯爵の全身を圧迫した。ぬおおと唸り声を上げながら踏ん張る伯爵を脚のあいだに見て、シモンはわぁと驚きの声を上げた。「なにをしているんだヴラド!?」

 すっかり元の姿に戻った裸の青年は、その危うい姿勢からバランスを取ろうとしてがっきと伯爵の首に脚をまわし、体重と併せて彼を卒倒寸前まで締め上げたのだった。