部屋とYシャツと私

 探偵社に帰ってからまず目で探すのが鳴海の姿なのだが、その日、扉の前から見下ろすも所長デスクに茶色い頭はなく、ライドウは視線を流し場のほうへ向けた。物音は聞こえてこなかった。手洗いだろうか、そう思って階段を降りようとしたとき、背後から扉を開く音がした。たどたどしい物音に振り向くと風呂敷包みを背中にしょった鳴海が片手で胸元の結び目を握り、もう片方の手でドアノブをつかんでいた。「おう、おかえり」素早くドアを開くライドウに向かい鳴海は目語を兼ねたトーンで平淡な礼を告げた。

「新しいの来たから」

 デスクに開いた風呂敷包みの中身はライドウの学生服だった。黒い詰め襟と真っ白いワイシャツ、そして黒ズボンがそれぞれ5着ずつ、ぴしりと糊がきいて揃えられている。
 礼に続きライドウは「僕が受け取ってきましたのに」と、わざわざの鳴海の行動に謝罪した。
 腰に両手を当てて気だるそうに立つ鳴海は、額の汗を払うように下唇で息をついた。

「今月に入って5枚だっけ」
「はい」

 未熟さに恥入り、そして悔しそうにうつむくライドウの口の中は、真っ白い歯できつく噛みしめられていた。
 鳴海はライドウの歯肉があまり痛めつけられないうちにワイシャツのボタンを外しにかかった。新品のほうである。
 開けたシャツを洗いたてのように音立てて払い「ちゃんと縫製されてるか試着しとこうぜ。成長してるかもわかんないし」といつもの微笑で、彼の背中から着せてあげようとした。ライドウは詰め襟のボタンを外し、続いてワイシャツを脱いだ。上下とも、左の袖口がかまいたちに裂かれたようにだらりとしていた。鳴海は眉を顰めた。

「すみません」

 視線に気づきライドウは頬を赤らめた。決して心地よい赤らめ方ではない。腕にも手首にも傷は残っていないが、真っ赤に滲んだ血の跡は、臭いをともない鳴海の五臓に冷たく香った。

 こうして捨てられた学生服が今月に入ってから5着。少ないほうである。

 得体の知れない汚液にまみれたもの、ぱっと見にはわからないが至るところが焼け焦げているもの、肘から下がどうしたらこうなるのか、かすかな霜が付着した以外はぼろぼろに崩れあとかたもなくなっているもの、爪痕や噛み傷、これら悪魔の欲望に付随するようにライドウの血液がこびりつき、染みになっている。

 公共の業者に処分を任せるのは危険が伴うため、使い捨ての平包みに簡易なお清めを施し、名も無き神社に持参するのだが、持ち込みに関してだけ、多忙のライドウに代わり、鳴海がすることが多くなった。
 消耗した衣服と同じ枚数の学生服を風呂敷包みに背負う鳴海と、その姿を苦しいまなざしで出迎えるライドウと、体の重さはどちらも等しく、路の見えない坂を上るようで、果てのない息苦しさを全身に感じている。

「あいかわらず、ぴったりだな」

 5着とも縫製や仕立てに問題はなく、謹んで任務に励むよう、折り目正しい縦線と横線がなんの匂いもなしにたたまれている。
これらが屋上の日向のにおいを吸い込むことがあるのだろうか。
 どうしようもないことを考える前に、鳴海は控えめなあくびをついた。クタクタになるにはまだ早かった。涙目を見つめているひとりの書生とともに、ふたりはデスクの前でしばらく無言で立ち尽くした。


 月日が経ち、ぼろになった外套を夕凪の空気にささくれさせて、ライドウは探偵社のドアを開いた。
 鳴海の姿を探す視線はデスク前をうろつき、本棚や調理場のほうへ流れ、そして階段へすとんと落ちた。
 茶色い頭と白い背中、いつまでも見ていたい細身の落ち着く体が、階段の段差に合あわせて座姿勢に折られている。
 鳴海は靴ひもと戦っていた。

「ただいま帰りました」

「お前なぁ」

 おかえりとは言わず、鳴海は下から睨みあげた。もちろん、空気の変わらぬ範囲内で。
 鳴海の高級に光る白い革靴は、いくつもの固い団子をぶらさげてぐったりとしていた。針金でも差しこまなければほどけない、きつい結び目に鳴海は苦戦し、こうしてライドウを階段で出迎えることになったのである。

「座れ。なんでこんないたずらしたんだ」

 自分の隣を叩き、ライドウがそこに腰掛けるまで、鳴海のまなざしは顎を定位置に戻すまでつきあった。その間の書生は無言で、悪びれた様子もなく、どことなく不満なような、すねたような、小生意気な鼻面を直しもしなかった。
 いとおしさを腹に据えて、鳴海は再度尋ねた。
 書生はそれには答えず、自分の気持ちだけを口にした。

「行かないでください」
「なに」
「わざわざ、志乃田まで行かないでください。僕の制服の処分は僕がやります」

 だから、と言い終わらないうちに鳴海は学生帽をかぶっているのもかまわず、ライドウの頭にげんこつを落とした。
 鈍い音だ。顎を噛みしめるライドウを見ても、それなりに力をこめたことがわかる。鳴海は保護者のように、厳しい目つきだった。ところが。

「ごめんな。殴ったところで、うまく諭せもしないわ」

 こんなの感情の問題だからさ、と鳴海は両手で顔を覆った。どちらもむかついて、かなしかった。されたこともないげんこつの痛みは恥ずかしさと胸張り裂ける感傷を生み、ライドウの瞳に悔し涙を浮かべさせた。ただ、どちらも思いやりで起こした行動に間違いなかった。ゆえに、静かな、あたたかく眩しい夕焼けの時間を同じ段差で過ごすことができた。

 オレンジ色に染まる応接間にひぐらしの鳴き声がもの悲しく響く。黙ったままのふたりの背中は一緒にいるのがふさわしいように、埃まじりの落陽にさみしく照らされていた。
 すんと鼻を動かした鳴海は顔をあげて、すぐ横の、ライドウの様子を見た。少し焦げ臭い。頬にはすすが付いている。

「お前、怪我は」

 乾いた喉で一所懸命に唾を飲み込み、ライドウは「平気です。すべて治りました」と、からまった声で答えた。
 使役する仲魔の術で少年の傷はすべてあとかたもなく完治する。
 それでも。

 鳴海は怪我を負ったライドウの体を抱きしめた。
 げんこつ以上に力強く、抱きしめた。
 首筋の匂いを嗅いだ。汗の味をかすめるようなキスで確かめた。ライドウの肩に顔を埋めて、じっとそのまま、動かなかった。
 絞れるような熱いため息を学生服に湿らせて。

 力強い腕の痛み、頭や胸の圧迫感、呼吸の苦しさを覚えながらも、ライドウは彼を慰めようと、落ち着かせようと、肩や背中をぽんぽんと叩いた。涙は浮かべる程度にとどまった。ため息をつけば雫にもならずに引っ込んでしまう。唇をぐっと噛みしめて、彼の呼吸を整えようと背中をさすった。どんな言葉をかけていいのかわからなかったし、なにかを口にすれば、鳴海以上の愁嘆場を迎えてしまうと理解していたからだ。


 このようなこと、浅いところでいつも軽くかわしていたのに――。


 そうやって触れずに暮らしてきたのだ。
 どうしようもなく重い事柄は決して上澄みにのぼらせない。
 感情を差し挟み、どろどろにかきまぜないように注意していたのに、自分のつまらないいたずらでこの人は。

 考えよう。なにか気を晴らすものごとを。なにがいいか。どんな話題があったか。

 背中をさするたびに肩がひきつれて、ライドウはおかげで気晴らしになりそうな話題を見つけた。

「……新しいサイズを誂えてもらわないと」

 尋ねるように止めた息差しを聞き逃さずにライドウは会話を進めた。

「もしかしたら、成長しているのかもしれません。最近、肩がひきつれて」

 刀を振るうのにも苦労しますといらないことは誤魔化すように口をつぐみ、ライドウは鳴海の出を待った。
 腫らした顔をあげて鳴海はライドウの微笑を見た。
 少しの冗談を言いそうな、ランプのようなあたたかい表情だった。

「ほんとか」
「ええ」

 ほんとか、の響きがすごく真剣で、ライドウはこわくなってしまった。微笑はそのままだが、そのままでいてしまう強ばりを生んだ。
 ライドウは詰め襟をはずし、肌脱ぎの状態になって肩を見せた。
 見てもわからないが、鳴海は「それなら計ってみようぜ」と巻き尺を取りに立ち上がりかけた。
 くん、と足下の障害を忘れていた鳴海を、ワイシャツを脱ぎかけた半裸のライドウが慌てて支える。
 半端にほどけた靴ひもは左右に団子を付けたまま垂れていて、鳴海はそれを自分の靴で踏みしめてしまったのだ。
 大人ひとりの、バランスを崩した体を階段で支えるのは容易ではなく、衣服の乱れもあってか、鳴海とライドウは重く鈍い、痛い音を立てて3段下の床に転倒した。


 ひぐらしの鳴く声が聞こえる。
 天井は明かりのついていない飾り電球がぶらさがって、影が色濃く染みのついた木目と仲良くしている。
 午後六時──雀色の時をふたりで眺めた。

「……日、長くなったな」
「……はい」
「痛くないか? 大丈夫か?」
「はい。鳴海さんは」
「俺は平気」

 仰向けに寝転がり、お互いを見ることもなく訥々としゃべる。本当は節々が痛んだ。どこかにあざを作ってもおかしくなかった。
 はだけた胸とくたびれた脚。しわくちゃの白いシャツ、焦げつきが付着してところどころ灰色になったベスト。
 横たわる両腕と握り合う手のひら。
 かばうように、受け入れるように。

「俺が泣いちゃいけないよな」
「僕は、嬉しかったです」
「ほんとかよ」
「ほんとですよ」

 顔を見て笑った。
 深く握られた指先の感触に満足したように、ライドウは起きあがって「ごめんなさい。靴ひも、外しますね」と鳴海の靴を脱がした。

 目で追ったライドウの白い肩は骨も筋肉も前と変わらずなめらかで、抱き慣れているかたちのままに思えた。ひきつれたのは自分が抱きしめていたからだろう。鳴海は足指をわきわきと開き、靴下の中で芋虫のように遊ばせた。なにかいたずらをする前の仕草だ。靴ひもを直すライドウはそれを見て、見ないふりをした。
 うつむいている顔と、それによく似合う、やさしい唇。
 やがて身を起こす衣擦れの音。

 肩に触れた唇はやわくも少し震えている。
 たまらずライドウもくすくす笑って、今度はここへ、次はここと、うなじや背中を丸くくねらせ鳴海を誘う。
 古びた衣服はするすると床に皺を打ち、少年のしなやかな全姿とともに、彼の逸楽になびいていった。



 終
 09/06/27(土)