雨月に惑う

 昨夜、碗に映る月をつかまえたばかりだ。

 まるで今しがた掬ったように、水を一杯に張った茶碗を、僕は両手に掲げ持っていた。胸元に水を受けながら、星と位置とを伺う僕の頭は、うろうろとさまよう足と一緒に、手元へ月へとよく動いた。

 やがてぴたりと見定めてから白い碗をのぞき込むと、ぽっかりと浮かぶまんまるい月が、ゆらゆらと両手の海に輝いていた。僕は遠くを振り向き、笑いかけた。

 最上の胡桃を踏みしめるような、贅沢かつ心地よい靴音をさせて、彼は穏やかな微笑みを崩さず、僕のそばまで顎を寄せた。夜の香りがした。

 碗をのぞきこむ動きにも胸は奇妙に高鳴ったが、鳴海さんはふっと笑って「正解。よくできました」と、すぐに顔を離してしまった。両手は僕が月探しをしている時からここまでずっと、ズボンのポケットに入れられたままだった。

「謎かけを受けて、僕はちゃんと解きましたよ」

 さびしさからだった。僕はその場から動かず、鳴海さんの背中に追いすがうように話しかけていた。
 月をつかまえる方法はと問われて、僕はしばらくの間考えた。やがて深川の町の片隅に見た、長屋が多く軒を連ねるあの一角で、ままごと遊びの名残だろう、雨の降る晩に置捨てにされた茶碗に、月がぽちゃぽちゃと雨粒を受けて、瞬いていたのを思い出した。

「俺が答えたかったんだけどね」

 鳴海さんは振り向いた。

「お前さんときたら、本当に、ちゃあんと解いちまう」

 冷えた空気のせいもある、遠く澄み渡る彼の声に、僕も大きく口を開いた。

「答えられる僕と、答えられないほうと、どちらが好みなんです」

「どっちも」彼は吹き付ける風をものともしない笑顔で答えた。「どっちも、あぁ、かわいいと思うね」
 そして鼻に当たったなにかに気づいたように、少しだけ視線を上向けたあと、徐にポケットから片手を出した。「雨だ」

 手のひらに感じた雨粒を、手元の月も滴を跳ねさせながらゆらゆら受けた。僕は天を仰いだ。月の光を道標にしたような大きな雨粒が、筑土町へ、銀楼閣の屋上へと降ってくる。

「帰ろう、ライドウ」

 悪かったように眉を下げて、鳴海さんは僕の腕を軽く引いた。僕は動かなかった。鳴海さんがそばへ寄るあいだに僕はうつむき、手元の碗をじっと見つめて、月のゆらぎを、いつしかあのままごと遊びの名残を、瞳の奥に思い出していた。僕の学制服は二の腕に硬い皺を刻んだ。動かない僕の真正面に立った鳴海さんは、おそらくだけれど、うつむいている顔を見て、それから碗へと視線を落としたのだろう、ぽちゃぽちゃと揺れる水面にちらと、彼のくせっ毛が映りこんだように見えたのだ。碗をつかむ僕の両手を掬うように、下からそっと包み込んだ彼の双手のあたたかいこと。彼が碗を傾け、月を飲み干すまで、僕はふたつの手の行方から目を離さずにいた。雨が降っている。

 鳴海さんはからりとなった器を見せてくれた。
 月は雨にも陰らず丸い円をいくつも描くしとどに騒がしい薄い水面を照らしている。
 鳴海さんは雨が沁みるように片目をつむりかけた。頬肉がゆがんだのは、けれどそのせいではなく、僕に笑いかけていたからだと思う。

「帰ろうか」
「はい」

 雨に濡れた服は胸や腿に生地がぴったりと張り付いて、どの部分もひきつれるように重かった。屋上のドアを閉める間際に、僕はこれまで尋ねなかった当然のような質問を口にした。――

「それはお前」

 僕を先に屋内へ入れた鳴海さんは、顎から雫を垂らしているのに、まるでからりと晴れ上がったように笑った。

「さびしそうに見えたからさ」

 轟音を立ててドアが閉まった。
 雨音が遠く、静かになる。鳴海さんはすぐそばで僕を見ている。髪の毛から頬を伝い、涙の軌道を沿ってこぼれ落ちるひとしずく。同じようにずぶ濡れの、見つめ続ける目の前の人。
 さびしさ、泣きたい気分、そしてどうしようもない欲情とが、水たまりのように胸にわいた。


 僕は風呂場の壁に身を預けた。
 鳴海さんの首に腕をまわし、熱いシャワーを彼の背中越しに浴びながらする口づけは、とても長く、しつこく、途切れることなく繰り返され、僕の舌と彼の舌は、排水口に淀む髪の毛のように絡み合った。
 唇の角度を変えるたびにお湯を飲み込んでしまったが、それはとても甘く、もっと飲みたいと渇望するいとおしい匂いに満ちていた。
 いつしかこのなまぬるい舌の感触が体全部を覆うように思われて、僕はすっかり水の中にいる気持ちで、その時を、彼の肌すべてを優しくねぶれるうたかたの流れを、口の中いっぱいにくくんで、夢見続けた。

 胸も脚もこすりあわせ、一番に自己主張する僕の泣きたいように勃ち上がったそれを、鳴海さんは丁寧に口に含んで、慰めてくれた。僕も求め、労るように愛撫を重ねて、胸を、腹を舐めさすったものの、どうしても性急さが舌と指とに現れて、うまくいかない。僕は震えていた。恥ずかしかった。鳴海さんはなにも言わなかった。
 ぬるついた手で腰をさぐられるうちに、僕の姿勢は自然と楽なかたちに組み替えられて、彼に尻を差し出す格好になった。数本の指で揉みしだかれた菊口は、焦りや情けなさを内から外へと掬いとられたように花開き、熱いシャワーを感じて、恥じ入っていた。
 たらたらと、僕の先端から透明な液が糸を引いた。
 背中に熱を感じ、壁に両手をついた自身の節くれにぐっと顔を近づけたとき、僕は静かに息を抜いた。

 流れ続けるシャワーのお湯を排水口が処理しきれなくなっても、僕と鳴海さんはばしゃばしゃと足指に気持ちいい水音を立てながら、お互いの熱を吐き出し、ぬるつく肌から脈打つ内へと、飽きることなく精をなすり続けた。


 ゴウトは僕の部屋で眠っていた。
「おやすみなさい」と声をかけて、扉を閉めた。
 寝間着を取りに戻ったのだ。すぐにそれを着込んだあと、緑色の目が視界の片隅に映らないように、僕はそうっと部屋をあとにした。

 耳の奥に細かい音が流れている。川のせせらぎにも似ているそれは、あまりにも長く浴びすぎたシャワーの音かと思ったが、ふと見た窓の様子で、僕はまだ雨が降り続けていたことを思い出した。


『どうして、月をつかまえたいと思ったのですか』


 まるで最初から日向の恩恵を受けていたような、雨の手数をものともしない鳴海さんの清あたたかな横顔が夜の目に浮かぶ。
 しめっぽさなんてどこにもない笑顔で「それはお前、さびしそうに見えたからさ」と答えたあの人は、月を飲み込めて幸せだったのだろうか。

 社の明かりを点け、檸檬色に薄暗く光る室内の、すずやかな空気を鼻から深く吸い込んだあと、ソファに腰掛けた僕は、壁や窓を予定表代わりに、さして見るものもなく、雨音に肌を打たせながら、じっとまばたきを続けていた。

 照るものがなければ、降るものがなければ、あの碗も静かにそこに横たわっていられたろうに。
 僕が見つけることもなかったろうに。
 碗と月、お互いをひとりぼっちに感じたまま、遠くの水面に在るのを知るだけなのに。
 僕はふるえるようなため息をついた。こめかみからY字に、耳と頬が赤く、熱くなる。

 肌寒くもあったが、それより強く、肩と心が痛痒い。
 視線を感じるだけで、そこから彼の唇を思い出す。愛撫されているような、甘くくすぐったい、このざわめきはいつになっても僕には慣れない。
 ようやっと、扉の陰から足音がして、僕の肩にものが触れた。膝掛け用の毛布だった。

「風邪ひくぞ」

 鳴海さんは隣に座った。どうということもない顔だった。
 僕は会釈をして、それからしばらく、なにも言うことができなくなった。
 見ていたくせに、どうしてこんな、煙草を吸うような表情を見せるのだろう。僕ばかり、心を撫でられて。
 壁を見つめたまま唇をつぐんでいると、じわりと滲んだ視界を感じ取ったか、鳴海さんはソファに置いた僕の右手をぎゅっとにぎった。僕は鳴海さんのほうを振り向いた。唇や顎を上向けて、少し身を揺らしながら、彼はそっぽを向いていた。

「笑うなよ」
「おかしいですよ。今さらそんな、照れくさそうに」

 僕は手を握り返した。髪の毛にかぶされている鳴海さんの耳が見えたらいいのにと思った。黄色くても赤くても、そこにしゃぶりつきたくてたまらない。

 ――「」。

 ぞ、と腹の底を逆撫でされた気がした。
 僕は気配を探ってすぐに、向かいの椅子の下になにかを見た。

「鳴海さん」
「ん」
「僕、今日は帰りが遅くなると思います。後回しにしていた仕事を少しずつ片づけていかないと」

 いけないので、という間に、握り返している指の間が、期待はずれのように力を無くして、たるんでいくのがよくわかった。僕は続けた。

「仲魔の能力も刀の鍛えも足りません。僕自身も……なので、今日といわずにしばらくは、日の暮れを過ぎても帰ってはこられないかと」

 向かいの椅子の下から血と泥にまみれた僕が這いずり出て、こちらの有漏を思い知らせるように、陥没した両目と黒い口の中を見せていた。

 わかっている。わかっている、大丈夫だ。

 僕はそんな風には、鳴海さんの預かり知らないところで終に迷うことには、絶対にならない。
 なっては、いけない。

「あんまり、無理するなよ」
「はい」

 それからさ、と鳴海さんは僕のほうを向いて笑いかけるように口を開いたものの、そこから出てくるはずの言葉は奥歯と舌の間へためらいがちにはさまって、自分で掻い出すのにも時が要った。『これは間違いじゃないのか』そんな陰影が顔の端々に滲み出ている。

「大丈夫です」

 僕は鳴海さんの手をしっかりと握った。
 こんなことは何回も繰り返している。言わなくても、あなたの想いはわかっている。
 そんなふうに顔をまっすぐに見つめると、鳴海さんはちょっと驚いたようにまぶたを持ち上げて、それからかなわないように笑った。

「そうだな」

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。
 ひとりごとを言うように僕の手を離し、両膝に肘をついて口元を覆い、手のひらにため息をつく。身をゆらす。頭を抱えるように、指先にきつく皺を寄せて、ぎゅうっと目元を押し込む。
 僕は雨が降り始めた頃のことを思い出していた。


 ……「もう、なくなった」飲み干した碗を僕に見せた鳴海さんは続けて「さびしいか?」と声をかけた。「いいえ」僕は雨の味を知った。「もう、なくなりました」唇の両端を持ち上げた時に僕は雨とさびしさの味を知った。鳴海さんも笑っていた、今度こそは確かに。


 僕は。



 鳴海さんは立ち上がった。
 きっぱりとした面立ちで「おやすみ」と、まるで泥にはまって動けなくなった車が誰かの手でやっと押し出されたように、僕に宣言した。


 篠突く雨は止みそうもなく時折繁吹いては地鳴りのように建物を震わせ、僕はといえばその場から動かず、鳴海さんの背中を追いすがうように見つめている。

 この前は、そう、同じように雨が降っている時で、でも音はとても静かな月夜だった。


『ソファに座っている僕の肩を抱き、無理はするなと、見ていて灼け付くように張りつめた肌をさすりたかったと、それでいて自分こそがあいつに無理をさせているのだろう、あまりかまうようなことをするんじゃないという気持ちと、それでもやはり、目で追ってしまうこの近しい距離を、俺はありがたいと思うし、決して否定したくはないのだと』。

 鳴海さんは言ってて口から吹き出した。

「なに言ってんだかよくわかんなくなった」

 僕は下目がちに薄く笑った。ちょっと微笑んだまま、下を向いたというのが正確かもしれない。
 口にできるような思いではない場合、みずから茶化して真剣さをごまかしてしまうものなのだと、まるで笑っていない鳴海さんの目がそれを教えてくれた。


 けれど、さっきの鳴海さんの目は、あんなふうには。


 僕はのろのろと立ち上がり、背もたれに落ちた膝掛け用の毛布をたたんでから、なにかを忘れているようなひどく緩慢な動作で応接間を振り返ったあと、じっと雨音を見つめながら、明かりを消した。

 廊下は窓から差し込む月明かりに照らされて、青白く透き通る雨模様を板の間にゆらゆらと浮かび上がらせていた。
 車軸を下す音がさきほどよりも強く耳をつまらせる。
 僕はなぜか、深川のあの白い碗のことを思い出していた。

 そうだ、あれも白かったのだ。子供が使う大きさの薄汚れた白に薄墨のような染みがついて、縁が少しだけ欠けていて──ほんの数時間前、鳴海さんもあれを持っていた。


 僕は、泥棒だった。


 ドアノブを回す手が止まってしまう。耳に痒み。胸元に熱がたまる。僕は振り向かない。横を見てはいけない。突き当たりには格子のはまった窓があり――

 狐の嫁入りは今も続いて、月明かりに影が長々と伸びている。その影が、僕のほうへ、ゆっくりと染み渡る。ノブが回せない。鈍足が迫り、僕の手はきつく握られたあと、ひねられるように上へ、そして背中はドアの彫り目に押し当てられた。

 扉に被さる美やかな影と痛ましい重み、記憶の中にあった唇が重ねられて、ドアの飾りとなった僕に鳴海さんは何度も何度も口づけた。そのころには僕も抱き合って、悔しさに涙を流していた。
 やがて頬にも口にもあのやわらかい感触が降りてこなくなったころ、僕はまぶたをやおら開いた。

 雨音のなか、見つめ合った。ため息が聞こえる。とても悲しい、とても肌寒い、そしてとても――あぁ。


 月を飲み込んだあの人は、僕と自分のさびしさを、とても熱っぽく息にした。


 逃げる立場を入れ替わり立ち替わり、なんどもなんども同じことを繰り返して、今度はどちらが碗か月かを、そこに雨が降るのを待ち望んで、ぐるぐる、ぐるぐる。


 僕はこの人がいるかぎりさびしさを覚えていくのだろう。
 それがとても嬉しいと感じる、この情けない心。抱き合う腕。
 緑色の瞳が扉の向こうで睨んでいる。

 昨夜は碗に映る月をつかまえたばかり。……



 終
 09/04/22(水)