蝉と文鳥・全文

 蝉



 白くやわらかなものが頬をかすめた。
 追ってみると翼ある小さな後ろ姿が目に入った。
 坂を越えてゆく鳥に興味を惹かれたか、少年は黒外套をひらめかせ駆け出していった。
 なめらかな鏡となった水たまりに黒靴が波紋を立てると、夏色の空はさかさまのままゆらゆらと揺れた。
 水面が静まり雨上がりの空を銀色に映し出したころ、少年は赤色の大きな屋根が特徴の時代ある屋敷の前に身を遠く、小さくしていた。

 見上げると窓。
 小鳥は開け放たれたそこへ意思ある木の葉のように入っていった。
 門前で立ち尽くしていると小鳥の飛び込んだ部屋に人影が見えた。
 肩までの黒髪をきれいに切りそろえた令嬢だった。
 少女の横顔は申し合わせたように小鳥を招いた風の吹く空を眺め、かたちを変えて下方を向いた。
 少女は微笑んだ。
 少年は見つめ返した。
 微笑みが招待となった。


「前にお会いしたのは一ヶ月前かしら。この子に感謝しなくてはね」


 日の陰った室内、籠のふたを閉めようとはせずに伽耶は、籐で細やかに編まれた格子をたおやかな指先でつと撫でた。中に文鳥がいた。小柄な白い鳥は自らの羽毛にくちばしを埋めている。

「それ、文鳥だったんだね」

「気が付かなかったの?」

「鳴かなかったから。後ろ姿だけじゃよくわからない」

「坂を駆け上る理由はそれで充分なのね。白い鳥が何かということだけで、あなたはその黒いマントをまるで翼のようにひらめかせる」

 羨ましいわ、と伽耶が呟いた。
 風が吹いて伽耶の髪の毛をさらさらとすくった。

 少年は琥珀色の飲み物をくいと傾けた。
 氷が白銀の紗を流れゆくような素晴らしい音を立てる。
 器が一級品ということはようと知れた。
 甘味豊かな冷たい紅茶の美味さに少年の汗も急ぐに引いてゆく。

「おいしい」

「それはよかったわ」

「ひとつ聞きたいんだけど」

「なにかしら」

「文鳥を飼っているのに、どうして窓も籠の檻も開け放しておくの」

「逃がそうとしているからよ」

「帰ってきてる」

「それが困るの。何度外へ逃がしても、必ずここへ戻ってくるのだもの」

 少年が大道寺家の伽耶の私室へ招かれたときも、窓はおろか部屋の扉が開かれていた。今もなお開け放たれている。おかげで風の通りが良い。黒猫まで入ってきた。少年は鼻白むように猫を見た。明らかに猫の目線は文鳥を狙っている。

「君、追い出さなくていいのかい」

「だから何度も外へ逃がしているわ」

 少女は何ものをも構うことなく椅子に座った。背もたれに腕ごともたれかかり、寝かせた横顔で退屈そうに猫を見遣る。斜めに傾けた顔に黒髪がさらりと落ちた。
 猫の前足に重量がかかった。飛びかかろうとする寸前、目の前に毛むくじゃらの細長いものがちらついた。それだけで文鳥の存在を忘れた。
 少年は猫じゃらしを使い、猫を部屋の外へ追いやった。獲物を廊下へ放り投げてドアを閉める。興奮しきった黒猫の、爪を立てる音がドア越しにも伝わった。

「あれを飼うのかい」

「いずれ鈴をつけてあげなくてはね」

「今したまえよ」

「怖がって逃げ出すかと思ってね」

 伽耶の文鳥を見る目は静かだ。
 ライドウは静けさに波紋を立てた。

「君、いらなくなったからってドアも窓も籠も開け放してしらんぷりはないだろう」

「ずいぶんと同情的ね。いいのよ、今はまだ私の文鳥なんだから」

「じゃあ僕がもらうよ」

 伽耶は驚いたように、もたれかかっていた椅子から身を起こした。丸い黒瞳が白顔の少年を見留めて何度も瞬かれる。

「まだ聞いたことはないけれど、その文鳥は君より声が綺麗だと思うから」

 伽耶は華栞のように、薄く、美しく微笑んだ。黒髪などまるで銀の音を奏でそうにさらさらとしている。
 彼女は立ち上がり、籠の中の文鳥を愛おしく見つめた。籐格子を閉める指は恋人の唇に触れるようなやわらかな曲線を描いていた。

「籠ごと差し上げるわ。大事にしてあげて」

 両の手から受け取るとき少年は、ずっと微笑んでいた少女の笑顔がにわかにかき曇るのを見た。

「どうしたの」

「蝉」

「え?」

「鳴いているわ。あれのせいでこの子の声はずっと喉元に閉じたまま」

 深緑色の木々のそこここに、蝉は絶え間無く鳴いていた。
 伽耶は忘れていたのにと、こめかみに指を押し当て髪の毛を留めた。

 忘れることなんてできるのかい、ずっと鳴いていたのにと少年は聞いた。

 あなたは顔も声もきれいだもの、どんな音もかき消えてしまうわと少女は答えた。

 影の濃い部屋だ。少年の目はちかちかと疲れを覚えた。伽耶の後ろに覗く銀縁の窓から白い雲が見える。夏の空と蝉の音、太陽、太陽と叫ぶ日向の世界。

「うるさいの。一番嫌いな音よ。
だってそうでしょう、蝉が鳴く音ってまるで」





































蝉と文鳥





































 わんわんと鳴く音が頭に残ったか、その日ライドウはなかなか目覚めなかった。
 今日も文鳥は鳴かない。自室のベッド脇にある鳥かごを見て再び目を閉じる。眩しさが眉間に皺を寄らせた。
 音の混じる朝日をうっとおしく感じたライドウは、脚に弾みをつけて寝床から起き上がった。にくにくしい目をしている。

『遅い目覚めだな』

 カラスが扉の隙間から入ってきた。彼がいつでも出入りできるようにライドウの部屋のドアは完全に閉め切られることはない。少年は「おはよう、ゴウト」となれなれしく当たり前のように声をかけた。

『細長いうめき声が聞こえた。夢見が悪かったのか』

「蝉のせいだよ」

 今聞こえるのは悪魔の斃れる音と、斬撃を振るう、己の太刀の残響のみだ。
 手水鉢の底の底、修験界と呼ばれる修練の場所にてライドウは百の悪魔を屠っていた。

 傷ひとつ負わず灼眼の老悪魔の手助けも不必要とばかりに次から次へと悪鬼どもを白刃の餌食としていく。
 襲い来る悪魔を見る目は冷たくもなく燃えてもおらず、ただただ途切れることのない集中力でもって討ち伏せる陣を練り上げていた。

 蠅の王に悪魔召喚師としての力を認められて、彼は刀の血を振るい落とす。
 腰の鞘に刃を収めて、老悪魔を管に戻して歩きだしたその時に、ライドウは初めて足を滑らせた。自らの振るい落とした血だまりに靴が滑ったのだ。失態はそれだけだった。

 膝を打った時に「いた」と漏らす少年を見てカラスのゴウトは口端に糸くずのような皺を作った。どうとも読めない。

「いやになるな。血がついたよ」

 少年はそれまで返り血も浴びていなかった。






 血のついた手と制服を洗った満月の夜、ライドウはもうひとりの自分と会話をする夢を見た。短い日の思い出だった。

 名も無き神社の境内に背を向け少年は石階段に腰掛けている。
 ぼんやりとしていると背後に気配を感じた。
 ライドウは振り返ろうともせずに声をかけた。

「ここ、静かだね。蝉がいなくて」

 黒猫を従えた長く黒い脚が上に伸びている。黒い学生服、黒外套に学生帽、衣服や背格好までライドウによく似ている影法師――後ろに佇むその人物の顔には大きなふたつの斜め傷が刻まれていた。雷堂だ。
 彼は影が降りている目線をライドウに向けていた。

「君はもう捕まえたことがあるかな。ここの木に黒蜜やアイスクリンを塗ると、満月の晩に立派な昆虫が採れるんだ。虫好きの悪魔と交渉してお宝に代えてもらってもいいけれど、まずは虫相撲で遊んでみるといい。僕はカブトムシがオオクワガタを角でひっくり返すところを何度も見た。長生きさせるにはね、蜂蜜を水で溶かしたのを綿に含ませてやるといい」

「昆虫の飼い方を知っている我と話をすることなど、これから先二度とあるまいな」

「やっぱりカブトムシの飼い方なんて知らないか。僕も帝都へ来てから覚えたんだ」

 鳴海さんから教えてもらうといいよとライドウは振り返って瞳を細めた。大家のほとぼりがさめたころ、覚えていたらそうしようと雷堂は答えた。

「隣に座ってよ。首が痛くなるの、僕いやだな」

「まだ長話をするのか」

「君はもうひとりの自分と話をしたいと思わないの」

「角柱をまだ集め終えていないだろう」

「あと一本。すぐに終わると思う、だからさ」

「なんだ」

「聞かせてほしいんだ。
君、鳴海さんから『おかえり』って言われたこと、ある?」

 雷堂はそのあまり開かない目をまるくして、幼い子供のような口調を改め、整えようともしないもうひとりの自分を興味深く見つめた。
 心を分けた兄弟を見上げるように、その瞳は黒く澄み切っている。
 幼稚、あるいは白痴さを思わせるすれすれの口調なのに、どうしてか蔑むことも哀れむことも、また無視することもできない不可思議な魅力を持ったもうひとりの自分がそこにいた。

「あるぞ」

「いつ頃言われたの」

「帝都の探偵社へ来てからすぐだ」

「君と僕はやっぱり違う。君は鳴海さんに気に入られているんだな。羨ましいよ」

「くだらん話は」

 小さな虫が顔についたように雷堂は眉をしかめた。何かに思い当たってしんと尋ねる。

「貴様は元の世界に帰りたくないわけではあるまいな」

 ライドウは自分と同じ顔の人物を見つめ続けていた。何も言わず、微笑みながら。

「角柱集めもせずにこうしていちびっているのは鳴海の反応が」

「帰りたいのは山々。風呂も入りたいしね。だけど君もいずれわかるさ。最初のうちは僕だって『おかえり』と言ってもらえたよ。きわめて明るくね。だけど次第に僕が鴉に飼われた狐とわかってくると」

 黒猫がにゃあと鳴いた。よく見知っているほうのゴウトだ。それ以上言うなと声も目も語っている。
 ライドウは斜めに視線を落とし寂しそうに口端を持ち上げた。

「君の言う通りだ。のんびりするわけにもいかないな。
 じゃあそろそろ、みっつめの角柱を取ってくるよ」

 伸びをしながら立ち上がるもうひとりの自分を見て、雷堂は軽い嫉妬にも似た感情を覚えた。
 刀の鞘で討ち伏せたい気持ちにかられたが、自分とは段違いの経験を持つ目の前の十四代目に敵うはずがない。
 この小生意気な少年は遙か先の道のりを歩んできているのだ。

 別れる際にライドウはにこりと微笑み、変わったさよならを告げた。

「君の世界の鳴海さんが、籠の戸をきちんと閉めてくれる人であるように祈っているよ」

「カブトムシの話か?」

「そうだね、そちらでもいいけれど」


 机の上に書き置きが残されていた。


「籠の戸を開け放して、虫や鳥を飼う人にならないよう」


 探偵社の扉は旋錠もされていなかった。



「どうかしたか、ライドウ」

 うなされていたらしい。
 肩を揺する鳴海の顔が目に入った。
 息を吐くと自分が大量の汗をかいていることに気がついた。触られている肩に不快感を感じる。

「大丈夫、です」

 そう言ったつもりが随分と喉が枯れていた。
 鳴海はしかめた顔のままコップの水を寄越した。用意がいいのがこの人らしいとライドウは思った。
 申し訳程度に水を飲むとタオルで額の汗を拭かれた。
 どこまでも、どこまでも。 ――こんなことばかり。

「一緒に寝ませんか」

「冗談。ゆっくり休め」

 どんな顔をしていたろうとライドウは白いタオルを握りしめて、鳴海が消えたドアを、疲れた眼差しで見続けていた。
 鳴海は噛み合わせの悪い薄ら笑いを浮かべたライドウを思い出して、忘れようと手を洗った。自分も水を飲んで床に就く。夜はまだ長かった。


 翌朝、文鳥の話になった。

「ここに来て三日。こいつは本当に鳴くのか?」

「えぇ。伽耶さんよりも良い声で鳴くはずです」

 ライドウは鳴海を見ようともせずに箸を進めている。
 鳴海の顔はこれ全身ため息という風に気力がなかった。
 箸を置いて、軽い朝食を終わらせる。

「猫を飼うからって、食われそうになっても文鳥を放し飼いにしておくとはね」

 お嬢様の考えることはよくわからないなと話しかけた。
 ライドウは「そうですね」と答えた。
 大根の浅漬けをぱりぱりと食みながら「結婚するそうです」とも答えた。

「そうなのか?」

「婿養子に迎えるそうです。工場のこともあるし、何より彼女はこの時代の誰よりも先の知識を持っている。一代で大名士と成りうるでしょう」

「そりゃまた……なんで」

「“将来人”の記憶書き換えが成功したからです。この時代には存在しない知識と現在の知識、それらが混濁した場合は“鬼憑き”と呼ばれる人格崩壊が起こりますが、彼女は知識だけを残して“将来人”の影響を切り離した類い希な成功例となった。先の時代の知識を活用するだけの機知がある彼女ならば、大道寺家が帝都一の大富豪となるのはそう遠い話ではないでしょう」

 明日の家賃も不安の残る鳴海は「ははは」と情けない笑みを漏らして頬杖をついた。

「それで……文鳥とどう関係が?」

「黒猫はその婿養子の連れてきたペットだそうです。本人はまだ大道寺家に来てはいませんが、先に新しい屋敷に慣れさせておくのもいいだろうと。猫は家に住むといいますから」

「まだわかんねぇな。だからってなぜ逃がそうと。部屋を別々にしておけばいいことだろうが」

「夫となる人物も文鳥の部屋に入ります」

「あぁ……そらそうだろうな」

「伽耶さんはそれを死ぬほど嫌った。自分の大切なものが他人の目に触れるのがたまらなく嫌だった。理由はそれです」

 全身から力が抜けていくのを感じながら、鳴海は頬杖だけはそのままに、少年の話を聞いていた。
 ライドウはとうに食事を終えていた。
 箸を置いて座姿勢を正す。

「いくら逃がしても籠の中に戻ってきてしまう。そのことを嬉しくも思ったけれど、それはやはり意に添わないのです。
『自由が嫌?』と文鳥に語りかけた伽耶さんの横顔、僕は今も瞼の裏に見ます」

 銀の棘よりも鋭い美しさ、少年は彼女の瞳に憧れた。

「あんな風に生きられれば、どんなにか」

 籠の中で沈黙する文鳥を蝉の声が責め立てる。空は今日も高く広い。
 鳴海は立ち上がった。済んだ皿を流しに運ぶ時も、少年は動かなかった。






 午睡に耽る鳴海を見て少年は『だらしのない』と思った。彼は所長椅子に背を預けていた。
 不愉快さを夕暮れどきまで鳴く蝉の音のせいにして、書生は夏用の薄い毛布を持ってきた。
 上司にかけるつもりが気が変わった。かたちのよい唇がやわらかに閉じられているのを見たからだ。夕日よりも濃い影を彼の頬に落とす。
 冷たいやけどをしそうと思ったか、少年の指は彼の腕にそっと置かれるだけに止まった。
 腹部からとくとくとこみ上げるいとおしさが唇の感触をよりふくよかなものにする。鼻息がくすぐったい。

「ん」と漏れた声にライドウは笑った。眼差しだけで微笑んだ。
 さらに深く重ね合わせようとすると両肩を軽く押された。わずかの抵抗である。それが少し嬉しかった。

「なに」

 ようやく見つめ合えるくらいに離された唇がまず口にした言葉だ。鳴海の目はまだ寝ぼけている。

「起きてください。風邪を引きますよ」

 毛布はとうに床に落ちている。少年は無抵抗の彼に乗りかかり、椅子ごと恋人のように抱きしめた。
 だっこをするはめになった鳴海はしょうがないという顔でライドウの背を抱く。

「お前さんじゃ毛布の代わりにはならないよ」

「それはそうです。僕で我慢なさい」

「なにその高慢な態度」

「いいから」

「よくないよ。降りろ」

「鳴海さん」

 名前を呼ぶのと顔を胸にすりつけるのはほぼ同時。
 鼻孔をくすぐる男の匂いを楽しみながら「鳴海さん」「鳴海さん」と甘みのある声で彼にじゃれつく。
 どけようとしたのか、鳴海は少年の頬に親指を押し当てた。口元までずろうとした時に彼は低く呻いた。親指をしゃぶられたのだ。
 ちゅうちゅうと鬱血するくらいに舐められて、口の中で転がされて、まるで男根の代わりのように翻弄されたあと、かわいそうな親指は、付け根をおもいきり噛まれてしまった。
 それからまた、慰めるように舌が這い――黄昏時の静かな部屋にちゃぴちゃぷといやらしい音が響く。
 ライドウは胸元に顔をすり寄せたまま、やや首を傾いだ上目遣いで彼を見上げた。
 彼の唇はうっすらと開いて、音無く息を荒げている。親指を含んだ口の端がにぃと持ち上がった。その眼差しは妖精よりも悪戯に思えた。
 ふやけた指をちゅぽんと放し、それでも『まだいじめ足りない』と真黒き瞳で物語る少年は、秘めやかな声でこう囁いた。

「痛いのがお好きですか」

 またがっている部位の変化を知ってのことだ。
 噛んだときに明かなふくらみを感じた。

 鳴海は少年を抱いた。
 日が橙色に燃え落ちるまで、隠そうともしないあえぎ声と水音が室内に響いた。

 腹の部位を汚した後もライドウは鳴海にしがみついていた。
「重いよ」と言っても離れない。
 背中を軽く、あやすように叩いても動かなかった。
 呆とした遠い目の少年が気がかりで、鳴海は少しの冗談を言った。

「ライドウ」

「はい」

「どっか行こうか。お前が気絶するくらいにさ、ぐだぐだぐだぐだセックスばっかするんだよ。どっか遠い所で。温泉街。行ったことなかったろ」

「ゴウトが許してくれるのなら」

「無理かな」

「連れ出して」

 はははと笑った。

「ライドウ、」

「お願い」

 頼りなく弱々しい声だった。
 鳴海は眉をひそめた。

「お願いします」

 ライドウの瞳は空気の底を見るように遠い。
 もたれかかったまま動かない。
 不穏な音がすると思って鳴海は鳴り響く耳元に意識を向けた。
 蝉の鳴く音が聞こえた。


 ひどい夢を見た。
 別に知りたくもない未来の記憶。戦争、キノコ雲、宇宙飛行、雑多の歴史とICBM、大洪水。
 それと共に襲いかかる悪魔など恐ろしくもなんともないが、処理しきれない時代の知識は少年の脳には負担以外の何ものでもない。
 精神の汚染だろうか。彼女はよくこんな膨大な歴史を耐え抜いたものだ。それとも不必要な歴史は忘れてしまったのか。

 そもそもこのアカラナ回廊へ来る前だって――

 あぁいやだ。

 自分たちのいる大正二十年は正史に存在しない歴史と知ったが、それは別段どうでもいいことだった。

 それとは別の、もっとずっと、いやなこと。
 金木はどうして光らない?――


 胃の腑が痛む声。少年はそれが自分の声ともわからずに闇の壁をもがいていた。誰かの引き絞る含み声が聞こえた。鳴海だった。
 鳴海が少年の手を握りしめて残る左手で小さな肩をベッドへ押さえつけていた。
 目の焦点が合うと鳴海の手の甲に真新しい朱の斜がいくつも見えた。ひっかき傷だ。
 自分がつけたものだと知って息を飲もうとしたが喉がつまってうまくいかない。
 呼吸のできない苦しみを察知するや否や鳴海は少年の手を離し、口づけた。
 閉じた喉に息が送り込まれる。
 口を離して息を吸い込みもう一度。もう一度。それでようやく少年は息を吹き返した。

 何も言わなかった。彼は傷ついた手甲で少年の額の汗を拭い、自然と返した掌で頬を撫でた。あたたかい手だった。
 見開き続けた眼がちっとも痛まないのは涙を流していたからだと、頬を撫でられた時に気がついた。

「すみません」

「謝ることじゃない」

「傷。傷が」

「そんなのはいい。なぁ、これからしばらく一緒に寝ようか? 俺を呼べと言っても息もできないんじゃあ」

 答えようとしたら激しく咳き込んだ。
 がばりと起きた少年の背をさすりながら鳴海は何かを決めたように窓の近くにいたゴウトを見た。
 カラスの眼で彼もこちらをずっと見ていた。鳴海を呼んだのは彼なのだ。

「明日からしばらくの間、休暇をもらえないか」

『そうお前に頼もうとしていたところだ』

「ありがとう。助かるよ」

 鳴海はいつものように眉を下げて笑った。ライドウは鳴海の胸で咳き込みながら悔し涙を落とした。


 富士子パーラーの前でリンと落ち合った。連絡を取ったライドウは籐で編まれた籠を両手に抱えていた。

「一週間の温泉旅行? うらやましいわ。お金持ちなのね、探偵さんって」

 銀縁の眼鏡を艶めかせてリンが笑う。
 伽耶からもらった一度も鳴かない文鳥の世話を頼むのである。
 ライドウは餌代にしては充分すぎるほどの手金の入った封筒を半ば強引にリンに手渡した。
 籠の中でおとなしくしている白い鳥を眺めてリンは穏やかな笑みを浮かべた。

「きれいな文鳥」

「伽耶さんからもらったものです」

「伽耶から?」

「いつ逃げ出してくれてもかまわないという風に、黒猫の出入りを許した部屋で、檻も窓も開け放して飼っていたから──」

「あの子らしいわ。猫の世話もしないくせにね」

「なぜ」

「嫌いなの。猫って自由だもの」

「そうかな」

「そうよ」

 いってらっしゃいと片手を上げて見送られたのがライドウには無性に嬉しく思えた。背を向けてから自然と笑みが浮かぶ。
 文鳥は束の間の主人の旅立ちにも無声で応えていた。






 空は曇り。
 旅館もそれに見合うさびしげな作りだった。
 冬になればよく手入れのされた庭園に雪が積もり眩しいほどの絶景を拝めるだろうが、あいにく今は蝉の鳴く夏だ。
 それでも色の褪せたねむの木や落葉松(からまつ)は薄光の下でかたちよく映えている。
 ここはどうやら浅間山に近い避暑地らしい。木漏れ日が太陽の盛りを控えめなものしている。
 ふたりは女将に部屋を案内されたあと、トランクひとつきりという荷物を降ろして窓を開けた。
 曇りの日でも空に何かを見つけたらしい少年は鳴海を縁側へ呼んだ。指をさす。

「軒下につばめの巣がありますよ」

 鳴海は少し微笑み、「もう巣立っているな」と答えた。

 畳は古ぼけてしけっぽい。前日は雨だった。


 布団の上で交わること数回。
 突き出される腰の動きに何度果てたことだろう。
 ふらふらとした目つきで快楽を享受し続けた少年は肛門から大量の精液を溢れさせて気を失った。敷布は雨のせいではなくひどく湿った。

 目覚めてすぐに存在を確認すると、少年は隣で煙草をふかす鳴海の胸に額をこすりつけた。匂いを嗅ぐように頬を動かし、彼のやや黒ずんだ乳首を食む。
 からかいに笑っていた鳴海も舌の動きがねっとりとしたものに変わると、灰皿に煙草を押しつけたのちに、ライドウの身体を組み伏せた。同じように淡紅色の乳首に舌を這わせる。吸い付き、少し噛むと、のたうった身体を密着させるようにして少年がしがみついてきた。唇を引き結んで鳴海の執拗な仕返しに耐えている。股間を擦りつけられるとたまらず声が出た。女でもないのに乳を吸われて感じ入っている。忘れようと脚を開いた。鳴海が分け入って熱いものを挿れた。それからまた敷布が汚れた。

 寝て、交わり、意識が飛ぶ。汗をかいたら風呂へ入り、食卓に膳が並んだら、音無く箸を動かした。そして床で交わる。泥の眠りに落ちる。

 二日間、それを心地よく繰り返した。
 三日目の朝に真新しい敷布の上でライドウが話すことのために口を動かした。

「うるさいと思いませんか」

「なにが」

「蝉の声です」

 さして気にも留めていなかったが、夜明けから蝉の鳴く音がしていたらしい。今もずっと鳴いている。七匹は近くで音を響かせている。

「響くというものでもない。わんわん声を張り上げてまるで狂ったように」

 ライドウは疲れたように布団から身を起こした。

「僕、蝉があんまりうるさく鳴いているのって好きじゃありません。なんだか、世界が終わっているかのように聞こえる。朝に目覚めて蝉の鳴き声が四方八方からするとうんざりする。外へ出ても、辺りが焼け野原のように思えて……」

 鳴海はどうということもない顔でライドウの話を聞いていた。天井の染みでも眺めているのではないか、そんな表情で少年の整った面立ちを見ていた。

「あの時も蝉がうるさく鳴いていたんです。晴海町の海が煮えたぎっていて地面もひどく熱かった。季節でもないのに蝉の鳴き声がしていた」

 人が焦げていた。太陽のせいではない。
 焼けるような日差しのなか、蝉が鳴いていた。
 焦土の街に佇む書生がいる。学帽の鍔に光がきらめいた。目元は影で黒く、頬には汗が伝っている。

「帰ってきたときに――蝉の鳴き声がしなくて嬉しかったんです。蝉さえもいなくなったのかなと思ったけれど、代わりに僕の好きな鳴き声が聞こえてきたから……」

 鳴海がライドウの手を引いた。少年は鳴海の身体の上に倒れ込んだ。まだ何もしていない朝だ。少年は不満も露わに眉根を寄せた。

「おなかが空いているんです」

「うん。わかってる」

 優しい顔をしていた。
 鳴海はあやすように小さな背なを軽く叩いた。
 少年の頭を柔和な掌でゆっくりと撫でて、深く匂いを吸い込み、焦げ茶の眸子を甘やかに閉じる。

「わかってるよ」

 ライドウは遠い瞳のまま鳴海のあやしを受けていた。やがてまぶたを閉じる。蝉は相変わらず鳴き続けていた。






 四日目に外出をした。
「夏祭りに行かないか」と鳴海が誘ったのだ。
 神社に近づくにつれ笛の音が高らかに肌に響いてくる。
 浴衣と下駄は旅館からの借り物だ。からころからころと砂利道をゆく。
 ライドウの足取りはおぼつかなかった。
 鳴海が途中途中で「やっぱり帰るか?」と尋ねたが、いずれの問も少年の首を横に振らせたのみだった。

「休みに来たってのに身体を動かしてばっかいたからなぁ」

「いいんです。僕もそうしたかったから」

「ん。そうか」

 参拝を済ませたあと、鳴海はライドウにりんご飴を買い与えた。
 あやかしの道が次々と現れそうなたくさんの提灯の並ぶ屋台小路、少年はぺろぺろと飴を舐め続けた。

「舌見せてみ」

 言われたとおりにすると鳴海の笑みが深くなった。

「ははは、真っ赤だ」

 屈託のない笑顔に心が締め付けられた。そこかしこにある赤い灯よりも少年の頬は赤いだろう。水風船にも劣る自身の心のうちがもどかしく思えた。彼への好意がいっぱいに詰まってそれはふとしたことで破裂しそうに大きくなる。
 涙が出る直前、彼に手を引かれた。

「見ろよ、風鈴だ」

 華奢な音の重なる風にも気がつかずにいた。
 硝子がこんなにも美しいものだとは、少年は潤む瞳も忘れてため息を漏らした。
 屋台に飾られた宝石の鐘、弾ける泡の音の連なり、赤青緑の透明なかたち、はためく短冊明かり白。
 ほれぼれとする感動。笛の音と混じる偶然の音楽。

「ひとつ買わないか」

 そうしたかった。ふたりで選んだのは金魚の泳ぐ絵が描かれた小ぶりの風鈴で、短冊は白い紗のちぎりの入った水色だった。鳴海が風鈴の入った小箱を脇に抱えた。

 甘いせんべいを買い、甘酒をちびりと飲む。
 懐かしさを覚えて立ち寄った射的では的を違えず粗末な作りのブリキのおもちゃを手に入れた。
 欲しがった坊主頭の子供にぜんまい仕掛けの商品を渡すと、ライドウは飴を咥えたまま不思議そうな顔をした。
 それが欲しかったのではないのかとまじめな顔をして尋ねられたので、鳴海は笑いながら「コルク弾の鉄砲を撃ちたかっただけだ」と答えた。

 月も映える帰り道。下駄の鳴る音が夜森に響く。
 笛と太鼓の音を後にして、ふたりは並んで歩いていた。
 星を見上げていた鳴海が小箱を指でなぞったとき、少しのつまらぬことを思い出した。

「昔話をしてやろうか」

「教訓になりますか」

「いいやちっとも」

「お伺いしましょう」

「今夜は満月だ」鳴海は話し始めた。「月明かりが雲に遮られると、一寸の間、暗くなる」


 暗闇に目が慣れなくて少しの立ち往生をしていると、三尋ほど先から草のこすれる音が聞こえてきた。子ぎつねだ。奴は提灯を持っていた。俺をじっと見つめている。やがて手招きをするように視線を残して歩き出した。道から外れた草藪のなか、怖さも感じずについていくと、猟師の罠にかかった親ぎつねが森の中でこちらを見ていた。俺は虎鋏を外してやった。こぎつねはお礼にと俺に提灯を手渡して親ぎつねと一緒に森の奥へ帰っていった。翌朝見ると提灯は金銀の花々に変わっていて、俺は少しの小金を儲けることができた、と。そんな話さ。


「その小金で何を買いました?」

「きつねのえりまき」

 じと目で睨むライドウに冗談めかして「嘘だよ、嘘。みーんな嘘」鳴海は笑った。

「即興で作ったのでしょう」

「わかるか」

 いまだ減らないりんご飴を口に咥えたまま、ライドウは喉の奥で笑った。すぐに眼差しが鋭くなった。注意深い目つきで気配を伺う。
 草場の蔭から物音がした。獣の走るような草の揺らし方だ。
 隙のない立ち姿のまま相手の動きを待つと、目の前になにかが飛び出した。
 砂利道をまたぐようにして現れたのは、子だぬきだった。

「あ」

 ライドウがまばたきをした。
 一瞬、提灯に見えたものがあったからだ。
 たぬきは口にりんご飴のりんごをくわえていた。飴を巻く前のものだろう。
 たぬきは道を横断して草場の蔭へ潜り込んだ。かさかさと乾いた音が消えていく。
 鳴海はライドウと共に力を抜いて微笑んだ。

「親だぬきは罠にかかっていないみたいだな」

「捕まらないと良いですね」

 下駄の音がふたりの耳に残されていく。
 飽きもせずに夜空を眺めていた鳴海は、また思いついたようにライドウに話しかけた。

「ライドウ、お前ちょっと下駄を投げてみてくれ」

「はぁ?」

「明日天気になぁれって。やらなかったか?」

 どうやら下駄占いのことらしい。

「ご自分の下駄で遊んでみたらどうです」

「ただの遊びじゃないの。俺にとっては晴れるかどうかがすごーく重要なことなの」

「だからこそあなたが」

「ライドウの力で晴れになるよう念じてくれよ」

「なんの理由で」

「いいから」

 色々と買ってもらった義理もある。という考えがちらついたので、ライドウは甘さに痺れた舌から飴を離し、右足をうんと振りかぶった。
 下駄が暗闇に消えた。十尋は飛んだろう。遠くに転がる小さな音を聞いた。

「力入り過ぎだよお前」

 小走りでゆく鳴海を器用なけんけんで追っていくと、着いた先には地面にさかさまに伏した下駄がぽつんとしていた。
 屈み腰の鳴海が「雨か」と伸び良く呟く。
 少年は片眉を上げて「待ってください」と割って入り、足先で下駄をひっくり返した。

「念を込めるのを忘れていました。放り投げ方にもコツがあるのです。必ず表に着地させる下駄の飛ばし方というのが」

「いやいいってそんなに真剣にならなくて」

「たぶんあるのでしょうが僕はそんな技術を習得していなくて」

「習得してなくても別にいいと思うぞ」

「とにかくもう一回です」

 りんご飴を片手に弁を飛ばす少年を見て鳴海はとうとう吹き出した。
 その場にしゃがみこみ、くつくつと肩を震わせる。
 かまわず投げ飛ばそうとした少年は下駄に足を入れた途端、声に出さない苦鳴を上げた。
 鳴海が顔を上げる。
 止まった右足の親指からじわりと糊のように広がる血が流れていた。
 彼は笑うのをやめて刺激の少ないようにそろりと下駄を脱がせた。
 紺地の鼻緒の内側に硝子の破片が突き刺さっていた。

 月が雲に隠れていたのだろうか、下駄を見つけた時には気がつかなかった。
 見ると辺りに風鈴のかけらのようなものが細々と落ちている。誰かが夜店で買ったものを落としたのだろう。
「土もかけずに」と不快そうに言う鳴海の上に自嘲めいた声が降りた。

「二度もやろうとしたから罰が当たったのでしょうか」

 それには答えず「こっちへ」と肩を貸した鳴海は少年を道の外れた木陰へと連れて行った。


 屈んだ鳴海の腿の上に傷ついた足を落ち着かせる。
 彼は満月の明かりを頼りに足の指の具合を見た。
 付け根に近い部分に小さな硝子の破片が刺さっていた。投げ飛ばそうと力んだ際にぐさりといったのだろう。
 木にもたれかかりながらライドウは「今度は確実に表に着地する下駄の飛ばし方を覚えようと思います」と呟いた。
 言っているうちに鳴海の爪がやわい付け根に食い込む硝子破片を引き抜いた。
 かかとを掴む掌はあたたかかった。

「ごめんな、俺の気まぐれで」

「鳴海さんのせいではありません」

 破片を抜いたのならもう大丈夫ですよと、下を向いた時にざわりとした感触が走った。
 親指の付け根に鳴海の舌が這っている。
 漏れ伝う吐息を震わせて唾液の絡まる生あたたかさを堪え忍ぼうとしたが、親指ごと血を吸われたときに「ふぅ」と濡れた声が喉を通った。

「甘い」

 ついばむようにチュチュと吸われた。どうしても反応してしまう。特にここ2~3日は鳴海のものでしかない身体だったのだ。
 膨らみを見上げられたときに頬に紅葉が差した。
 鳴海は穏やかに笑い、少しの背伸びをしてライドウの下腹部に顔を寄せた。
 腿の上の右足が堅く生地を掴む。
 浴衣を分けるようにこすりつけられる鳴海の鼻。
 熱を持った部位を唇でくすぐられた。

「いけません」

 やんわりと包み込むような動きだった。
 口に食まれた性器がそれこそ飴でも舐めるように下から上へと刺激を受ける。
 飴すらこんな丁寧な舐め方はされまい。
 指の腹でこすり上げられ、陰嚢を小鳥の羽毛を撫でるかのようにやわやわとさすられる。
 少年は声を潜めて泣いた。

 ここに居るのが嫌だった。
 なぜ足を怪我したのだろうと酔眼朦朧とした目つきで遠くの闇を見つめていると、右足を宙に投げ出された。
 鳴海の顔が近くまで寄っている。
 右手を掴まれ、口元にりんご飴を押しつけられた。
 まだ手放していなかったことに自分で驚いた。
 それを唇でねぶることを強要された。
 下半身にはさらなる脈動を求める手が伸びていた。

 ライドウの唇がゆっくりと動く。
 膨らみを包む手の動きはそのままに、鳴海も反対側からりんご飴に口をつけた。
 舌も脳も痺れるような咀嚼音が鼻息もわかる距離で立てられる。
「う、う」と苦しそうに呻く少年のなんと甘やかな声。
 鳴海の唇はさらに深く食らいついた。
 口元がべとべとに汚れていく。

 もはやほとんど飴の巻かれていないりんごはついに実の部分まで歯を立てられて、ふたつの口の動きで両端から形を削られていった。

 ライドウの口から高ぶった甘い息が漏れる。混乱に近いくぐもった泣き声だ。
 りんご飴を持つ手はひどくゆるみ、鳴海はとうの昔に指を離していたから、棒付きの赤い実はあっさりと地面に落ちた。
 それが合図のように少年は達した。右足がつるようにくにゃりと曲がり、震える。

 きゅうっと、最後の一滴まで丁寧にしぼり取るように、鳴海の指先は根本から先端まで優しく、執拗にライドウのものをこねくりまわした。
 痺れきった唇を上向けて涙を落とす。熱い息をつく少年の瞳に星の海が映りこんだ。

 鳴海は手の内へ吐精された指先を、ライドウの身体で一番甘ったるい匂いを発している唇になすりつけた。
 えぐみのある青臭さにわずかに抵抗したが、ライドウは目を閉じて感じ入っているように鳴海の白く濁った指先を舐めた。飴よりもおいしそうに。
 しゃぶり、脚を開いて、少年は鳴海の身体にしがみついた。

 口の周りを丹念に汚されたライドウが片足を浮かした。鳴海の脚が間に分け入ってきた。

 小刻みに漏れる情感に満ちた声。ゆらぎと共に闇に滲み入る美やかな熱。
 首筋を食み、浴衣から覗く乳首に噛み痕をつける。
 抵抗もせずに杭を待つ交わりの姿。
 口づけを繰り返し、途切れることのない甘みをお互いに味わう。
 右足の親指から血がぷくりと膨れ、地面に落ちた。


 木の股に落ちた齧られすぎの赤い実が蟻にたかられていた。
 絶え間ない艶声を散らしていた少年の身体が、深く、短くけいれんした。
 両脚からぐったりと力を無くすと、尻の間から白い液がこぼれ落ちた。
 肛門から溢れた精液が赤い実にしたたり落ちて、蟻が何匹かどろりと身を汚された。
 溺れる風にもがく蟻。
 足下の惨状を知らないふたりは荒い息をついて、おかしな味のするくちづけを交わした。汗まじりの唾だった。
 宙ぶらりんの左足。下駄はとうの昔に脱げていた。


 宿へ帰り着くとふたりは風呂へ入る間も惜しいと、敷き直された床の上で濃厚な性技を繰り重ねた。
 右足の親指は簡単な消毒ののちに絆創膏が貼られた。
 風鈴が軒下へ吊されるようになったのはそれから翌日のことである。
 こぷこぷと尻間から溢れる精液が肛門をひくつかせた。
 ここへ来てから酷く使い込まれているというのに、衰えることなく筋肉が躍動している。
 鳴海のかたちをすっかり覚えているその部位が嬉しいとライドウは寝転がりながら笑った。

「鳴海さんとこんなところへ来ると……僕の全部があなたで満たされて、真っ白になってしまいそうだ」

「どうしようもなく、欲情するな」

「興奮して余裕をなくす。あなたといられるのが嬉しいです」

「そうか」

 鳴海はライドウの髪の毛を優しく撫でた。
 なすりつけた精液によって少しごわついているものの、髪筋はやわらかく熱をもっていた。
 鳴海の手のひらは柔く、あたたかい。ライドウは穏やかな心持ちで眠りに落ちた。






 ここへ来てから初めて夢を見た。
 夢を見ないように鳴海と交わっていたのに。
 夢の続きも鳴海に抱かれていたからなのか。
 さんざんに抱かれたあとで自分の鍵入れに収める細長い鉛がなかったことに気がついた。

「鳴海さん、僕に鍵をくださいよ」

 鳴海は背を向けたまま隣に寝ている。

「ねぇ、僕はこれから帰れないかもしれない旅に出かけるんです」

 肩を揺すった。鳴海は振り向いた。煙のようなもやのかかった眼差しだった。

「じゃあ鍵なんていらないだろう」

 あぁそうかと思った。それなら確かに鍵はいらない。けれど、でも。

「もし帰ってきたら、扉を開けてくださるのでしょうか?」

 どこか壊れたように噛み合わせの悪い笑顔で尋ねる。鳴海は答えた。

「お前の家は俺がいるところなのか?」

 鳴海は迷惑そうな顔をしてライドウを打ち見る。すぐに身を起こしてどこかへ消えた。

 手にあるのはみっつの角柱が合わさったひとつの神具だった。
 彼の言葉はこれを光らせることはなかった。
 光らない神具を携えて“帰れないかもしれない”場所へ赴き、そして戻ってきた。
 犬が目の前にいる。

『あなたの夢はなに?』

 答える口を持っていなかった。
 犬の瞳が失望に澱む。



「違う、僕は……覚えていたはず、だけど僕がそれを夢見ていいのかどうかわからない!」






 絶叫を放ったと思った。
 実際は涙を流しているだけで口はぱくぱくと開いていた。
 鳴海に肩を揺すられている。
 ライドウは嫌悪の表情でその手をはじき返した。
 涙を流しているというのにその瞳は火のように熱い。

「あなた、あなたは――僕が未来から戻ってきた時、安心しましたか?」

 言っている意味がわからないという顔だった。鳴海のそんな表情を見てライドウは歪んだ笑みを深くした。

「安心したでしょうね。喜んだはずだ。これでようやっと気を楽にして愛することができるから。抱いてもいいと思ったから。違いますか」

 鳴海は間近で指をさされているような戸惑った、それでいて不快そうな顔をした。
 はじかれた手が今になって痛むという風に。
 ライドウは津波のような勢いで鳴海に言葉を叩きつけた。

「僕はね、あなたのことをそう信じてはいないんです。
 だって時空を超える必要があった時でさえ、一番近くにいたあなたは力を貸してはくれなかったのですから」

 がばと起きあがった裸身の少年の眼差しはきつく、容赦のないまるで夏の太陽のようなもの。
 鳴海はその光を眩しく思い、ゆっくりとではあるが、下方に視線を反らし、俯いた。

 蝉が昨日と変わらず大音量で空気も張り裂けよとばかりに鳴いている。
 男はかき消えそうな声で呟いた。

「……天津金木か」

 少年は内の炎をそのままに彼を見据えた。『そうだ』と訴える熱い眼差し。涙は乾いていた。


 手に入れたのはみっつの心。
 一番必要としていたもうひとつの心は、手に入らなかったので、自分の片想いで事を為した。


 それがどんなに虚しくやるせないものだったか。
 戻ってきた自分を出迎えたあなたは本当に嬉しそうで、だから酷くずるいと感じた。
 戻ってこなければ、それはそれで安心できるように、深くは愛さずにいたのだと。
 ひとつの想いさえも貸さないほどに。


「文鳥を見てから僕はほんの少し思考が止まっていた。もしかしたらと思って、だけどやっぱりそれは確信に変わった。

 あなたは最初から僕に深くは関わるまいと決めていたんだ。
 自分の中に僕の領域――籠のようなものを作ってしまわないように。
 いつか僕がいなくなった時、あなた自身がからっぽになってしまわないように。

 そうして僕が戻ってきたら今度は籠を開け放したままの立場を取りたがる。いつでも出ていってくれてかまわないと。俺の知らぬところで死んでくれてもかまわないと。

 変わらず戻ってくる僕を見て何度心の内で笑いましたか」

 鳴海は微笑んでいた。
 眉を下げて微笑んでいた。
 そうするしかないというように、ライドウの責め立ての間に、表情は仕方のない笑みに変わっていった。

 ライドウの激しさもひとつ、ひとつと時が秒を刻むごとに、冷えて、沈みこんでゆく。
 彼の笑みを理解すると、頭から静かに水をかけられたように、眼差しがおとなしいものに小変していった。
 やがて自嘲するように、口元に苦い笑みを浮かべて、ライドウはうつむいた。

「すみません、忘れてください」

 鳴海は動かず、布団の上にあぐらを組んだまま、膝頭に両肘を立てて、三角に開いた指先を互いの腹になでつけていた。
 斜めに向けた視線が沈黙を歌う。



 たとえ何かが本当のことだったとしても。



 愛さずにいたからといってどうなのだ。
 深く立ち入らずに済むのを選んで何が悪いというのだ。
 無事であるように願い、戻ってきてから、初めて安心して少年のことを見たとして――



 一体、どこに責める点があるというのだろう。



「――僕は、また我儘を言い過ぎた。
 深読みをして、立ち入りすぎて、抑えを効かなくしてしまった。
 なぜ、何もかもをハッキリさせようというのだろう。点と線が結ばれたとして、それが一体何になるのか……」

「ハッキリさせてもいいよ」

「いいえ、僕は」

「俺は」



 お前が無事に戻ってくるのを、願っていたよ。



 頭をうつむけて、肩を震わせている少年が、ひとり。床の上で後悔をしている。布団に滲みていく涙が何かを癒していた。

「臆病なのを謝るよ。ごめんな」

 頭を振り、嗚咽の声を漏らす少年が居る。


 そんなことを言わせるつもりはなかった。
 隠されているものを暴こうとする自分が嫌だった。


 穏やかに、長い時間をかけて整えられていた彼だけの心を、どうして無遠慮に踏み荒らしてしまうのか。
 土足で辱めてしまうのか。

 少年は布団に頭をこすりつけるようにして鳴海に謝罪した。
 心の底から謝罪した。
 許してもらおうとは露ほども考えずに、ただただ、鳴海に謝った。

 鳴海とライドウは高くなった日と眩しい影に照らされて、逆光のただ中にいた。
 表情も何もわからない。
 蝉はずっと鳴いていた。






 六日目の朝。
 耳鳴りがする。蝉はまだ鳴いている。
 風鈴の音が風の間のそこここに鳴り響き、涼やかな空気を運んできた。
 別々の布団で寝た昨日は身体を重ねることもしなかった。
 蝉と、風鈴の音で過ごした。
 時々、温泉に入った。
 膳を口に運んだ。
 何も喋らず、座ったり、寝転んだりしていた。
 一度だけ、鳴海が外へ出ていった。
 帰ってきたときも手荷物は無く、かといって少年が何をしていたのかと彼に聞けるはずもなかった。
 この日も鳴海は出ていった。
 昨日と違うのは、細い巻き糸のようなものがいくつも束ねられた包みを手に携えていたことだ。
 それを聞きたそうに見つめる少年の遠慮がちな視線に、鳴海はこの日初めての毒っ気のない笑顔を向けた。

「線香花火さ。
 夜になったら、一緒にやろうな」

 昨日は売り切れててさと鳴海は座椅子に腰掛けながらやれやれと呟いた。

「遠出したから喉が乾いたよ」

 お茶、と彼がいう前に、少年はやかんを手に取っていた。
 お湯を頂いてきますと軽く会釈をして台所へ向かう。
 その少年の後ろ姿を、鳴海はこの上もないほどの愛情に満ちた眼差しで見つめていた。
 視線を感じた少年は心臓を甘くくすぐられた気がして、たまらず泣きそうになった。
 廊下の角を曲がったとき、ぽろぽろと涙がこぼれた。酷いうずきをくれる彼を憎み、そして愛した。

 湯冷ましのお茶を一杯頂いたころ、空からぽつぽつと雨が降ってきた。
 涼しい風は風鈴を鳴らす代わりに雨を呼んだのだ。
 鳴海は縁側に立ち、曇り空を見上げた。

「下駄占い、当たったなぁ」

 一日違いだけどなと振り向いた鳴海は笑っていた。

「今夜までに止むかなぁ」

 ライドウは少し前に聞いた鳴海の言葉を思い出した。

「晴れるかどうかがすごく重要なこと……とは、その花火をするためですか?」

「あぁ。ここにいる間にやりたかったんだけどな」

 明日で滞在期間は終わる。一週間の湯治旅行なのだ。

「まぁこればっかりはどうなるかわからないし」鳴海は敷きっぱなしの布団に腰を落ち着けた。「出掛けられもしないだろう、少し話そうぜ」

「話」

「そう。俺、まだ知らないことがあるんだ。
 帰ってきたときに……なんの、好きな鳴き声を聞いたんだ?」

 ライドウは「あぁ」とやや伏し目がちの表情で答えた。学帽をかぶっていれば目元は黒く隠れるに違いない、そんな声音だった。

「文鳥です」

「文鳥?」

「小説で読んだとおり、あれは本当に千代千代と鳴く。いえ、別に文鳥でなくともいいんです。蝉よりきれいな声で鳴く鳥なら。
帝都へ戻ってきたとき、朝日のなかで初めに聞いた音が鳥の鳴き声だった。少なくとも空はあると、僕は帰ってきた実感を強くしました」

「そうか」

 鳴海は煙草に火をつけた。吸おうとして、やめた。

「おかえり」

 伏せた瞳で微笑んだ。灰皿に落とした煙草が細長い煙をくゆらせる。なにかが落ちる音がした。甲で弾かれた涙だった。ライドウは正座のままうつむき、膝に置いた両の拳を固く握りしめた。

「僕……は」

 一瞬のこと。雨が止んだ。

「どんな声よりも、あなたの声が聞きたかった」

 鳴海は少年の頭を抱き寄せた。

「俺もだ」

 痛いくらいの力をこめて抱きついた少年の背なを彼も力をこめて抱き返した。

「お前の声が聞きたかったよ」

 優しさとはほど遠い。情熱的な男の声。耳元にひりつく快楽と痛み。匂いを吸い込む熱い息。

「今夜晴れたら、教えてやるから」

「なにを……ですか」

「賭けに勝ったら……色々なことを」

 賭けとはなんだろう。
 肩にもたれた顔をことりと預けると、吸い込まれるような眠気が襲った。
 鳴海も同じようだった。
 誘うように鳴海が横になった。抱かれたままのライドウは彼の胸に身を預けた。
 そのままひとつの布団で寝た。
 ふたりとも蝉ではない。泣けば疲れるのだ。
 お互いの匂いを感じ取りながら、夜まで目覚めることなく午睡に耽った。
 よく眠れた。風の涼しい午後だった。
 雨がざあざあ降っている。






 夕餉の膳に起きてから少年はちらちらと窓の外を眺めていた。
 晴れている。
 雨上がりの冷たい風が流れこんできた。
 鳴海は別に外を見ようとはしない。黙々と箸を動かしてうまい米を食べていた。

 かけ流しの湯に浸かり頭の湯気も冷めきらぬ頃に、浴衣姿の鳴海が腰に手を当て堂々と縁側に立った。

「さて。やるか」

 まじめに遊びを楽しもうというふざけた顔だった。
 ライドウは仁王立ちをしている上司を見もせずに、それなりに手入れのされた庭園に水の張ったバケツとろうそく、そしてマッチを用意した。

 ころころと蝉とは違う秋の虫の声がする。対して風鈴はしんとしている。涼しいが、短冊をゆらすほどの風ではない。
 空には満月、星がちらほら。月明かりで影ができた。

「ここに十本の線香花火があります」

 鳴海が買ってきたものだ。手のひらにはらりと分かれた細長い花火。紅色の紐がこよりを巻いている。
 彼は軽い笑みを絶やさぬままライドウに五本の花火を手渡した。

「どっちの線香花火が長くもつか賭けをしよう」

 少年は五本の束を見てぱちぱちとまばたきをした。

「賭け……ですか」

「そう」

「勝ったらどうなるんです?」

「別になにも」

 眉も口もしかめて少年が鳴海の顔をいぶかしげにのぞき込んだ。
 鳴海の横顔はぞんざいな線で描いたようなよくわからない表情をしている。

「長くもつというのはつまり、火玉が落ちるまでということですか」

「そう」

「なぜそんなことを」

「別に。どっちかが先に落ちるのは間違いないんだからさ」

 鳴海はろうそくに火をつけた。マッチ棒をバケツに放る鳴海の顔はつまらなそうだった。

「それを当てっこするだけ。簡単だろ?」

 縁側に座った鳴海は隣をぽんぽんと叩いた。足元のろうそくを挟んでここに腰掛けるようにと口を使わず言っている。

 ライドウは鳴海の横顔を見た。煙草を口にしていないのを不思議に思った。
 物言わぬ面立ちに誘われ、彼の隣へ座る。呼吸も静かに落葉松の根元へ目を向けた。
 蝉の死骸があった。
 ライドウは水面に映る月のような声音で呟いた。

「どちらが長くもつかというのなら」

 少年は一本の線香花火を手に取った。

「鳴海さんの火花のほうがより長く光を残すと思いますよ」

 彼はくすりと笑った。

「光が残ったら、それをみんなお前にくれてやるよ」

 ろうそくに互いの花火がしたむように降りてゆく。

「つまり?」

「つまり俺はね」

 火がついた。

「お前のほうが長くもつって予想するよ」


 鮮やかな命が生まれた。
 橙の槌に打たれた星の子が弾け、飛ばせ、もっともっとと小さな声で喜びを歌っている。耳をすませなければ聞こえない秘めやかな声で。
 やがてゆっくりと、眠りに落ちるように、光が弱まる。
 瞳を閉じたのだ。


 こぼれた橙の生命は同時に地面に落ちた。


 髪の毛一筋動かさずに少年がまばたきをした。
 ぽやりと目を見張っていた鳴海が「はは」と笑った。

「こういうこともあるものなんだな」

「あと四本」

 どうしますと少年が尋ねた。
 鳴海は線香花火を一本、指先から垂下げた。

「賭けというものは決着をつけなきゃ終わらないものでね」

 ろうそくの炎に再び線香花火が落とされた。

 今度の賭けもお互いの火花に勝負を委ねた。

 火が絞り降りるような音を立ててかき消えた。
 同時だ。わずかの差もない。

 鳴海は黙っていた。
 少し困った風な笑みを口元に浮かべている。
 斜めに傾けた視線は焼けた砂利に向けられていた。
 ライドウはためらうことなく線香花火を手にした。

「あと三本。次には決着がつきますよ」


 ぱちぱちと燃えてゆく蛍火。


「もし僕のほうが光を残しても、すぐに鳴海さんに分け与えますから」


 咲ゆく姿は曼珠沙華。


「だから大丈夫ですよ。賭けは僕が勝ちます」


 色移ろい燃やす紅玉の火。


「いいや、俺が勝つよ。お前のが先に消えるわけがない」

「なぜ?」

 鳴海は答えなかった。
 言葉の代わりに橙の火が落ちた。
 ふたりの顔が赤々と照らされて、陰り、しんとする。

 ライドウは鳴海の横顔を見た。
 焦っているような、苛々しているような落ち着きのなさが、眉や唇から見てとれる。
 そしてそれは自分も同じだろうと思った。
 線香花火を摘む指が震えている。

「なぜ決着がつかないのでしょうね」

「風が吹いていないからだろう」

 鳴海は額の汗を拭った。妙に暑い。虫の声も聞こえない。

「僕は勝ちたいんですよ。負けたくない」

「俺の火花に賭けてか?」

「あなただってそうだ。僕の火花に賭けて勝ちたいと思っている。でもそんなことはさせない、僕は」

 火を灯す。
 橙の粒が弾けて、広がり、色沈ませて、ふつと消えた。
 少年はうつむいた。
 足元の名残火を緑に焼け付く瞳で見ていた。
 風は吹かない。虫も鳴かない。
 燃え尽きて、沈黙を闇よりも深める線香花火。
 少年は声張り裂けんばかりにそれを地面に打ち捨てた。

「なぜ一緒に落ちる!」

 立ち上がりかけたライドウの手を強く握りしめる者がいた。
 彼はあたたかい手のひらとはまるで正反対の力宿る眼差しで少年の注意を自身へ向けた。
 言葉つまるほどに見つめられた少年は、一瞬の焦げつくような吐息をつき、彼の意思を見つめ返した。
 彼は絡めた指と一緒に少年の手をゆるく、ゆっくりと上へ持ち上げた。
 少年の手を招いた彼の指先は、月明かりも届かぬ暗がりをさした。
 軒下の影に丸いかたまりがあった。
 つばめの巣だった。


「いつかの時までの巣だ」


 見上げている横顔は風も吹かない穏やかもの。
 焦りも苛立ちも賭けの行く末すらも読みとれぬ湖のような面立ち。


 ――けれど、だからこそ。


「俺はそのつもりでお前を待ってた」


 ――こんなにも痛む、少年のこころ。


 星座のように紡がれた答え。
 ぱちぱちと明滅する点と線。
 途方に暮れて天を仰ぐ。



 あぁ、風鈴はなぜ鳴らないのだろう。



 僕はこの人のことが好きだ。

 籠はいらない。鍵もいらない。
 いつかの時までと言ったけれど、僕はまだ彼の巣へ戻っていきたい。帰っていきたい。


 巣作りは時間がかかったろう。
 それだけ想いも深かろう。


 危険とわかっているところに送り出す者がいるものか。
 力を貸す者がいるものか。
 金木が光らないのはあなたの心があればこそだった。

 そして金木が輝いたのも――


「鳴海さん」

「うん?」

 まなこに星を映すのか。
 海のように揺れる想いをこぼさぬように、言葉ひとつをゆっくりと紡いだ。

「僕は本当に賭けたかったことがあるんです。願い事と言ってもいいかもしれない。最後の一本、僕の為に使わせていただけませんか」

 微笑み、見つめ返す鳴海の顔がぼやけている。
 少年は星を落とさぬように我慢して、同じくらいに微笑み返した。


「それが叶ったら……賭けに勝ったら、鳴海さんにそのことを教えます」


 風も吹かず虫も鳴かず、風鈴の短冊はしんとしている。

 ろうそくの最後の炎で華のような蛍火を燃やした。
 頬があたたかい光で照らされた。
 輝く生命が燃えていた。嬉しいと笑う子供の声が聞こえてくるような、静かな静かな音を奏でて。
 優しい瞳に見つめられて、ふたつの光がやわらかな、落ちついたものに変わってゆく。
 まるで手をつないでいるように、丸い玉がほとりと落ちた。

 明かりが消えた。
 今は天の輝きがぽうとあたりを照らすのみ。
 指先に持つ紅色のこよりが夏の名残の色としてまぶたの裏に強く残った。

「お前の勝ちだ」

 そう、望みは叶った。
 だけど彼には伝えていない。

「どうして勝ちとわかります」

 当然のように男は答えた。

「お前が負けるわけがない」

 そんなことを昔、言っただろううか。
 それに似た言葉を、彼は力こめて少年に託した。
 今と同じ、笑顔だった。


 ――『ライドウ お前なら出来るさ』。


 片想いではなかった。
 だからこそ輝いたものがあった。

 ライドウが月のかたちの涙を落とした。頬を伝う涙だった。閉じた瞳につぐむ口。ゆらゆらと震う人心(ひとごころ)。

 いじらしい男。
 握りしめられている指先、今すぐにでも返して深く熱く絡め合わせたい。



 庇護と信頼とを誰よりも強くこころのせてくれる彼に、この夏だけでもいい、どうか大きな祝福を。



 我儘な願いと想いを寄せて、線香花火の煙に之を託した。
 上向けた顔、ため息と共に呟いた言葉。
 取るに足らない、ひとつの情熱。


「僕たちもこんな風に生きられたらいいのに」


 鳴海はライドウを抱いた。

「生きられるさ」

 口づけは涙の味がした。

 風鈴が今宵、初めて鳴った。
 風の紡ぐ偶然の音楽。
 忘れられずに今に至る。






 蝉は鳴かない。
 七日目の目覚め、とても静かに朝を迎えた。
 まだ寝ている彼を起こさないように、そうっと床を立って、少年は着崩れた寝間着を直した。
 縁側にみしりと向かい、窓を開ける。
 風が吹いた。
 風鈴が透明な音を奏でる。

 朝靄にけぶる空を眺めていると、少年の頬を白くやわらかなものがかすめた。
 目で追うと翼ある小さな後ろ姿が見えた。

「あぁ」

 裸足で三和土を降りた。
 冷たい土を踏みしめる少年の横顔は、空を謳う詩人に等しい。
 そして思い出したのだ。
 好きな鳴き声を。

「迎えに行かなくては」

 胸が熱い。
 幸福とわかった。
 確かめるように手を当てた。
 瞳を閉じて理解する。






 僕の命は誰かの情熱が込められている。




















 僕の命は誰かの情熱が込められている!








































 七日目の朝、鳥に世界を教えられた。






 待ち合わせ場所はいつものところ。
 富士子パーラー前にて、ライドウはリンに「おかえりなさい」と微笑まれた。学帽の鍔で隠すようにして、ライドウも少しの笑みを向ける。

「いきなりだけど、ごめんなさいね。
 探偵さんにお願いがあるの」

「僕にできることなら」

「ありがとう。この子のことなんだけれど」

 リンは籐編みの籠を見せた。
 中に白い文鳥がいた。
 千代千代と鳴いた。

「あ」

「ね。鳴いてるの」

 ものを頼む視線、つまりリンの上目遣いを見て、ライドウは何を言わんとしているかがすぐにわかった。
 眼鏡の奥の瞳へ優しい微笑を返す。

「僕からもお願いがあります。その文鳥をこれからも大事にしてやってくださいませんか」

 リンの笑みが輝いた。

「ありがとう。なついてからは離れ難くなってしまって。聞いて、手にも乗るようになったの。本当よ」

「伽耶さんも喜ぶと思います」

「そう? そうかしら?」

「そうですとも」

 最後の言葉はライドウのものではない。小さな鐘の音が鳴ったと思ったら、富士子パーラーから伽耶が出てきたのだ。
 驚くふたりを後目に伽耶は籠の中の文鳥をのぞき込んだ。
 眦に細長い花びらが咲いているような微笑だった。

「リンと同じくらいに綺麗な声で鳴くのね」

 いつでも月のように静かなリンの頬に朱が差した。頬をかすめるように伽耶の指がリンの髪の毛をすく。

「大事にしてあげて。それと」

 眼鏡のつるを食むように、耳元に唇を寄せる。

「また、可愛い声を聞かせて頂戴」

 立ち尽くすライドウと耳まで真っ赤に染まったリンを残して、伽耶はコツコツと歩み去ってしまった。
 汗の吹く彼女を見てライドウは無遠慮にもこんなことを聞いた。

「伽耶さんは何を食べたの?」

「……ショートケーキ、よ」

「趣味が悪いな。ここは黒餡蜜がおいしいのに」

 伽耶の唇は苺と生クリームの匂いがした。らしい。

 千代千代。

 文鳥が鳴いた。


 飴色の光の満ちた所長室で、鳴海が金魚の柄の風鈴を飾っている。
 水色の短冊がすらりと伸びるのを見て、彼は窓を開け放った。

 窓硝子を開けた途端にゴウトがはばたき入ってきた。
 バランスの崩した風鈴を慌てて受け止める鳴海を無視して、彼は部屋の中の外套掛けに居住まいを正した。

「いきなり入ってくる奴があるかよ」

 まったくしょうのないという風に、鳴海はカラス一羽ぶんの間を開けて釘を打ち直し、再び風鈴をつり下げた。
 しばらく見ていても短冊はひらりともしない。
 風の止んだ正午だった。
 鳴海は風鈴を見上げながら、湯治から帰る間際になって気づいたことを口にした。

「一週間、誰にも世話を頼まなかったけどさぁ。身体、大丈夫だった?」

 ゴウトはむっとした様子でみどりの目を向けた。

『俺を誰だと思っている。心配をせずとも、帝都中のうまい木の実の在処くらい、完璧に知りつくしているわ』

「あーそー」

 やはり口先だけだったらしい。
 さして興味もないという風に、鳴海はゴウトのくちばしすっぱいはばたきを、髪の毛一筋動かさずに聞き流した。
 ふと、耳をすます。

 階段を昇る音が聞こえる。

 鳴海はそちらへ目をやり、頬笑んだ。
 足音が近づく。
 楽しさのわかる足取りだった。
 それが嬉しい。
 たぶん、お互いに。

 扉が開かれた。


 鍵はいらない。ここは籠ではない。


 鳴海は瞳に収めたいとしき鳥に、羽根包むようなやわらかな微笑みを向けた。


「おかえり、ライドウ」







 風が吹いた。
 風鈴の音が聞こえる。


 終
 07/09/02(日)