六日目の朝。
耳鳴りがする。蝉はまだ鳴いている。
風鈴の音が風の間のそこここに鳴り響き、涼やかな空気を運んできた。
別々の布団で寝た昨日は身体を重ねることもしなかった。
蝉と、風鈴の音で過ごした。
時々、温泉に入った。
膳を口に運んだ。
何も喋らず、座ったり、寝転んだりしていた。
一度だけ、鳴海が外へ出ていった。
帰ってきたときも手荷物は無く、かといって少年が何をしていたのかと彼に聞けるはずもなかった。
この日も鳴海は出ていった。
昨日と違うのは、細い巻き糸のようなものがいくつも束ねられた包みを手に携えていたことだ。
それを聞きたそうに見つめる少年の遠慮がちな視線に、鳴海はこの日初めての毒っ気のない笑顔を向けた。
「線香花火さ。
夜になったら、一緒にやろうな」
昨日は売り切れててさと鳴海は座椅子に腰掛けながらやれやれと呟いた。
「遠出したから喉が乾いたよ」
お茶、と彼がいう前に、少年はやかんを手に取っていた。
お湯を頂いてきますと軽く会釈をして台所へ向かう。
その少年の後ろ姿を、鳴海はこの上もないほどの愛情に満ちた眼差しで見つめていた。
視線を感じた少年は心臓を甘くくすぐられた気がして、たまらず泣きそうになった。
廊下の角を曲がったとき、ぽろぽろと涙がこぼれた。酷いうずきをくれる彼を憎み、そして愛した。
湯冷ましのお茶を一杯頂いたころ、空からぽつぽつと雨が降ってきた。
涼しい風は風鈴を鳴らす代わりに雨を呼んだのだ。
鳴海は縁側に立ち、曇り空を見上げた。
「下駄占い、当たったなぁ」
一日違いだけどなと振り向いた鳴海は笑っていた。
「今夜までに止むかなぁ」
ライドウは少し前に聞いた鳴海の言葉を思い出した。
「晴れるかどうかがすごく重要なこと……とは、その花火をするためですか?」
「あぁ。ここにいる間にやりたかったんだけどな」
明日で滞在期間は終わる。一週間の湯治旅行なのだ。
「まぁこればっかりはどうなるかわからないし」鳴海は敷きっぱなしの布団に腰を落ち着けた。「出掛けられもしないだろう、少し話そうぜ」
「話」
「そう。俺、まだ知らないことがあるんだ。
帰ってきたときに……なんの、好きな鳴き声を聞いたんだ?」
ライドウは「あぁ」とやや伏し目がちの表情で答えた。学帽をかぶっていれば目元は黒く隠れるに違いない、そんな声音だった。
「文鳥です」
「文鳥?」
「小説で読んだとおり、あれは本当に千代千代と鳴く。いえ、別に文鳥でなくともいいんです。蝉よりきれいな声で鳴く鳥なら。
帝都へ戻ってきたとき、朝日のなかで初めに聞いた音が鳥の鳴き声だった。少なくとも空はあると、僕は帰ってきた実感を強くしました」
「そうか」
鳴海は煙草に火をつけた。吸おうとして、やめた。
「おかえり」
伏せた瞳で微笑んだ。灰皿に落とした煙草が細長い煙をくゆらせる。なにかが落ちる音がした。甲で弾かれた涙だった。ライドウは正座のままうつむき、膝に置いた両の拳を固く握りしめた。
「僕……は」
一瞬のこと。雨が止んだ。
「どんな声よりも、あなたの声が聞きたかった」
鳴海は少年の頭を抱き寄せた。
「俺もだ」
痛いくらいの力をこめて抱きついた少年の背なを彼も力をこめて抱き返した。
「お前の声が聞きたかったよ」
優しさとはほど遠い。情熱的な男の声。耳元にひりつく快楽と痛み。匂いを吸い込む熱い息。
「今夜晴れたら、教えてやるから」
「なにを……ですか」
「賭けに勝ったら……色々なことを」
賭けとはなんだろう。
肩にもたれた顔をことりと預けると、吸い込まれるような眠気が襲った。
鳴海も同じようだった。
誘うように鳴海が横になった。抱かれたままのライドウは彼の胸に身を預けた。
そのままひとつの布団で寝た。
ふたりとも蝉ではない。泣けば疲れるのだ。
お互いの匂いを感じ取りながら、夜まで目覚めることなく午睡に耽った。
よく眠れた。風の涼しい午後だった。
雨がざあざあ降っている。