蝉と文鳥・2

 血のついた手と制服を洗った満月の夜、ライドウはもうひとりの自分と会話をする夢を見た。短い日の思い出だった。

 名も無き神社の境内に背を向け少年は石階段に腰掛けている。
 ぼんやりとしていると背後に気配を感じた。
 ライドウは振り返ろうともせずに声をかけた。

「ここ、静かだね。蝉がいなくて」

 黒猫を従えた長く黒い脚が上に伸びている。黒い学生服、黒外套に学生帽、衣服や背格好までライドウによく似ている影法師――後ろに佇むその人物の顔には大きなふたつの斜め傷が刻まれていた。雷堂だ。
 彼は影が降りている目線をライドウに向けていた。

「君はもう捕まえたことがあるかな。ここの木に黒蜜やアイスクリンを塗ると、満月の晩に立派な昆虫が採れるんだ。虫好きの悪魔と交渉してお宝に代えてもらってもいいけれど、まずは虫相撲で遊んでみるといい。僕はカブトムシがオオクワガタを角でひっくり返すところを何度も見た。長生きさせるにはね、蜂蜜を水で溶かしたのを綿に含ませてやるといい」

「昆虫の飼い方を知っている我と話をすることなど、これから先二度とあるまいな」

「やっぱりカブトムシの飼い方なんて知らないか。僕も帝都へ来てから覚えたんだ」

 鳴海さんから教えてもらうといいよとライドウは振り返って瞳を細めた。大家のほとぼりがさめたころ、覚えていたらそうしようと雷堂は答えた。

「隣に座ってよ。首が痛くなるの、僕いやだな」

「まだ長話をするのか」

「君はもうひとりの自分と話をしたいと思わないの」

「角柱をまだ集め終えていないだろう」

「あと一本。すぐに終わると思う、だからさ」

「なんだ」

「聞かせてほしいんだ。
君、鳴海さんから『おかえり』って言われたこと、ある?」

 雷堂はそのあまり開かない目をまるくして、幼い子供のような口調を改め、整えようともしないもうひとりの自分を興味深く見つめた。
 心を分けた兄弟を見上げるように、その瞳は黒く澄み切っている。
 幼稚、あるいは白痴さを思わせるすれすれの口調なのに、どうしてか蔑むことも哀れむことも、また無視することもできない不可思議な魅力を持ったもうひとりの自分がそこにいた。

「あるぞ」

「いつ頃言われたの」

「帝都の探偵社へ来てからすぐだ」

「君と僕はやっぱり違う。君は鳴海さんに気に入られているんだな。羨ましいよ」

「くだらん話は」

 小さな虫が顔についたように雷堂は眉をしかめた。何かに思い当たってしんと尋ねる。

「貴様は元の世界に帰りたくないわけではあるまいな」

 ライドウは自分と同じ顔の人物を見つめ続けていた。何も言わず、微笑みながら。

「角柱集めもせずにこうしていちびっているのは鳴海の反応が」

「帰りたいのは山々。風呂も入りたいしね。だけど君もいずれわかるさ。最初のうちは僕だって『おかえり』と言ってもらえたよ。きわめて明るくね。だけど次第に僕が鴉に飼われた狐とわかってくると」

 黒猫がにゃあと鳴いた。よく見知っているほうのゴウトだ。それ以上言うなと声も目も語っている。
 ライドウは斜めに視線を落とし寂しそうに口端を持ち上げた。

「君の言う通りだ。のんびりするわけにもいかないな。
 じゃあそろそろ、みっつめの角柱を取ってくるよ」

 伸びをしながら立ち上がるもうひとりの自分を見て、雷堂は軽い嫉妬にも似た感情を覚えた。
 刀の鞘で討ち伏せたい気持ちにかられたが、自分とは段違いの経験を持つ目の前の十四代目に敵うはずがない。
 この小生意気な少年は遙か先の道のりを歩んできているのだ。

 別れる際にライドウはにこりと微笑み、変わったさよならを告げた。

「君の世界の鳴海さんが、籠の戸をきちんと閉めてくれる人であるように祈っているよ」

「カブトムシの話か?」

「そうだね、そちらでもいいけれど」


 机の上に書き置きが残されていた。


「籠の戸を開け放して、虫や鳥を飼う人にならないよう」


 探偵社の扉は旋錠もされていなかった。



「どうかしたか、ライドウ」

 うなされていたらしい。
 肩を揺する鳴海の顔が目に入った。
 息を吐くと自分が大量の汗をかいていることに気がついた。触られている肩に不快感を感じる。

「大丈夫、です」

 そう言ったつもりが随分と喉が枯れていた。
 鳴海はしかめた顔のままコップの水を寄越した。用意がいいのがこの人らしいとライドウは思った。
 申し訳程度に水を飲むとタオルで額の汗を拭かれた。
 どこまでも、どこまでも。 ――こんなことばかり。

「一緒に寝ませんか」

「冗談。ゆっくり休め」

 どんな顔をしていたろうとライドウは白いタオルを握りしめて、鳴海が消えたドアを、疲れた眼差しで見続けていた。
 鳴海は噛み合わせの悪い薄ら笑いを浮かべたライドウを思い出して、忘れようと手を洗った。自分も水を飲んで床に就く。夜はまだ長かった。


 翌朝、文鳥の話になった。

「ここに来て三日。こいつは本当に鳴くのか?」

「えぇ。伽耶さんよりも良い声で鳴くはずです」

 ライドウは鳴海を見ようともせずに箸を進めている。
 鳴海の顔はこれ全身ため息という風に気力がなかった。
 箸を置いて、軽い朝食を終わらせる。

「猫を飼うからって、食われそうになっても文鳥を放し飼いにしておくとはね」

 お嬢様の考えることはよくわからないなと話しかけた。
 ライドウは「そうですね」と答えた。
 大根の浅漬けをぱりぱりと食みながら「結婚するそうです」とも答えた。

「そうなのか?」

「婿養子に迎えるそうです。工場のこともあるし、何より彼女はこの時代の誰よりも先の知識を持っている。一代で大名士と成りうるでしょう」

「そりゃまた……なんで」

「“将来人”の記憶書き換えが成功したからです。この時代には存在しない知識と現在の知識、それらが混濁した場合は“鬼憑き”と呼ばれる人格崩壊が起こりますが、彼女は知識だけを残して“将来人”の影響を切り離した類い希な成功例となった。先の時代の知識を活用するだけの機知がある彼女ならば、大道寺家が帝都一の大富豪となるのはそう遠い話ではないでしょう」

 明日の家賃も不安の残る鳴海は「ははは」と情けない笑みを漏らして頬杖をついた。

「それで……文鳥とどう関係が?」

「黒猫はその婿養子の連れてきたペットだそうです。本人はまだ大道寺家に来てはいませんが、先に新しい屋敷に慣れさせておくのもいいだろうと。猫は家に住むといいますから」

「まだわかんねぇな。だからってなぜ逃がそうと。部屋を別々にしておけばいいことだろうが」

「夫となる人物も文鳥の部屋に入ります」

「あぁ……そらそうだろうな」

「伽耶さんはそれを死ぬほど嫌った。自分の大切なものが他人の目に触れるのがたまらなく嫌だった。理由はそれです」

 全身から力が抜けていくのを感じながら、鳴海は頬杖だけはそのままに、少年の話を聞いていた。
 ライドウはとうに食事を終えていた。
 箸を置いて座姿勢を正す。

「いくら逃がしても籠の中に戻ってきてしまう。そのことを嬉しくも思ったけれど、それはやはり意に添わないのです。
『自由が嫌?』と文鳥に語りかけた伽耶さんの横顔、僕は今も瞼の裏に見ます」

 銀の棘よりも鋭い美しさ、少年は彼女の瞳に憧れた。

「あんな風に生きられれば、どんなにか」

 籠の中で沈黙する文鳥を蝉の声が責め立てる。空は今日も高く広い。
 鳴海は立ち上がった。済んだ皿を流しに運ぶ時も、少年は動かなかった。