蝉
白くやわらかなものが頬をかすめた。
追ってみると翼ある小さな後ろ姿が目に入った。
坂を越えてゆく鳥に興味を惹かれたか、少年は黒外套をひらめかせ駆け出していった。
なめらかな鏡となった水たまりに黒靴が波紋を立てると、夏色の空はさかさまのままゆらゆらと揺れた。
水面が静まり雨上がりの空を銀色に映し出したころ、少年は赤色の大きな屋根が特徴の時代ある屋敷の前に身を遠く、小さくしていた。
見上げると窓。
小鳥は開け放たれたそこへ意思ある木の葉のように入っていった。
門前で立ち尽くしていると小鳥の飛び込んだ部屋に人影が見えた。
肩までの黒髪をきれいに切りそろえた令嬢だった。
少女の横顔は申し合わせたように小鳥を招いた風の吹く空を眺め、かたちを変えて下方を向いた。
少女は微笑んだ。
少年は見つめ返した。
微笑みが招待となった。
「前にお会いしたのは一ヶ月前かしら。この子に感謝しなくてはね」
日の陰った室内、籠のふたを閉めようとはせずに伽耶は、籐で細やかに編まれた格子をたおやかな指先でつと撫でた。中に文鳥がいた。小柄な白い鳥は自らの羽毛にくちばしを埋めている。
「それ、文鳥だったんだね」
「気が付かなかったの?」
「鳴かなかったから。後ろ姿だけじゃよくわからない」
「坂を駆け上る理由はそれで充分なのね。白い鳥が何かということだけで、あなたはその黒いマントをまるで翼のようにひらめかせる」
羨ましいわ、と伽耶が呟いた。
風が吹いて伽耶の髪の毛をさらさらとすくった。
少年は琥珀色の飲み物をくいと傾けた。
氷が白銀の紗を流れゆくような素晴らしい音を立てる。
器が一級品ということはようと知れた。
甘味豊かな冷たい紅茶の美味さに少年の汗も急ぐに引いてゆく。
「おいしい」
「それはよかったわ」
「ひとつ聞きたいんだけど」
「なにかしら」
「文鳥を飼っているのに、どうして窓も籠の檻も開け放しておくの」
「逃がそうとしているからよ」
「帰ってきてる」
「それが困るの。何度外へ逃がしても、必ずここへ戻ってくるのだもの」
少年が大道寺家の伽耶の私室へ招かれたときも、窓はおろか部屋の扉が開かれていた。今もなお開け放たれている。おかげで風の通りが良い。黒猫まで入ってきた。少年は鼻白むように猫を見た。明らかに猫の目線は文鳥を狙っている。
「君、追い出さなくていいのかい」
「だから何度も外へ逃がしているわ」
少女は何ものをも構うことなく椅子に座った。背もたれに腕ごともたれかかり、寝かせた横顔で退屈そうに猫を見遣る。斜めに傾けた顔に黒髪がさらりと落ちた。
猫の前足に重量がかかった。飛びかかろうとする寸前、目の前に毛むくじゃらの細長いものがちらついた。それだけで文鳥の存在を忘れた。
少年は猫じゃらしを使い、猫を部屋の外へ追いやった。獲物を廊下へ放り投げてドアを閉める。興奮しきった黒猫の、爪を立てる音がドア越しにも伝わった。
「あれを飼うのかい」
「いずれ鈴をつけてあげなくてはね」
「今したまえよ」
「怖がって逃げ出すかと思ってね」
伽耶の文鳥を見る目は静かだ。
ライドウは静けさに波紋を立てた。
「君、いらなくなったからってドアも窓も籠も開け放してしらんぷりはないだろう」
「ずいぶんと同情的ね。いいのよ、今はまだ私の文鳥なんだから」
「じゃあ僕がもらうよ」
伽耶は驚いたように、もたれかかっていた椅子から身を起こした。丸い黒瞳が白顔の少年を見留めて何度も瞬かれる。
「まだ聞いたことはないけれど、その文鳥は君より声が綺麗だと思うから」
伽耶は華栞のように、薄く、美しく微笑んだ。黒髪などまるで銀の音を奏でそうにさらさらとしている。
彼女は立ち上がり、籠の中の文鳥を愛おしく見つめた。籐格子を閉める指は恋人の唇に触れるようなやわらかな曲線を描いていた。
「籠ごと差し上げるわ。大事にしてあげて」
両の手から受け取るとき少年は、ずっと微笑んでいた少女の笑顔がにわかにかき曇るのを見た。
「どうしたの」
「蝉」
「え?」
「鳴いているわ。あれのせいでこの子の声はずっと喉元に閉じたまま」
深緑色の木々のそこここに、蝉は絶え間無く鳴いていた。
伽耶は忘れていたのにと、こめかみに指を押し当て髪の毛を留めた。
忘れることなんてできるのかい、ずっと鳴いていたのにと少年は聞いた。
あなたは顔も声もきれいだもの、どんな音もかき消えてしまうわと少女は答えた。
影の濃い部屋だ。少年の目はちかちかと疲れを覚えた。伽耶の後ろに覗く銀縁の窓から白い雲が見える。夏の空と蝉の音、太陽、太陽と叫ぶ日向の世界。
「うるさいの。一番嫌いな音よ。
だってそうでしょう、蝉が鳴く音ってまるで」
蝉と文鳥
わんわんと鳴く音が頭に残ったか、その日ライドウはなかなか目覚めなかった。
今日も文鳥は鳴かない。自室のベッド脇にある鳥かごを見て再び目を閉じる。眩しさが眉間に皺を寄らせた。
音の混じる朝日をうっとおしく感じたライドウは、脚に弾みをつけて寝床から起き上がった。にくにくしい目をしている。
『遅い目覚めだな』
カラスが扉の隙間から入ってきた。彼がいつでも出入りできるようにライドウの部屋のドアは完全に閉め切られることはない。少年は「おはよう、ゴウト」となれなれしく当たり前のように声をかけた。
『細長いうめき声が聞こえた。夢見が悪かったのか』
「蝉のせいだよ」
今聞こえるのは悪魔の斃れる音と、斬撃を振るう、己の太刀の残響のみだ。
手水鉢の底の底、修験界と呼ばれる修練の場所にてライドウは百の悪魔を屠っていた。
傷ひとつ負わず灼眼の老悪魔の手助けも不必要とばかりに次から次へと悪鬼どもを白刃の餌食としていく。
襲い来る悪魔を見る目は冷たくもなく燃えてもおらず、ただただ途切れることのない集中力でもって討ち伏せる陣を練り上げていた。
蠅の王に悪魔召喚師としての力を認められて、彼は刀の血を振るい落とす。
腰の鞘に刃を収めて、老悪魔を管に戻して歩きだしたその時に、ライドウは初めて足を滑らせた。自らの振るい落とした血だまりに靴が滑ったのだ。失態はそれだけだった。
膝を打った時に「いた」と漏らす少年を見てカラスのゴウトは口端に糸くずのような皺を作った。どうとも読めない。
「いやになるな。血がついたよ」
少年はそれまで返り血も浴びていなかった。