夢を見たと思う。
月明かりの下で影踏みをした。
遊び相手はひとりきり、川縁に長い脚を弾ませて僕の靴から逃げてゆく。
たんとんたんとんと影を踊らせるあの人は僕に捕まるまいと遠くの柳の下に身を移した。
天の川みたいにさやさや流れる木の葉の影が彼の靴音と重なって輝いていた。
夢を見たと思う。
檸檬色の光の中で遠近(おちこち)と駆けてゆく黒マントを追いかけていた。
頭から足まで全てが真っ黒なのに檸檬の地に踊る影だけが妙に薄く感じられたから「そうか、俺が捕まえないといけない」と思った。
腕を伸ばして小さな肩へ触れる間際、書生はこちらへ振り向き一言、
「あ」
胸うずくような音をこぼした。わけもない、肩を掴むよりも先に俺の靴が少年の影を踏んでいた。
「その時の表情な、今でもたまに見るんだよ」
「僕は今、あまり見たくもない表情を見ています」
「話題を繰り重ねるのはお前の悪い癖だよ」
「あなたから伝染ったんだ」
「どんなだよ、見たくない表情ってのは」
「正確に言えば」
急に真剣になると思った。
柳の下で逢瀬を重ねるように身を隠していたのに、ふと僕のことを遊び顔から一転、全部が定まったという風に見つめるからたまらない。
とろかした蝋を心臓に押し当てられた。彼の眼差しはそのくらい熱くて、耐え難いものだった。
影すら踏まれるのが恐くなって、僕はその場から一歩後退り、砂利を弾ぜた。
高鳴る胸をもてあまして風を切るマントがどうしようもなく恥ずかしい。
端々がはためく度にまるで「追いかけてきて」と誘っているようで、そんなことはないのだと、僕は外套の分かれ目を胸元でしっかりと握りしめていた。
あぁ、少しだけ楽しく遊んでいられたらそれでよかったのに。
想いをこめて振り向くと、実を分け与えた彼がそこにいて、水のようになみなみと注ぐ深い潤いを僕に寄越した。
立ち止まっても、振り返ってもいけなかった。
そんなことはわかっていたのだけれど。
「あ」
望まぬ縁で開いた花が内から外へ咲いてしまった。
「どうして振り返ったんだよ」
「さぁ。どうしてでしょう」
「白状させてもいいけどね」
「やれるものなら」
「でもやらねぇ」
「なんですかそれは」
「だってわかるもん。お前、見たかったんだろ。もう一度」
ねぇ、影踏みをしませんかと誘ってきたのは少年のほうだ。
このくらいの月明かりなら薄暗い影が作れるんですよ。
夜遊びをしたい気分なのかと尋ねると奴は黒猫のように微笑んだ。
窓に背を向けて立つそいつを影でもいいから捕まえてやろうかな。
俺は細長い煙を紫の部屋に残した。灰皿へ押しつけた煙草が皺を刻んでいる。まるで留守番を言付けられたのを不満に感じているようだった。
夏とはいえ夜はまだまだ寒いからそのマントを着なと外套掛けを親指差して、俺は一足先に外へ出た。
満月じゃないか。
狸でなくとも囃子を打ちそうだ。
ひとりそんなことを思って片方の口端を持ち上げた。
はじまりの合図は単なる目配せで、まずは俺からひょいひょい逃げた。
どちらかが影を踏まれたら夜遊びは終わり。
そう決めていた。
捕まえた後のことまでは決めていなかった。
夢の続きが寝具の上なのは当たり前なのだが。
「そうですよ。こわいくらいの瞳をもう一度、見間違いじゃないのかなと自分を謀って、振り返ってみたかった」
「その結びが今のお前の姿か」
「あなただって裸だ。僕にまたがるようにして、こんな、腹の上に、くちづけを」
「息が荒いな。力を抜けよ、すぐに黙るようになる」
「いいえ。いいえ、黙らない。いつもそうだ、何も知らない僕を抱くくせに、あなたは大事なことひとつ教えてはくれない。
ただ楽しみたかった僕に易々と触れて、何もかもを見透かした目で笑いかけて……」
大嫌いだ。
お洒落な靴先で影を踏まれた時も、嘘でもいい、そう告げようとしたのに、彼は僕の頬にとてもきれいな薬指から連なる長い幹を伸ばして、多分に赤みの増したであろう震えきった唇へ、そっと……それはそれはあたたかな、やわらかな影を降ろした、から。
「あなたこそ黙っている。僕のを含んで、そんな、舌で……っ 転がし、て、」
「自分で自分の艶話をしているのか」
「えぇ。えぇそうです、僕は今、少し、気がちがっている」
「そうか」
「あ、あ、指が、入って」
もっと聞きたい気もしたが、俺はあの時のように奴の体に影を落とした。
指の代わりに余計な言葉を散らす太身を穴へ穿つと、ライドウはいつものとおり、激しい身悶えに通じる嬌声を上げた。
泣き声や吐息がきれぎれに飛び散り、作りの甘いスプリングがうるさく軋む。
紫の光に濡れた少年が両の腕でちぐはぐに顔を隠して堅く瞳を閉じている。
俺はそれが気に入らずに身を揺すり続けている。
よく見てみろと言ったろう。
月夜の影踏み遊びに興じる前に、奴は砂に水をやるような蕭条たる声で流し目を寄越した。
「鳴海さんはいつだってそうですよね。大事なもの、見せようとはしないんだ」
「お前は大事なものが目に見えるものだと思っているのか」
「話題を繰り重ねるのはあなたの悪い癖だ」
「見せてるさ。いつだって見せてる。お前が見ようとしないだけで」
「そうかも知れません。特にこんな美しい夜には、どうしてもそれへと目がいかないのかも」
月が出ていますよ、鳴海さん。
あぁ、見なくてもわかる。
お月さんはいつだってそこにある。
でも今、大事なものは、ここにしかないぞ。
「よく見てみろ、ライドウ」
これが俺の目だよ。
「お前に嫌われるのが一番恐い目だ」
息を休ませ、ゆらぎを止めて。
月を映したように見開いた瞳、度重なる影眸子。
心から美しいと思う少年の手指に絡ませた自身の節くれが、間に挟まる握り返しにやわらかく皺の寄る、そのあたたかさ。
月の雫と言うのか?
わからない、とてもいとおしい涙だ。
「いつも見せていたよ。お前だけにな」
夢を見ていたと思う。
重なるぶんだけ濃ゆく染まった僕の影。
彼がこんなにも優しく必要としてくれるのも、おそらくは、夢の名残。
それならば。
つかず離れず輪に傘月夜も、一度捕まってみるといい。
官能的なのだろう? そのまんまるい体はさ。
誰かに愛撫されて、見つめられて、もっとあたたかな光を息にして。
うつつはどこに?
握り合う指先が教えてくれる。
互いの甲がとてもあたたかい。
それだけは確か。
終
07/06/14(木)