「覚えといて。辞書は上から三段目の列に入れること」
何事にも努力は必要だ。
相対する者がひとりきりなら歩み寄りも楽にいく。
ただ何をすればいいのか、何を望んでいるのか、表さなければ戸惑いが多くなる。
新しく国語辞典を買い求めた少年は二段目の棚、空いているところにぶあつい背なを収めようとした。その時、背後から「ちちち」と冗談めいた手が伸びて辞書を取り上げた。なるほど常に辞書が必要そうな学生服を着た少年はここの責任者に注意を受けた。くせっ毛すら洒落た感じになでつけた男は物の置き場所がきちんと整っていないと我慢がならない性格らしい。彼が国語辞典を収めた整然とした三段目の列は隙間なく背を伸ばす辞書、辞典がずらりと並んでいた。それらには全く埃が積もっていない。よく字引をする機会があるということではなく、はたきをかける時間ならいくらでもあるということなのだ。
男らしい男がそうであるように、彼もまたきめの細かい精神の持ち主で、雑然とした住まいには身を落ち着けていたくないという意思を常に態度で示していた。
机周りを清潔な布巾で乾拭きするのも彼の日課のひとつだ。埃が隅に綿を作ってふわふわしているなど考えたくもないことであり、そうならないように身体を動かすことは苦にならない。
軽口をきく性格から生活態度が怠惰な人物であるという想像を抱く人もいるが、それはまるで違っていると気づいたのは共に探偵社に住まう少年も同じこと。彼はだらしなさとは縁遠く、声をかけずとも毎朝決まった時間に起床し、身だしなみを整える。少年は彼の髭の伸びた顔など夜を同じ寝具の上で過ごす時しか目にすることはなく、またそんな日であっても翌朝には彼が先に寝床を出ている場合が多い。愛された名残か、気だるさが少年のまぶた一枚を隔てて深い眠りへと誘っているのだ。ひとりで目覚めた日の朝は疲れと寂しさがいちどきに現実を思い起こさせて身を重くする。
そうではない日は彼の顎を親指の先でさりりと撫でてその感触を楽しんだ。くすぐったそうにする睦人の寝顔を見て幸福を感じた。だから彼の髭を見られた日は嬉しい記憶と重なって自然とほほえみが浮かぶ。
そんな暮らしに慣れたのはもうここに住むことになって一年も経とうかという頃。それでも本の置き方ひとつ取ってもいまだに注意を受けるなんてと、少年はやや途方に暮れた面もちで至るところの乾拭きをする上司を呆と見ていた。
「あの。掃除くらい、僕にやらせていただけませんか」
「あぁ、いいっていいって」
こちらを見もせずひらひらと手を振って返された言葉。
探偵助手の立場がない。雑用こそ自分がやるべきではないのか。
かといって彼ほどうまく仕事を見つけられもしない。不要なものがあったら捨てに行くことくらいはできるのだが、この部屋には第一、必要なものしかない。昨日組み立てていたマッチ棒で作られた金閣寺も今は解体されて徳用箱の中に収められている。作るのも壊すのも早い人だと、少年は彼の性格を呆れたように思い返していた。
新しもの好きな彼はよくハイカラな物品を買い求める。曰く舶来物の万年筆であったり曰く外来船の描かれたループタイであったり曰くつきの腕時計であったり。
ただそれらが探偵社のなじみの深いものになる確率は極めて低い。一時的な購買意欲が満足すれば彼はそれらのものに対しての熱が冷め、結果、売却によって部屋の中の物質量はほぼ一定を保たれる。買っては飽きて魔封具の足しにされた品をいくつ売り払ったことだろう。
見慣れた物品を眺めて少年は所在無げに立ち尽くしていた。
「ライドウ」
「はい」
「俺の部屋の枕、天日に干しといて」
今日はいい天気なんだよと、彼はようやっとこちらに向かって笑顔を寄越した。顎で指す窓の外は確かに青く、眩しい。五月の色が町並みを美しく光り輝かせている。新緑が一番の自然美で映える時期だ。川面が光の粒を栄養にして穏やかに流れている。
少年はふたつの枕を携えて階段を昇っていた。途中、階段の手すりにとまっていたカラスがカァと鳴いた。
『また鳴海に良いように使われているのか。……なんだ、枕くらい自分で干せばいいものを』
少年は鳴き声には答えず、「ゴウトも屋上に行く?」とひなたぼっこの誘いをかけた。水平に軽く曲げた右腕に黒いはばたきを乗せて、鍵を開ける。
激しい風圧に難儀した扉も一度開けてしまえば緑の風と碧空が広がる世界へと足を進めてくれる。
後ろ手に閉めたドアの重々しくも激しい音が遠く、聞こえないほどに風に吹かれて、青天井の海へと吸い込まれていくようだ。
雲がない。少年は学帽の鍔からのぞく目を見開いた。
『どうした、珍しいものを見るような顔をして』
「現に、珍しいのです」
少年の右腕からペンキの剥がれた手すりへと身を移した黒翼のはばたきは風にその羽を2、3枚くれてやった。
舞い上がる黒羽ごと風の行方を追うように視界を漂わせた少年は、羽に一瞬だけ被された太陽を見た。
黒いうねりはひらりと落ちて、高く遠く白い光を露わにする。痛くも熱く力強い。
覆いのように広がる空。蒼穹という文字はこのためにあるのか。
「筑土町でこんな空を眺めることができるなんて」
手すりに寄って下を眺むれば黒い影の落ちる狭い街路。
崩れたとしてお互いの石壁が邪魔をして地面に伏せることも叶わないだろう軒並み。
空が必要ではないというような作りの町並みが眼下に広がる。
羽のある者にはわからないこの解き放たれた感覚を深く息を吸い込むことで胸に残そうとした。自然、微笑が浮かぶ。
「ゴウトも猫だった頃には空を感じることなんてなかったんだろうね」
『充分感じたことはある。宇宙(そら)ならな。
……なんだその顔は。空より俺のほうが珍しいのか』
「ほんとに珍しい。言葉遊びで返されたのは久しぶりかもしれない」
枕に置き石がされた。一番日差しの高い位置にふたつの枕が揃って並べられている。
ゴウトはくちばしを自分の懐へつっこんで顔を隠していた。どうしたのかと聞くと『体が焼けるようだ』と言う。
「あぁ。黒いから」
『うむ。日光を余計に取り入れてしまう。お前は暑くないのか』
「さすがに慣れるよ。ここより日差しの強い晴海町へ行く際にいちいち外套を脱いでなんていられない」
『そうか。まぁ黒一色とはいえ今は学生服一枚だからな。しかしここは熱い。五月の季節にじっとしているのは酷だ、俺は出かけてくるよ』
「夕時には戻ってきてくださいね」
戸締まりの注意をやんわりとすると少年はカラスの遠い姿を空に見て『そういえば猫の時分も石灯籠の中に入っていたことがあったっけ』と、ある夏の日のことを思い返していた。涼しさを求めて潜り込んだのだろう、小さな影の中には丸まった猫がいた。黒い影に黒い体、目をつむっていたその猫はほんとうに真っ黒に見えたものだった。真空の宇宙(そら)を感じることができるくせに熱さ寒さまで感じてしまうなんて、いったいゴウトの体はどのように機能しているのだろう。必要な時だけ外界からの影響を遮断することができるのかな。そうでなければ火が燃え移ったとしても気がつかないだろうからな。今度機会があったら聞いてみよう。あぁ、それにしても本当に良い天気だな……。
学帽も外していた。風に吹かれる短い髪の毛がくすぐったくも嬉しく感じてこんなのんびりとしたことを考えてしまう。
すらりと伸びた指先で鍔を掴み、顎の下に学生帽を触れさせている立ち姿、まるで聡明であることを誇らしく思う子供のようだ。薄く閉じた瞳がまつげをも風に吹かせて微細な震えを瞼に伝える。夢は何かと尋ねられたら今にもすばらしい答えを紡ぎそうな顔をしている。
「いい天気だねー」
風にさらわれたせいだろうか。扉の閉まる音、いや開く音にも気がつかなかった。
背後の間延びした声のほうへ振り向き、少年は学帽の端で口元を隠した。戸惑ったように目線が上目遣いだ。鍔のせいで滅多に見えない眉は困った風に下がっている。
「すみません、すぐに戻るつもりだったのですが」
「いいって、そんなこと」
彼は言い訳をするようになった少年の成長ぷりを嬉しく思うようなほほえみを浮かべて(そのようなことは口に出さずに)ズボンの両ポケットに手をつっこみながら手すりのほうへと歩んで行った。白く塗られた棒の高さは彼の胸元くらいの背があった。彼は手すりに両腕を乗せてもたれかかった。格子ほどの太さの棒の列はぎぃとも言わない。
「あまり身を預けては」
「大丈夫だって。年季の入った建物だけどな、手入れが良いせいか錆ひとつないよ」
そうは思えないけどな。少年はペンキの剥がれた手すりを見て不安そうに眉をしかめた。露出している部分は鉄棒のごとく真っ黒だ。掴んだ手は銅臭くなるに違いない。
しばらく町並みを眺めていた彼は伸びをするように腕を離し、そのままくるりと反対の方を向いて再び手すりに身を預けた。今度は背中だ。両腕は風呂に浸かるように肘から先を垂れ下げて手すりに乗せている。上あごから続く白い喉が動きを見せた。
「俺さぁ、この場所が好きなんだよね。この町で一番高い建物だろ。空に近くて気持ち良いよ」
彼もまた空を見ていた。少年は空に想いを馳せている上司の上向けた顔のゆくえを気にしていた。これから何を言うのだろう。自分はいったい何と返せばいいのだろう。わずかに見える彼の唇が静寂をもって閉じてゆく。
「そうですね」
緊張に耐えかねて言ったつまらない返事に少年は拳を作った。学帽の鍔を持つ手はかたちのよい指先に深い皺を刻んでいる。こんなに力をこめてしまうのはなぜだろうと思った。
「ライドウ」
「はい」
「こっちこいよ」
こちらを見もせずに告げられた誘いに一度は立ちつくしたものの、少年は再度の呼ぶ声に応じて、彼の元へと歩んだ。
真ん前に来たところで「隣」と告げられる。手すりに寄りかかれということだろう。背が少し触れるくらいに白樺色の棒へ近寄ると、顎で空を指された。しょうがないので顔を上向ける。雲がない。
彼がなにをしたいのかわからないのでまばたきをひとつした。時々隣を向いた。目の動きくらいに顔を向けてもわずかに見える視界にはただぼんやりとした面持ちで天を見つめる彼しかいない。何をするということもなく、空を眺めている。雲もないのに、追うものもいないのに。
この場所が好きだと言ったことが嘘のように思える散人の横顔。けれど少年の心には太平の世にも獣のごとき光をその眼差しに宿らせているように映った。風のように乾いた眸子は過去に何を見たのだろう?
右肩近くで何かが動いた。彼の手だった。
反射的に肩を強ばらせたが、遠慮がちにすくんだ少年の肩はついぞ何者も触れることはなかった。手は少年の背を抱くようにして回されたのだ。手すり越しに。
背筋に触れるか触れないかの下膊(かはく)は手すりに重しをかけている。彼は相変わらず何も言わない。こちらを見ない。もどかしく思うのは自分だけなのか。肩も腕も抱かれないことを酷く苛立たしく感じるや否や、少年の腹部はたちまちのうちに鈍重なわだかまりが溜まっていった。不快だと認識すると同時にその感情を恥ずかしく思った。僕は彼に体を抱き寄せてほしいと願っている。欲望に気づいた少年の頬はぱっと紅葉が散るように朱色へと染まった。熱いのは日差しの高さだけではない。学帽を脱いでいるからでもない。
「あの。鳴海さん」
「んー」
「そろそろ帰りませんか」
「いいよ。もう事務所の掃除は終わったから」
「……すみません、すぐに戻らないで」
「だからいいって。枕がお天道さんの匂いをいっぱいに吸い込むまでここにいようって言ってるの、俺は」
「すみません」
「嫌だって意味じゃないよなそれは」
「違います。違いますけど」
もう青空は見られないと、うつむいた表情が曇っている。
「鳴海さんは嫌じゃないんですか」
そう口にしようと思った。けれど出来なかった。別に彼は肯定も否定もすまい。その前に何が嫌なのかと問われるだろう。自分といることが。言ってどうするのか。
気塞ぎが膜を作って視界を鈍色にした。手すりの手は動かない。何もしない。彼はまだ空を見ていた。
「ライドウ」
「はい」
「あんま気にすんな。大事なのは喋ることじゃない。もっと深い繋がりがあればそれでいい」
ライドウは鳴海の顔を見た。
青空のごとき冴え冴えとした横顔は疲れを底に沈ませてどこまでも遠く澄み切っている。
自分が見えているのは上辺ばかりだ。繋がり。繋がりとはなんだろう。
この距離でも結わえることのできない糸がどこかにあるのか。それはお互いの内にあるのか。繋がりたいと、思ってくれているのだろうか。
彼は。
少年は学帽を被った。
すでに彼の隣にいる意味はないという風にうつむけている頭。仰ぎ見ることもない空と、隣人の無関心に言葉すら潰された身を、ただただ日に打たせて、立ち尽くす。
人のかたちをした黒陽炎。
彼の右手は動かない。
「帰ろうか」
「はい」
わずかなため息と共に起こされた身を少し悲しく思った。
いくら五月の日差しでもこの時間ではまだ綿いっぱいの太陽を日射していないのではないか。
枕が若干あたたかくなっただけ、でも、互いが互いの側にいる時を過ごすのはもう、途方もなくためらわれた。
鳴海は自分の枕を持って階段へと向かった。ライドウも自分の枕を拾い、後を追う。背中を見つめながら眩しい照り返しの中で『彼は何のためにここへ来たのだろう』と思い返していた。俺はここが好きなんだよねと、確かそう言ったろうか。彼が振り向いた。
「お前と同じ時間を過ごす日ってのは、まだまだ遠いようだね」
何の罪も感じていないような清爽とした笑顔。夏の風に吹かれるのがよく似合っている。
少年の右肩はひどくうずいた。心臓がさくりと切り込みを入れられたように透明に痛み、誰かを思わせる風がこころの隙間を通り抜けていく。それはなんとなしに冷たく、無関心に感じられた。けれど自分に向かって吹いてくれていた。
言葉。言葉があれば。達者に回る舌があれば。
会話の中で彼の真意を見つけ出すことができたかもしれない。
棚にしまわれた国語事典を思い出す。
想像の中で分厚い本は埃をかむってうつぶせていた。
少年の心はからっぽである。
何も話さなくていいと簡単なことを告げ忘れた彼は自身の面倒くさがりな性格についてため息を漏らした。
側にいてくれるだけでよかった。
触れていようが触れていまいが、同じ空気の中で繋がっていられたらそれでいいと。
少年の要求に応じるべきだったと階段を下りきったところで答えに気づいた。
手に持つ枕はひとつきり。
エゴイズムを焦げ付かせた匂いがするようで彼の薄い胸は悲しく痛んだ。現実には落とさない涙がしみじみと心の内に広がる気がした。
カラスのはばたきが遠く聞こえる。
夕餉の膳が済むと彼は決まりきったように煙草をふかした。
屋上から戻ってからの間の空気を煙でごまかそうとするのがゴウトにはよくわかった。
何があったのかは別に尋ねず、ゴウトは水菜のおひたしをついばんでから(一度死んだ身とはいえゴウトはなにがしかを食べる。真似事に過ぎないが)水で軽く喉を潤し、そのまま黙って帽子の巣に戻った。鳴海の古い帽子にわらを敷き詰めてあつらえた彼の寝床だ。きゅうくつに見えないこともないが、ゴウトは案外気に入っているようで、一度巣に潜るとなかなかそこから出ようとはしない。
つまり彼もまた無関心を決め込むつもりなのだ。いつものことと思っているのだろう。そしてその予想は違えることがない。
「お茶は何になさいますか――鳴海さん」
「ほうじ茶」
「鳴海さん」の部位など消え入りそうに暗い。少年の声は気塞ぎのままだ。動作ひとつひとつが鉛のように重く、スムーズにこなしているようで茶っ葉をさじからこぼすという失態をいくつも重ねている。ようようお茶を運んできたと思ったら巣の中のゴウトがびくりとするほどの音を立てて椀を机に置いてしまった。椀を置くのにも神経はいる。注意していないと不快な轟音を立てて茶をこぼしてしまうことを少年は今知った。
「すみません」
「荒れてるね」
「そういうわけではありません。不注意でした、申し訳ありません」
盆に載せてあった布巾で水気の散った机を拭いていると、彼の手が音もなく甲に重なった。少年は自身の美しい手を強ばらせてじっと彼の手を見た。凝視する眼から伝わる血がめまいを覚えるほどにこめかみへと巡ってゆき、頭全体へ熱い痛みを覚えさせた。頬など茶をこぼした時から赤いが、突然の手のぬくもりに怯えたせいか、かえって血の気を失って真っ白に近づきつつある。彼は美甲に乗せた手はそのままで、左手で軽く頬杖をついた。微苦笑というのだろうか、うすくにがい笑みを浮かべていた。
「今夜さ、」
「そのままで」
鉄の言葉だった。
「何も言わないでください。すぐに片付けますから、どうかそのままで」
声が震えていた。彼が手を離してくれるのを待っているように、少年は紅色の息もひそめて静かに之を待った。
鳴海の横顔は笑みから一転、平静そのものだ。明日も変わらぬ政を行う事務官のように退屈な目をしていた。けれどその奥に気の毒な光が宿るのをゴウトは黙って見ていた。鳴海が少年の手を握りしめたら、指の間に自身の指を一本でも入れたら、甲をさすったら、少年がどうなってしまうのかをわかりすぎている大人の双眸を映していた。これ以上のことは何ひとつ許されるものではない。枕をひとつしか持ってこなかったこの男には。
鳴海は触れた時と同じように、音もなく少年の手の甲から掌を返した。ぬくもりの残る手指をひらひらと振る。眉を下げた笑顔で頬杖も止めた。少年は椀だけを机の上に残し「お先に休ませていただいても構いませんか」と問うた。
「あぁ、いいよ。おやすみ」
少年は一礼をして流しに盆を置き、そのまま自室へと戻っていった。
鳴海は背もたれをぎぃと鳴らして頭の後ろで腕を組んだ。年相応の長いため息が何も色を変わらせず暗い室内へと満ちていく。
ゴウトは目を瞑った。ほうじ茶はぬるみを増すだけだろうと思った。
あとには時計の音がしみていくばかり。
今朝の鳴海の頬髭を少年は目にしていない。いつものことだ。机を乾拭きする鳴海の肩を見るのも目に繰り返し同じ色を塗られているかのような日常の光景だ。少し違った点はある。鳴海は布巾を窓の桟に放って少年に用を言い渡した。
「俺の部屋の枕、天日に干しといて」
同じ絵が幾数も連なるフィルムを窓から差し込む光と共に見せられた気がして、帽子の中のゴウトは翡翠の目をビー玉のように瞬かせた。
まばたきをしたわけではなくて、妙な光景を眺める風にころころと目玉を転がしているのだ。
少年は茶碗を片付ける手を止めて彼の背中へ目をやった。逆光が白いベストを灰色に見せている。彼は窓の外へ顔をやっていた。
「いい天気なんだよ」
言付けを果たさない少年のほうへ振り向かず、用件だけを述べて彼はズボンの両ポケットに手を入れた。窓に覗く透明の顔は眩しそうなしかめ面だ。眉間の皺を太陽のせいにしている。
枕を取るのも階段を上るのも、いつもの真っ白な少年の相貌だった。ただ光の下へ行こうとしていた。眼差しは屋上のドアよりもずっと遠くを見つめていた。
扉を開けば緑の風と青い空。真上に広がる世界に邪魔な学帽は必要ない。鳴海はテーブルに残された少年の学生帽の鍔を拾い、すぐに手を離した。屋上に続く階段のほうへ顔を見やる。
少年が手に持つ枕はひとつきり。鳴海のものだ。激しくごうごうと耳を鳴らす新緑の空気を深く吸い込んだあと、上向けていた顎をホワイトシャツの襟元近くへと引き戻した。はためくシャツの生地からなめらかな鎖骨が伺える。小さな透明のボタンがきらりと熱を吸い込んだように輝いた。
閉じた瞳がゆっくりと開かれる。背後の音を感じたのだ。少年は振り向かず、枕に置き石をして、再び風に自身をたなびかせた。
「忘れ物」
ふたつの枕が隣り合った。置き石をする骨張った手を少年は黙って見ていた。くせのある頭髪の下からわずかに覗いた唇は軽く持ち上げられているようで、なんとなしに不機嫌な気持ちになる。
「今日も雲がないねぇ」
空も見上げず彼はそう言う。両ポケットに手を入れたまま手すりへと近寄り、くるりと回って両腕を乗せる。風呂に浸かる体勢でのしかかっても、乳白色の鉄骨はびくともしない。
点と線が結び合うように男と少年はお互いの顔を見た。彼の眼差しはあくまで強く、鎖付きの錠前を外しにかかる盗賊のように澄み切った影を落としていた。階段ひとつない距離が光る風に吹かれて碧落へと流れてゆく。少年は歩んだ。鍵を外される前にこちらから扉を開けてやるというような気の強い面持ちで。
彼の右隣に並んだ。手すりに身を預けて両の手を軽く絞る。目線は彼とは反対の方を向いており、つまり下かと言えばそうではなく、横に流れて移ろっていた。隣り合っているのに決してお互いの方を見ようとはせず、もし雲があったならだいぶ風に流されているであろう時を経て少年は一言、
「じれったいですね」
と、怒気と苛立ちが入り交じった声音でそう告げた。
吐き捨てるような言葉のあと、体を手すりから浮かすと、ずっと寒気のしていた右肩に力強いぬくもりが触れた。体ごと、心まで抱き寄せようとする握力が少年の背なを両の腕(かいな)で奪わんと――
くちづけを交わすのは盗賊と宝か、男と少年か。
舌が唇の形をいくつもなぞらえて這うようにきつく食み、肉厚を重ねられた側の咳き返しすら貪欲に吸い込む。
顎はさかんに角度を変えて互いをねぶり、噛みつくような歯をぬめらせ、覗かせる。
片息が熱を持って雫を口の端からこぼすと、啜るように上唇がへたりと顎に添う。うぅんと少年が喘いでも、お互いの両腕は今や背中から少しも離れようとはしない。枯れがれの息差しすら彼には極上の水と思えた。塩気の混じった水が頬に伝った時、男はようやく少年の口辺から顔を離した。涙の味には覚えがある。
水茎の跡が頬を透き通り、天女の指が雨を喚び濡らしたと思えるような、それはそれは曠古またとない美しい泣き顔だった。
何を言うのだろう。
このような美しい涙を味わえたのなら命すら失っても惜しくはない。
男は恍惚にも似たまどろみの中に居てぼんやりと思い、少年のいかなる責め言葉も享受しようと背なをいとおしく抱き。
「ありがとう、ございました」
届く言の葉に泥の心を引き裂かれた。
「なに、を」
「違います。違います。あなたをひとりにはしません、そうじゃない」
男の心の内を何度も経験した者にしか紡げぬ言質をひとひら残し、少年は唇を噛みしめて、彼の胸元にうつぶせた。
脇の下で掴む手指の力は儚くも強く、言葉の在処を明らかにする。
「愛してくださったことが、嬉しくて」
ずっと抱き寄せられることのなかった両肩が雨に打たれたように震えていた。すすり泣く声が胸元から遠く聞こえてくる。
「僕は」
暗闇の中を生きる者の手探りのごとく這う指が背から肩口まで震えて伝い、彼の体を抱きしめた。それを頼りに耳元まで寄せた唇が空気を食むように熱く囁く。
「愛されることが当然だとはどうしても──そんな風にはどうしても思えない。ありがたくて、どうしようもなくて、だから」
陽はまだ遠い。
――大事なのは喋ることじゃない。もっと深い繋がりがあればそれでいい――
それは確かにそう。ひとつの真実で自分の最も望むものだ。
ただこの礼に見合う言葉ひとつ、何かがあっても良いものだと強く思う。
男は空を見た。繋がりとも呼べない抱擁を解かず、町の彼方の広がりを目にする。覆いのように続く青空。
「ライドウ」
空は空だ。誰を庇うでもなく、ただのびのびと青い。男は笑った。口元だけに浮かぶ微笑を少年は目にすることがない。
「今日が晴れていても曇っていてもお前を此処まで連れていくつもりだったよ」
今宵この言葉を言おうと思う。
枕はきっと太陽の匂いがするだろう。それが旭日でも斜陽でも陽には違いなく此処にいた証となる。
ふたつ並べた場所に身を沈めたくて鳴海は少年の耳元に顔を埋めた。
お前が愛されるのは当然だと、同じ時間を過ごしたいと、寒いのならずっと体を抱きしめてあげたいと。
鳴海はほんの少しの努力をして之を伝えた。
少年はくすぐったい気持ちとわずかばかりの申し訳なさと心よりの嬉しさをそのまま微笑みというかたちにして彼の胸に預けた。
すり寄る頬がある匂いを伝えてきた。今頃、枕いっぱいに吸い込まれている匂い。
夜半を迎えても、枕が床に落ちても、絶えず此処にある幸福の名残を思い起こさせてくれる何かが彼の体から香ってくる。
そうだ、いつも彼の隣で朝を迎えた時に――
少年は思い出した。懐かしく瞳を細めて、微香と共に残るある記憶を、瞼の裏に映し出す。
陽の光を窓から受ける彼の寝姿にいとおしさを感じて、昨夜くちづけた頬に、そっと指先を触れさせた。
少し伸びた髭をさりりと撫でたその時に。
お日様の匂いがした。
終
07/05/01(火)