石は見ていた。
横たわる泥水の中からたまたま意識を向けた方角に、ひとりの少年がいたのだ。
黒外套に学生帽、雨粒にも隠せない霧のような肌の白さと、これしかないという立体で顔どころか外套に隠されている身体をも形作られているであろう、ひとり佇む少年を。
彼は校舎の軒下にいた。
走って帰ろうか、もう少し待って、濡れるのを避けて行こうか、そんな思案の表情すら角にきらきらと美しい顔を曇り空へ向けていた。
雨が降っている。
蛙は見ていた。
雨と戯れようと、鈍い動作で葉の陰から飛び跳ねてきたとき、遠く、校門の向こうからひとりの男が歩いてくるのを。
仄暗く濡れた石のような色の傘を差すその男は、もう一本の傘を携えていた。その色は夜明け前の空の色だった。歩む足取りは水はねひとつ起こさない。土の色によく似たズボンは更に深みのある大地の色にはならなかった。
その足は闇色の服を着た人間と向かい合う位置で止まった。石が見ていた軒陰の少年の前だった。
「お待たせ」
別になくてもいい、太陽のような声が降り注ぐのを、蛙は確かに聞いていた。
金木犀は見ていた。
大きな雨粒が身に降りかかるたび、橙色の小さな花々が地面に落ちていくのをやるせなく想いながら、校舎脇にいるふたりの人間が何事かを話すのを。
「別に待ってはいません」
自らの香りをかがせたくなるような、優美かつ麗しい少年が口を開いた。なにか相対する大人に対して、大変な敵意があるのを、金木犀は、その細い枝が痺れるほどに感じ取っていた。
「まぁそう言うなよ。お前が平気な顔してずぶ濡れになる前に間に合ってよかった。ちょうど下校時刻に合わせて来たんだぜ、えらいだろ」
「えらくもなんともない」
「弁当を届けてやったこともあるのに、つれないねぇ」
どうやら共に暮らしているらしい。
金木犀はまた一粒、花片をもがれるほどの雨の痛みを受けた。
そのままふたりを見つめることにした。
なぜ優しくしてくれる瀟洒な彼に向かってあんな口をきくのかしら。
花は女だった。
石は泥の眠りを妨げられるびりびりとしたふたりの声を、ただただ聞いていた。
もやもやとする泥海の中でなにができるだろう。
見るのも面倒くさい。
だから声音で様子を伺うことにした。
「あなたは自分の都合のいい時ばかり迎えに来るんだ」
「俺の調子ってのもあるからね」
「そうそうあなたばかりに頼ってはいられないんだ。いずれ僕はここにも通わなくなるんだから」
「まずは傘を受け取れよ。卒業はそれからにしたらどうだ」
無言。
ため息。
「しょうがねぇなぁ」
ぬかるみを歩く音。
水音から土の音に変わる。
雨の届かない場所へ入ったのだろう。
軒合で雨宿りか。
石は会話が長引くのだろうなと面倒くさそうに思考した。
「軒先の相合い傘といきますか」
「くだらない」
石はどちらもどうでもいいと思った。
蛙はどこを見るということもなく、雨でてらてらと濡れ光る黄緑色の背中へ全神経を集中させていた。
そうするとあらゆる情報が手に入る。
身近な生物であるふたりのことも口でぱくりとやるようによくわかってきた。
ふたりは両方とも男だが、恋人同士だ。喉の鳴き声、ふるえで、かすかどころか底に秘めた情愛がさやかに伝わってくる。
これは要するに痴話喧嘩なのだ。
「まだ怒ってるんだ」
「怒る? 何に?」
「子供っぽいこと言うなよ。お前が帰ってきたとき、俺が事務所にいなかったから、いまだに根に持っているんだろう?」
「あなたのことなど知りません。僕が気にする必要なんて全然ない。好きにしたらいいじゃありませんか、ひとりでどこへなりと行ったらいいんだ。僕だってどこかへ行く、もう子供じゃない。僕のことを慕ってくれる人達だってあなた以上にいるのだから」
「そうだな。そう思って俺は安心して出かけたんだよ。これでカタをつけられるって、そう思えたあの時は実に足取りが軽かったな」
不意の言葉に息を飲む。これは少年の喉の動きだ。
「ま……結局、また帰ってきちまった。戻らないつもりだったのに、どうしてか俺はいつも」
聞いたこともない音がした。
なんなのだろう、石を蹴ってもあんな音はすまい。
我が同胞が心ない機械の荷車に轢き潰されたとき、とも、なにか違う。
人間はがっしりとした顎というものがあるそうだ。
石より軟らかく木よりも固い白い骨というものがあるそうだ。
それを殴ると、もしかしたら、あんな鈍く、鋭い音がするやもしれぬ。
雨が強くなってきた。
目に泥が入る。背中が少し、痛い。
けぶるほどの豪雨のなか、金木犀は我が身が枯れ落ちていくのもかまわずに(意識したとてどうなるものでもない)軒下にいる男と少年のやりとりを見ていた。
もはや声すら聞こえない。細かい石粒を天から流したような暴雨は、かろうじてふたりの姿を隠さずに済むくらいの透明度を保っていた。
殴られた側はずれた帽子を直している。なにがおかしいのか、唇の端を持ち上げて、下げた瞳は薄く閉じて。
殴った側はなにかを口々に叫んでいる。拳を振って、訴えるように、彼しか見えないという眼差しのまま。
男はなにか言った。怒ることもせずに。
少年は見えない壁に遮られて、それ以上進めないというような見開いた表情で、彼の言葉を聞いていた。
頬を触ろうとしたのは、そのきめの細かい肌が、目から流れる雫に濡れ伝っていったからか。
その男の手。
甲どころか、指先にまで白い布が巻かれている。彼岸花のような赤模様が、水に滲んでいるかのように毛羽立ち、幾数もの細い布を彩っている。
少年はその手から逃れるように、一歩、風のような早さで後ずさった。
降り籠める雨のなか、聞こえたのはこの、ただの一声のみ。
「嘘つき!」
石はその震え声で意識を取り戻した。
まだ続いていたのか。
なにをやっている?
傘があるのならどうして帰らない。
わざわざ迎えに来たのだろう、男も早く身内を連れて帰ればよいのだ。
そんな風に、胸元に少年の身体を抱き寄せていないで。
慰めているのか。
泣かせたのはお前だろうに、慰めているのか。
最初に頭を寄せたのは少年だということも、石にはよくわかっていた。
その前に男がなにがしかの片言を口にしたことも。
石にはわかっていた。
それが決して本当の意味がこもることのない、謝罪の言葉だということも。
だからもうすぐ終わると思った。
このふたりはずっとこうなのだろう。
どこか諦めながら生きていて、片方はそれでいいと願い、もう片方はなんとかして変えようと行動し、結局はどちらもなにも変えられないまま相手にすがるのだということが、石にはよくわかっていた。
もうすぐこの痴話喧嘩も終わる。
その時こそ自分は深い泥水の中にゆっくりと潜んでいられる。
その時が雨が落ちるよりも早く来ることを、石はぼんやりと願った。
蛙は蕗の葉に隠れて雨をやり過ごしていた。葉先から雫が滴り落ちたのを見て、ぴょんと飛び出す。
そして鳴いた。
晴れ上がってしまったのだ。
からりと、背に当たるこのあたたかさからすると、もう雲もどこかへ行ったに違いない。青空を感じる。
やはり通り雨だったのだと、短い遊楽の時をじょうずに謳歌し損ねたことを想い、蛙は喉を鳴らした。
ふと見るとあのふたりも顔を上げていた。少年はもう泣き止んでいる。想いのたけを暴力へと変えたその少年らしい頼りなげな手を、彼の胸元に寄せていた。よりかかるように、美しく。
「ひとりでどこかへ行くのは、もう」
「わかってる。ごめんな」
ため息をついたのは少年のほうだ。
諦めて、しょうがないという風に、瞳を閉じる。
「言いたいことはまだあります」
「うん。でもなぁ。
もうここにいる意味、ないぞ」
彼は包帯を巻いた片手を上げて手のひらを空へ向けた。何も降ってこない。少年はふっと息をつき、彼から離れた。
「帰りましょう。先に行っててもいい。今度こそ事務所で出迎えてくれるって約束してくださいよ」
「俺が常日頃デスクに向かってると、なにかと文句を言うくせに」
男は洒落た感じに傘を二本、腰に携えて歩きだした。
「男の子ってのは、わがままだねぇ」
少年はぱしゃぱしゃと後を追う。
校舎の軒下はがらんどうになった。
黒い靴が立てた水しぶきを蛙はもろに顔面に受けた。不満をあらわに喉を鳴らす。
傘なんてなんの意味もないものを、人はなぜ作ったと、蛙は太陽に問いかけた。
まぶしいばかりで答えはない。
「持ちますよ」
「いいよ」
「二本も持つなんて変だ。僕は鞄のほかにも片手は空いてる」
「いいから」
「鳴海さん」
互いの指先が触れるのを金木犀は見た。
ふたりは同時に立ち止まった。
少年が男を見上げる。
男が少年を見つめる。
「まだ治りきっていないでしょう」
包帯を巻いた手をかばうように包み込む、そのやわらかな両の指先。
眼差しはあくまでもまっすぐであり、胸がちぎれるほどに優しい。
「無理をしないでください。手どころか、その身体だって──まだ……なのに、僕は……」
あぁ、少年の心はなんという──。
鳴海と呼ばれた男は、下がり眉のまま、ゆっくりと周囲を見た。
他に学生がいないことを確認して、ようやっと、その震わされた心を表に出した。
泣かないようにと我慢しているかのような、への字に堪えた唇をそっと少年の顔へ近寄せて……。
金木犀の橙色の花は、最後のひとひらまで落ちてしまった。
まるでその光景に驚いて、葉を震わせてしまったかのように。
――なぜくちづけを交わすのかしら――。
わからないまま花びらを全て落としてしまったのが悔しくてならない。
来年こそは、あの少年をこちらへ振り向かせてみせよう。
かぐわしき微香を洗い流してしまった雨を憎みながら、金木犀は空に願った。
どうか次に花咲くときも、あの少年をあの姿のまま、生かしておいてと。
あの男よりも強く願おうとして、しかしそれは無理だと、葉っぱのみの金木犀はやがて満ることのない愛を悟った。
雫ひとつを橙色に染まった泥水にこぼして、その姿はまるで――恋に破れた乙女のように。
終
06/10/09(月)