ちょっと様子がおかしいなとは思っていた。大体2、3日前から。

 まだ日差しも高い青空が窓から見える。時計の針は正午を指していた。
 光に照らされた埃がきらめいているなか、僕はソファに座って本を読んでいた。

 用事があってもすぐに本を閉じられるように、短い言葉が連なる詩集を読んでいた。なかでも特に短い詩を読んでいたときのこと。

 視線を感じないわけではなかった。
 何も見ていないようであの人はしっかりと意識をこちらへ向けていた。手を口前で組み重ね合わせたり足で床をぱたぱたと踏み鳴らしたり、何か言いたいことがあるくせに僕がデスクを向くとふいと視線を横にそらす。

 ばかな人。
 そう思って僕は文字を追う。

『おわああ、ここの家の主人は病気です』

 病気か。そうかもしれない。
 そちらを向くと机にうつぶせた、まるで人生に敗れた者のようにぐったりとしている彼のもじゃもじゃしい頭が目に入った。てんてんと指先で机を叩いている。背中がかゆいように身体をもぞもぞとさせている。鼻から大きく息を吐いた。

 かまってほしいのはみえみえ。
 だけど僕は本を閉じる気がまだない。

 ちゃんと言ってほしい。そのほうがいい。眼球まで凝り固まったような表情をしてこちらをじっと見つめている困った大人には、それくらいのことはきちんとしてほしい。

 僕は文字を追いつつも内容なんか全く頭に入っていないまま、そのときを待ち続けた。どんな些細な音も聞き漏らさないように、耳だけは彼のほうを向いて。

 ゆっくりと頭を上げる音がする。
 こちらを見ている。腕は身を起こすためにのびきったまま、なかなか机から離れない。動こうか。どうしようか。止まった彼の身体からその想いがわかる。

 椅子の鳴る音がした。床を引きずった足の音。むっくりと身を起こす衣擦れの音。席を立ったって安心はできない。台所に行ったり洗面台へ逃げたりするかもしれない。

 でも今日の彼は勇気があった。小さいけれども、こちらへ向かう決意がついたのだろう。だけど僕は知らぬふりをする。声をかけられるとは予想だにしなかった、というふりをするのが彼にとっては楽かもしれないと思ったのだ。自分には無関心だ、想われているとは露ほども感じない、透明な少年というのが好みかとも思っていた。そういうのを好きな大人もいるから。
 彼がそのタイプかどうかはまだわからない。でも気にかけてくれたのを驚いたとき、とても嬉しそうに笑う彼の表情を思い出してしまったものだから。
 そんなそぶりをしたのかなと、僕は子供っぽさを後で笑った。

 僕の前を通り過ぎた。
 事務所のドアを少し開けて『休業中』の札を出す。戻ってきた。本に影が射す。脇にあったクッションを掴み、床にぼんと置く。そこへ寝ころんだ。少し寝てはクッションの位置をずらしてまた寝ころぶ。その行為は床の上で3回行われて、僕はそのときには顔を上げて「なにをしているのですか」と聞いていた。

「うん……この位置かなぁ」

「だからなにが」

 彼は指をさした。窓だ。

「この位置がよく見える」

 彼はむくりと上半身だけ起こして僕をじっと見た。寝起きのようなそうでないようなぼんやりした顔だ。言いたいことは決めているのにいつもの調子が出ない表情……目だけは異様に真摯だ。できるかぎり冷たい顔で僕は見返す。彼は指さした。窓だ。

「窓開けて、こっち来て座って」

「どうして」

「いいから」

 理由を聞いたのがばかばかしい。僕はようやく本を閉じて言われた通りにした。窓を開けると彼のような気分屋の秋の風が爽やかに通った。僕はしばらく昼下がりの景色を見て、鼻から軽く息を吸い込んだ。気持ちいい。川の流れる音がする。砂利を転がす人力車の音。歩く音。聞き取れない人の声。鳥は――鳴いていた。

 鳴海さんはずっと待っていた。薄く瞳を開けて振り向くとこちらをじっと(本当に飽きるくらいの変わらない表情で)見ていた。僕は窓から離れて彼の元に膝をつく。

「お待たせしました」

「ここ……座って」

 クッションからずれて綿をぽんぽんと叩く。壁に背をつけてそこに座った。足を伸ばすように言われた。少し間を開いて伸ばす。「靴を脱いだほうがいい」と言っている間に彼が片方の靴を脱がした。僕はされるがままにもう片方の靴も脱がしてもらった。乱暴に放られる僕の丈夫な靴。その靴が転がるのを収まらないうちに僕の右膝に重量がかかった。脱がしている間にもこうしたくてたまらなかったのだろう。頭の位置を整えつつ、彼が仰向けになった。左膝は彼の片腕置きになった。

 大人が子供の膝枕で床に寝転がっている。

 彼は大きく息をついた。目線は窓から見える空に向けられている。青い空だ。澄み切った静かな色。

「クッションをもうひとつ持ってきたほうが」

「いい。骨ばってるけどこっちがいい」

「僕の腿の痛みなんてどうでもいいんですか」

「ごめんな」

 彼は頭をどける気はない。

「しばらくこうしてくれ。……な?」

 僕の左膝の裏すじを撫でた。
 女の肌だったら触っても楽しいものだろうが、こんなズボン越しの男の膝こぞうの裏っかわを撫でて――くすぐったい。腹の立つ指先だ。

 僕も触った。彼のあごをなぞるように、中指とその両隣2本でするするとあごの線を追う。ひげのざらざらとした感触が気持ちいい。僕はくすっと笑った。

「朝に剃ったはずなのに」

「暇だから生えてきたんだろう」

「剃ってあげましょうか」

「剃れるほど生えてない……」

 彼はあごに添う僕の指をゆるく掴んだ。関節部分をなぞられたのが気持ちよかった。5分ほど絡み合って、そうして飽きたのか、彼は自分の手を胸元に置いて、鼻から長く息を吐いた。
 指先同士の抱擁が済んで、僕は彼がずっと見ている空を追ってみた。
 雲がゆっくりと流れている。それだけだ。

「この位置がよく見えるんですか」

「そう。俺の位置からだと街も見えない。空だけだ。事務所の天井と、うんと顔をのけぞらせればお前のあごも見えるのかな」

「見なくていいですよ」

 少し黙ってしまった。「うん」と言ったきり、それから何もしない。空を見ているだけだ。僕は何をしているのだろう。

 なんだかいやになってしまって、僕は「もういいですか」と尋ねた。彼は何も答えなかった。黙って僕の膝裏に腕を差し込んで、棒を掴むように左足を抱き寄せた。まだ離す気はないらしい。

「なにか話してくださいよ」

「暇なら本読んでてもいいから」

「この状態じゃ何も取れません」

「じゃあ諦めるんだな」

 彼は本格的に左足に抱きついた。身体を横向きにして、頭まで左腿に乗せてきた。すごく重い。ややくの字にして足にしがみつく男なんて、本当にこんなところ、他の人には見せられない。

「鳴海さん」

 髪の毛に指を絡めてみた。けっこう固い頭髪だ。もじゃもじゃの髪の毛に指を差し入れていると耳に当たった。耳の裏筋をなぞった。彼の身体がびくついた。僕は丸い目になったろう。こんなところが感じるのか。

「新発見だ」

「そんな大層なもんじゃないだろ」

「今度寝るときはここを触ってあげますよ」

「しまったー  弱点見せたー」

 弱点なんて今もずっと見せているくせに。
 この人は疲れている。

 色々なものを取り繕うことに。
 明るい振る舞いをすることに。
 軽快なお喋りを絶やさないことに。

 そんなのはおよそこの人の本性ではない。もっとずっとまじめで落ち着いた気質の人なのだ。他の人が望む姿を演じ続けてどのくらいになるのだろう。
 本当は誰も彼に「そうであるように」などと強制したことはないのだけれど、彼はばかな人なのでそんな実状には気がつかない。

 無理が重なった末に表情をなくしてしまうのは、僕が見るかぎりこれで2回目。

 損な人だ。そして本当にばかな人。

 けれど動物的野生のカンが治療方法を知っているのか、凝り固まった眼球のまま、彼はなにかしらの行動を起こす。
 膝枕が今回の答えらしい。

 僕は髪の毛や頬をひとしきり撫でた。
 彼は閉じた瞳のまま時折身を揺すって反応を返した。
 そこをもっと撫でてほしい、そこはいやだというような、子供のような欲求を僕に示した。首筋を撫でられたのが特に気に入ったらしい。「んー」と伸びた声で猫のように身を丸めた。
 なんだかかわいく見えたのが悔しくて、僕は左膝を無理矢理に立ち上げた。
 ごろんと仰向けにさせられた彼の不満顔が目に入る。僕も負けじと睨み返す。

「重いんです」

「じゃあこっちに寝るよ……まだ腰を上げないで、頼むから」

 彼は前と同じく右腿に頭を乗せた。空がよく見えるという位置に寝姿勢を正す。僕もちょっと座姿勢を整えた。今ごろ下半身のあちこちが赤くなっているだろう。痛いなぁ。

 時計がボーンと鳴った。もう3時だ。

「腹減ってない? 大丈夫?」

「平気です」

「こうして頭乗せてるとさぁ、お前の腹の音、色々と聞こえてくるんだよ。くるくる鳴ってるからなんとなく落ち着いてさぁ」

「よかったですね」

「うん……」

 彼はよほど僕の左脚が好きらしい。膝裏を撫でたり、すねを掴んだり離したりして、とにかくどこかしらに触れていたいようだった。

 僕は鳴海さんのきれいな額を触った。
『他人に触られて一番気持ちのいいところ』
 と前に彼が言っていた部分だ。耳掻きの綿毛のように軽く叩いていると、彼がゆっくりと瞳を閉じた。まつげが長い。僕はこの人の目が好きだ。

「空がさ……今日、すごくきれいだったからさぁ……」

 唐突な言葉。だけど僕はかまわない。眠る前の呟きはほんとうに言いたいことだけを言うものだから。
 空いている左手で髪の毛を梳いた。梳いたとも言えないが、差し入れていると彼の体温が伝わってきて――僕はこの人の声が好きだ。

「よく見たかったけど、なんかうまく目が開かないから……寝転がったら違うかなぁって、お前を誘って……」

 この髪の毛も。
 この唇も。
 身体も匂いも寄せてくれる身の重ささえも。

「きれいに見えたのは……お前のおかげだったなぁ……」

 掴めない空のような心を、なによりも愛している。
















 時計が鳴った。
 6時だ。
 焼けるような日差しが部屋に入ってくる。太陽が燃え落ちてもうすぐ暗くなるだろう。部屋の電気をつけたいが彼が起きるまで僕は床から離れることができない。ただ、寝息をずっと聞いている。足腰の感覚はあまりない。うまく立てるだろうか。
 風が冷たいのに窓を閉めることもできない。寒いな。

 しょうがないから彼のあごを撫でた。頬が少し冷えている。
 前よりも少し伸びたひげの感触を想い、かみそりでも当ててやろうかとふとまわりを見渡す。当然ながら刃物はない。じゃあいっそ抜いてやろうかしら。

 危機を察知したのかどうか――彼はぱっちりと目を開けた。僕は顔をのぞきこむ。

「おはようございます」

「いま何時?」

「6時です。そろそろ夕飯の支度をしたいのですが」

「あ、そう」

 彼は驚くほどスムーズに身を起こした。筋肉は凝り固まっていないのだろうか。眼球は? 今は何を見て――

「俺が作るよ。赤ワイン入りのハヤシライス、たまに食べたいんだよね」

 振り向いた彼の笑顔はいつも通りのやわらかな、とても優しい――大人の顔だった。
 その顔でキスをした。
 あたたかい肉厚は少し乾いていた。
 音すら立てない軽いキス。なのに長く唇に触れていた。
 見つめ合える距離まで顔をずらして、彼は笑った。

「ありがとう」

 瞳が細い。顔の筋肉がまた動くようになったのだ。端々に元気を集めたような表情で、彼は笑う。

「たまに甘えないとダメになるねぇ……人間、無理はできないようになってるんだな」

 僕の身体が持ち上げられた。さんざ撫でられていた膝裏に手を差し込まれて。思ったとおり、痺れを通りこして触られている感覚も遠い。ソファに横たえられたとき、かすかに嗅いだ香水の匂いが長く記憶に残った。床に敷いていたクッションを頭に差し入れられて、僕はもう一度キスをされる。

「しばらく寝ていてくれ。うまいもん作ってやるから、それまで、な」

「鳴海さん」

「ん?」

「もう大丈夫ですか」

「おかげさまで、すっかり治ったよ」

「よかった」

「泣かせてごめんな」

「見ていたのですか」

「聞こえただけ」

「表情は」

「いや」

「残念ですね」

 僕は笑った。

「こんな顔をしていたのに」

 彼は眉を下げて笑った。
 嘘を見抜いている表情だった。


 終
 06/09/14(木)