潮の音が耳に心地よい。
白い石畳が眩しく照り合う町で彼と再び出会った。
彼は白桜のように毅然とした軍服を着たまま、胸元に茶色の紙袋を抱えていた。どうやら買い物帰りらしい。
ライドウは学帽の位置を正して会釈をした。彼も丁寧に挨拶を返した。
しばらくの立ち話が始まった。
「元気だったかね、ライドウくん」
「定吉さんも、お元気そうで」
「見てのとおり変わりはないよ。海風もカラッとしていて、心地よい。いい天気だ。
……どうかね、せっかくだから一緒にかき氷でも食べないか」
「せっかくですが、お腹の具合が悪いので」
「元気じゃないじゃないか」
定吉は路上のベンチに少年を腰掛けさせた。自分も隣に座る。
ライドウは空を見た。薄く青く。確かにいい天気だった。異人の瞳もこんな色だというのが少し信じられなかった。
「暑くはないのかね、その学生服。もう半袖を着てもいい季節だろうに」
「半袖を着てもいいとは思いますが、外套はおそらくそのままです。管を通すベルトや腰の拳銃が丸見えでは困りますので」
「それは難儀だな。軍人でも夏は半袖を着るものだが」
「その点はうらやましいです」
「やはり暑いのか」
「それはもう」
定吉は脇に置いた茶色の紙袋から赤いりんごを取り出した。袖で丁寧に拭いて差し出すと、書生は戸惑いがちの会釈をしてりんごを受け取った。かじると甘酸っぱい唾液が口中に広がった。定吉もりんごを食べた。急に眉を下げた。どうしましたと尋ねるとかじった部位に小さな穴があいていた。中からにゅっと出てきたのはオーガニックミミズだった。
ライドウは苦手そうに身を引いた。自分のりんごも穴が空くほどじろじろと見る。定吉は「安心したまえ」と言った。
「味が普通なら大丈夫だ。私のはかじった途端にすかすかの気の抜けた脆い味がしたからな」
「不運ですね」
「あとで店主に文句を言おうと思う」
「よく買い物を?」
「青果が好きでね」
「今度はスイカをお選びになっては」
「腹下しが何を言う。それにそれは八百屋だ」
「食べたくありませんか。スイカ」
「うむ……食べたいな。スイカ」
「その前にこれをどうぞ」
ライドウは食べかけのりんごを差し出した。「はずれを引いて気の毒だから」という理由だった。定吉はひとくちかじって返した。「甘え上手だな」と呟いて。少年は聞かないことにした。
つう、と汗が流れた。
もう七月だ。詰め襟もきつく感じられる。少年はひとつだけボタンを外した。
「学帽は脱がないのかね」
「日射病になったら困りますので」
「蒸れないか」
「かぶるのが好きなんですよ」
「頭皮がかぶれるぞ」
「一度も体験したことがありませんね」
「自慢げに言うことか」
「暑いなぁ」
「やっぱり暑いんじゃないか」
「そりゃそうですよ」
学帽を取ろうとする定吉の手を軽く避けて、ライドウは手のひらで顔を仰いだ。呆とした瞳の少年に定吉は尋ねた。
「あれから何事もないかね」
「あれから?」
「斑駒の件だよ。なぜ尋ねないのか不思議に思って私から聞いたのだが」
「別に……もう、終わったことです」
「憎んではいないかね」
「あなたは軍人として行動しただけです。僕は葛葉ライドウとして、鳴海さんは元軍人として行動した。なぜ私怨を挟む必要があります」
「驚いたな。いつのまにか大人になっていたのだね」
「でも」
ライドウは呆とした瞳から急に、霧深い湖を遠く見つめるような眼差しになった。その言葉は射抜くように鋭い。
「もう一度あの人に危害を加えたらその時こそ僕は黙っていません。もう鳴海さんは軍とは何の関係もない人です。どうか彼を巻き込まないで。僕を怒らせないでください」
定吉との会話に初めて感情らしきものが混じった。手は両膝をぐうっと掴み、目は睨みつけるように遠い。
まだ終わっていなかったのだ。
定吉はそれを知って瞳を伏せた。
「もう鳴海氏が関わることはないだろう。約束するよ、私は君と友達になりたいからね」
「貴方の言葉なんて」
「すまない」
初めての謝罪だった。
書生はため息をついた。息をつめていたのか、とぎれとぎれで、震えていた。
五指の圧迫から解放されたものの、彼の両膝には固く長く皺が残った。
定吉は紙袋からもうひとつの赤いりんごを取り出して少年の手に握らせた。「鳴海氏に渡してくれ」と。
ライドウは唇を引き結んだ表情で定吉を見た。そして不思議に思った。寂しそうに見えたのだ。
彼は笑った。
「実を言うとね、ほんの少しの嫉妬があったのだよ」
「どういうことです」
「なぜ君のように純粋で心正しい少年が鳴海氏のような大人に好意を寄せるのだろうとね」
彼は立ち上がった。
軍帽をかぶりなおしてこう告げる。
「私は軍人だからね。それ以上に見られることはない。そのことがわかっていても、やはり悔しいものなのだよ」
彼は片手を上げて歩み去った。
ベンチに座っていた少年は、彼の背中が潮騒にぼやけるまで、その痛いほど真っ白な後ろ姿を見守っていた。
手元の違和感に気づき、うっと顎を引いたのはそのあとだ。赤い実に空いた穴からオーガニックミミズが飛び出していたのだ。
定吉はこれを鳴海氏にと言った。
彼の中でもまだ終わっていないのだろうか。
少年は思い切り振りかぶって、妙に軽すぎたりんごを海に投げた。どぼんと水柱が立ったそれは波紋も作らず波に消えた。
りんごは漂う。哀れなミミズと想いを乗せて。
ライドウは筑土町に戻る電車の中で、こらえきれなかったように胸を押さえた。
手のひらが跳ねるようだった。
外套の襟に顔を埋めて、書生は陽炎のようなため息をついた。
終
06/06/11(日)