忘れじの詩(うた)・26

 すべてを燃やし尽くそうとした炎が鎮火し、要塞内は煤と白い煙がたちこめていた。突風が吹いて、その名残を空に飛ばした。女吸血鬼は室内に侵入した煙も同じように払ったのだ。青年はまだ眠っている。夢を見ているのだろうか、その表情はとても静かだ。

 突然に、カミーラの脳裏に闇の糸のようなものが走った。凝縮された力の存在を感じたのだ。それは主の力だった。

 心臓のように熱く脈打つ紅の玉が、狩人の胸の上に現れた。目をみはる間もなく、それは落下するにまかせて、彼の生命の中心に吸い込まれていった。

 青年の身体が光の息吹を受けたように、ひとつの大きな鼓動に跳ねた。
 頭のてっぺんから爪先まで、血管を通じて新鮮な血が送りこまれるように、その身に生命が充溢していく。弱りきっていた脈拍は徐々に力強く音を鳴らし、肌や細胞のひとつひとつに活力をみなぎらせていく。衰弱していたことなど嘘のように、その身は疲労から解放され、奪われつづけた体力を、青年本来の姿を、一瞬にして取りもどしたのだった。

 狩人にかけられた呪いは解かれた。
 それは呪いをかけていた張本人の死と、そのものの魔力の玉によって、狩人の生命が返還された瞬間だった。

 シモンは目を開いた。天を見澄ますその表情は、宣託を受けたかのような力強さをたたえていた。
 彼は身を起こした。誰かの名前を呼びたいように唇をわずかに開いたが、言葉は出ず、かたわらに立つカミーラを見上げた。目礼を兼ねたうなずきを返し、これまでの労苦に心から感謝した。カミーラはかまわないというふうに、軽く首を振った。

「呼んでいる」シモンはベッドから降りて、胸当てを手に取り、立ち上がった。「行かなくては」

 装備を整え、部屋を出ると、一羽の山鳥が中庭に降り立った。それは青年の見ている前で、崩れた鐘楼の上にはばたき、その鋭い目を彼に向けた。異質な空間であるこの要塞には決して近寄ろうとしなかった雷鳥である。三日月を後ろにして、雷鳥は宣託を告げていた。あたりを見ると、焼け残った草木は、晩秋の季節にふさわしく、その色を褪せて、枯れようとしていた。霧や白煙にまじり、空気から埃のにおいがする。肌を圧迫する異質さは、水から上がったようにかけらも感じなくなっていた。

「清浄化は果たされた」シモンはいまだに信じられないような面もちで雷鳥を見つめていた。「7年――長かった」

 カミーラとともに門を出ると、倒れ伏している教団員と、心臓を刺し貫かれて絶命したイデュリ主教がいた。カミーラは使者のひとりにひざまずこうとするシモンの背に、張りつめた声をかけた。

「ここは私にまかせて、あなたは伯爵様のもとへ急ぎなさい」

 大丈夫よ、いまなら生存者は要塞内に保護できる――さぁ、早く。

 うなずき、主教の亡骸を哀れむように視線を移したあと、彼は十字を切った。
 彼はどんなときも祈りを忘れなかった。それが自分を苦しめた相手であろうとも、目を伏せて、静かに鎮魂を願った。

 山道を降りようとしたその時、目の前に群青色のローブがひらめいた。死神だ。彼は歩みを止めぬ狩人の歩調に合わせながら空を飛び、青年に話しかけた。

『我が主とともに城が蘇ったことを知っているか』
「ああ」
『お前はそこに赴こうというのだな』
「そうだ」
『なぜだ』
「竜公が苦しんでいる。すぐにでも行かなければ、彼は彼でなくなる」
『ゆくな。お前が町に降りれば、我が主の苦しみは一層深く、癒されぬものとなる』

 シモンは死神の真っ黒い眼窪を見つめた。青いローブをまとった髑髏からは、悲壮さと、なんらかの決意を思わせる風の音が聞こえた。

『この先、大勢の民がお前を断罪しようと待ち受けている。お前に石ひとつ、嘲りの言葉ひとつ投げかけられただけで、我が主の憎しみは底つきずこの世に噴出するであろう。ワラキアの夜の二の舞だ。それほどお前に深く関わってしまったのだ。せめて朝を迎えるまで、要塞内に身を隠せ』

 竜公が復活したのだ。時の経つままに朝を迎えられるはずがない。
 シモンは死神の顔を黙って見つめたあと、ふたたび町へと歩みはじめた。その横顔は誰にも変えられぬ決意に張りつめていた。

『シモン・ベルモンド。我が主を狂気の渦に飲み込ませようというのか』

「私を人知れず竜公のもとへ運ぶ手段はいくらもあろうが、町のものにしてはそれでは収まらぬ。どのような姿になっても必ずお前に会いにいくと――だから、それまで待っていてくれと、竜公に伝えてほしい」

『そのような言葉が通じると思うのか』今の主の姿を知らぬこの男の言い分に死神は声を荒げた。『主のためにも、お前の潔白は町のものに証明せねばならぬことなのかもしれぬ。しかし、お前ひとりになにができる。誰がお前の意志を尊重し、道をあけると――』

 死神の言葉は止んだ。
 風の精霊のような、淡い金色の光がふわりと青年のそばへ立ち並んだのだ。それは死神と比べて軽やかに空を滑り、青年に追走する。光は一歩ごとに増え、ひとつ、またひとつと、豊穣の麦穂のように大やかな金の波で狩人を包んだ。

 死神は無言で狩人から離れた。
 金の風に吹かれるように、あるいは青年の聖なる歩みから静かに身を引くように、彼は闇夜へ、そびえ立つ混沌の地へと、その姿を消した。