忘れじの詩(うた)・22

 シモンの祈りは星が落ちるように地の底へ下っていった。
 底の底へ――世界が変わるほどの下層へ、力も光も失わぬ祈りが行き着く先には、墓所と同じような白霧が漂っていた。
 もやのかかった、なにもない空間に、黒い影が立っていた。気品と威厳に満ちた確かな居姿――伯爵だった。
 彼は天を見上げていた。
 祈りを受けるようにとがった耳をそばだてて、外套に覆われた胸を張る。表情は次に取る行動を決めているかのような、確かな憮然面だ。
 見るものが見れば安心を覚えるようなその傲然とした顔が、さらに深く眉をしかめた。青年の言葉を聞いたのだ。

『もう、ここへ来ることはできないが』……

 伯爵の耳がかすかに動いた。言葉の意味するところと、青年の今の様子を想像し、公はそっと呟いた。

「不安にさせることを言う」

 続く言葉を聞き漏らさぬよう、公の耳が慎重な動きを見せた。青年の思いの深さは、公の目を細ませたり、逆に細顎を噛みしめさせたりしたが、次の言葉は人間の祈り特有の、どうにも一方的に過ぎるものだった。

『お前の安らぎを、心から……』

 伯爵は首を垂れ、ため息をつくように瞳を深く閉じた。

「君の安らぎはどうなるというのだ?」

 苛立ちを持て余しても仕方がなかった。彼はすぐに行動を起こした。
 外套から竜の翼のような巨大な羽根を広げ、公は天を見つめた。

 時間がない。早く行かなければ――。

 翼に風を受けようとしたそのとき、なにものかが伯爵の肩を掴んだ。
 そちらを向くと、長い黒髪を胸まで垂らした若い男が立っていた。
 濃緑のローブをまとい、聡明であることを誇りとするような高貴な立ち居振る舞いの――伯爵は牙を剥かんばかりに、そのなれなれしい手を睨んだ。相手が誰かなど、どうでもよかった。
 灰になれと念じると、肩を掴むその手は一瞬、炎に焼かれたが、すぐにもとのきれいな指先を黒い布地に見せるのだった。

「その手を離せ」

 男は微笑をたたえたまま、ゆっくりと首を振った。否だ。公の力のなさを笑っているようでもあった。

「狩人を助けようなどと、そんな愚かしい考えは捨てることだ」

「なんだと」

「忘れたか。わたしはお前だ。妻を亡くし、新たな伴侶さえも人間どもに奪われた、同じ記憶を持つ過去のわたしだ」

 あぁ、またか。
 伯爵は心の底からため息をつきたくなった。
 なにが真実かもわからぬ記憶の狭間で、わたしはお前だと話しかける奴のなんと数多いことか。ここに立つことも妨害してきた魂の記憶の、なんと数多あることか。竜公とはいったい、何人の記憶を所持している存在なのだろう。
 伯爵は過去の自分だと言う男を見つめ返した。余裕を感じている態度が心底腹立たしかった。この力も、おそらくは――

 男の顔が、衣服が、もとの姿に重なり、別のかたちをあらわした。
 肩まで優雅に流れる白い髪、威厳ある面立ちを為すゆたかな頬髭、顔の位置まで襟を立てた豪奢な外套。立ちはだかるものすべてを憎み、見下す、侮蔑的な目線。
 悲劇を背負うその体躯からは遠い地の火煙が見えた。
 あのとき、自分はそこにいなかった。いったい、なぜ。

 ふたりの男は己の力を確かめるように、伯爵の肩を強くつかんだ。
 肉を削ぎ、骨を砕く憎しみをこめて、使うべきときに使えなかった力を竜公に振るう。

「妻を失った悲しみの記憶はまだ色濃いはずだ。命を奪った人間どもに、なぜ力を貸そうとする?」

「複数に関与するわけではない。わたしが助けたいのは、ただひとりだ」

 伯爵の肩が不快な音を立てて、いびつに下がった。

「それが愚かなことだと言っているのだ。今世はもちろん、過去もわたしを討った狩人を助けようなどと」

 先に続く言葉にも驚きはしなかった。

『だから妻を助けることができなかったのだぞ』と――。

 目の前の男もまた、そう言った。
 自分が討たれて、蘇るのに時間をかけている最中に、妻は囚われ、火刑に処されたと。

 吸血鬼であることを見抜いた狩人に討たれなければ、妻を助けるのはいと易いことだったのに。死神をも従える自分が、人間どもの手から妻を助けられなかったはずはないのに。

『そんな憎んでも憎みきれぬ狩人という存在を、なぜお前は、助けようとする!』

「彼を憎んではいないからだ」

 単純かつ、純粋。
 それがゆえに、力強い。
 まるで、青年の祈りを力にしたように。

 なぜお前には、こんな簡単なことがわからぬのだ――彼は彼にしかできない、冷たい顔で男を見据えた。
 これを目にして、心に傷を負わぬものはいない、そんな超越的な侮蔑の表情で。
 すべての敵を同じにあしらってきたように、竜公は肩の手を鋭く、痛みを与える仕草で、はねのけた。
 砕けた肩はその威厳と同じく、なんらの影響も受けなかったとばかりに、あるべき姿を取り戻していた。
 男がどうなったかを見もせずに、竜公は黒い翼を大やかに広げた。
 竜巻よりも強大なうなりを上げて、伯爵は地の底から飛び立った。
 見上げる先に光がいくつも輝いている。
 天使――それも、大天使だ。
 青年の祈りを聞き届けた天使たちが、竜公を復活させまいと、こちらめがけて剣や槍を振りかざしている。

「さすが、最も高名なる吸血鬼狩人よ」

 伯爵のなかで、青年の地位は不動のものとなっていた。実際に天をも動かす青年の清き祈りを目にすれば、なにより一対一で対峙すれば、その力がどれほどのものか、笑みを浮かべるようにわかるというもの。
 竜公は頬肉を持ち上げ、稲妻のように白く光る牙を見せた。戦いの予感が彼の血をはやらせた。
 この刺激、この高揚――狩人の力が強大であればあるほど、彼の血はおおいに騒いだ。鎮めることなど不可能だというふうに。

 光の大群に一匹の悪竜が戦いを挑んだ。咆哮がもやを払い、血の匂いが雨のように広く、あたり一帯に交わっていった。