忘れじの詩(うた)・20

 大地に狩人の血と汗の滲みる時は、あれから五日が経っていた。
 町をゆけば通りの角に身をひそめることが増えた。後をつける不審な影が多くなったのだ。懐にはおそらく刃物を忍ばせている、憎悪の足並み。暗闇に同化し、気配を断つシモンは、時おり天を見上げてため息をついた。父から譲り受けた、竜頭に指をかけるだけでひとり別の時を動くことができる懐中時計が使えたら、こんな時はどんなに楽か――しかしその力をなくした代わりに、竜公は自分を今こうして生き延びさせてくれている。
 伯爵の命脈を分けた青年には人の悪意がはっきりと見えていた。
 首の後ろから禍々しい黒い渦が立ちこめている人物の前からは、すぐに立ち去るにかぎる。一度、そういった輩に懐に飛びこまれそうになったのだ。腹部にはもちろん、鈍い輝きのナイフを忍ばせて。強盗のつもりか、それ以上の憎悪によるものか、シモンは神秘を垣間見る目のおかげで警戒を怠らず、それを逃れることができた。以来、町を歩くときは重々気をつけて、ひとつずつ慎重にことを進めてきたのだが――人の敵意とは、想像以上に多すぎる。黒い空、黒い町並み、黒い森――竜公がこのような景色を目にしていたかと思うと、天を見つめてつくシモンのため息は自然と震えを帯びてくるのだった。
 樫の木の杭を手に水晶を壊し、懐に収めた竜公の遺骸は、爪と肋と心臓と指輪と、あとひとつ――。

 ディムの館。
 空間がねじまがり、血が黒く変色したような闇のなかを、有形無形の魔物たちがさまよい歩いている。どこを見上げても息のつまる暗さがあり、まるで屠殺場を思わせる、不快かつひやりとした密度の濃い空気がこもっていた。

 その館の奥の奥に、ひとかかえほどの水晶玉があった。台座に据えられた水晶のなかには目玉が固まっていた。単眼だ。内から殺伐とした雰囲気を見つめるように、瞳孔がくるりと上向いている。
 ひとつきりの瞳は赤かった。

 青い衣をまとった骸骨が闇のなかから浮かび上がった。肩の上には月の輪を刈り取ったような大鎌が、静かな光りを帯びている。おぼろげな輪郭と、確かな気配を感じ取り、目玉がそちらへ意識を向けた。

死神Deathか?』

 はい、と声がした。

『久しいな』

 首肯の意をこめた返事がした。
 微動も叶わぬ伯爵の眼球は、不自由を覚えながらも、その態度を泰然としていた。

『お互いに力無き存在になったものだ。分身にしても岩をどかせたり、炎をはじくのが精一杯とは』

 伯爵の眼球はこの場にいながら、狩人の動向をすべて目に収めていた。
 遠い地で、こんなことがあった。
 狩人が魔物の潜む森を抜ける際、伯爵の配下ではないものたちが襲いかかった。人と魚の合いの子のような、全身に鱗が並んだ吐き気をもよおす見た目の怪人は、口から猛火を吐いた。狩人の懐に大切にしまわれていた伯爵の肋は一瞬に盾に変じてそれを弾いた。青年の目が見開いた。『力を貸してくれるのか』彼は鞭を振るい、辛くも敵の攻撃を退けた。狩人は歩み続ける。

『力が無い――それはシモンも同じことか』

 そしてこんなこともあった。
 伯爵が己の命脈を分けたがゆえに、自身の祈りで鞭を強化できなくなった狩人は、地下深くひっそりと潜む錬金術師や魔法使い、占い師といった連中に、茨や分銅といった本来の聖鞭の力とはまったく事を異にする強化に頼らざるをえなくなった。
 銀色や虹色に輝く聖なる鞭の光は、狩人以外の魔力によって、いまはその一条に魔法の炎をまとわせ、燃え盛っている。

『もう五日か。肋や爪をその手にして――近いうちにここへ赴くことだろうが』公は死神に尋ねた。『お前と会うのもずいぶんと時間がかかった』

 死神はなにも答えなかった。
 水晶に閉じこめられたその目を見まいとするかのように。
 伯爵は尋ねた。今までどこにいたのか、なにをしていたのかを。

『……はじめに目にしましたのは、今と同じ光景でございます。異質な力により広大な歪みを生じた館と、水晶玉へと散り別れし貴方様の御姿でした』

 死神は竜公の遺骸を通じてカミーラと同じ景色を見たと答えた。
 主の魂を捜し求め、二日後、町向こうの山道から、なにごとかを命じる伯爵の声を耳にしたという。
 その後、夜間に棺の材料を買い求める狩人と主の姿を発見し――死神の混乱は嵐のごとく眼窪の奥を逆巻いた。事前にだいたいの状況を把握していたつもりでいたが、実際に相入れぬもの同士の、行動を共にする姿というのは、死神のとうにない目をこすらせるようなものだった。そのうちに――決して伯爵の配下ではない魔族の気配がした。狩人と主が背中合わせに食屍鬼をなぎはらう悪夢のような夜。いやらしい鞭の音、立ち上る美しい炎――ここは民家の並ぶ町中だ。狩人の呪力に主の存続がかかっている今の状況で、ひとり、鞭を振るう奴の姿を町人に見られては――死神は力を行使し、町全体を眠らせた。意識を失うほどの魔力を使った死神が、次に気を取り戻し、目にしたのは、要塞内で棺に横たわろうとする主の姿だった。
 彼はまたも力を使った。
 狩人を閉じこめ、主が目覚めるまでのあいだ、どこへも行かせぬ禁固の術を要塞全体に張り巡らせて。
 そして自身は虚無に包まれた。
 何日かのち、主の気配が無くなったのを雷鳴とともに知り、嘆きの果てに、今はこうして、はじめに目覚めたのと同じ光景に佇んでいる。

 話を聞き終え、公はひとこと、『苦労をかけたな』と忠臣の働きを心から労った。そして、ずっと以前から気になっていたことを尋ねた。

『なぜわたしは、狩人の部屋にいたのだろうな』

 伯爵は自身の滅びから7年の月日を経て、狩人と再び対峙したときのことを話していた。鞭を振るわれ、ナイフを突き立てられ、魂の身ではそれも効かぬ一方的な攻防の末に、首を締め上げられ、無理に誓いを立てさせられた、腹立たしく、苦々しい――懐かしい、あの日のことを。

 死神は静かな長考に沈み、やがて自身の思いを口にした。

『狩人は7年のあいだ、身を引き裂かれんばかりの呪いを受け続けてきました。強靱な精神力を特質とするベルモンド家の末裔とはいえ、その記憶や精神状態は悪化の一途を辿っていったのではないでしょうか』

 たしかに、記憶の違いや悪夢を見た直後の錯乱など、普通ではない状態にあることが多々あった。
 伯爵は続きを促した。

『伯爵様や我らが目覚めた日と、狩人と対峙した日はほぼ同じ――不完全ながら復活を遂げられた伯爵様の御力は、狩人の精神を蝕むに充分な衝撃を与えたことでしょう。それこそ、自分がなにものかもわからなくなってしまうほどの威力を伴い、奴を白痴に変じさせるような強烈な呪いをもたらした。しかし、狩人の携える聖鞭がなんらかの働きをもって、奴を窮地から救ったのかもしれませぬ』

『なんらかの働き、とは?』

『お尋ねしたいことがあります。我が主、偉大なる王――あの日、誰かに、狩人のいる部屋へと招かれませんでしたか?』

 公はかすかな水泡のような記憶を辿った。
 あの日、己が魂を宿せなかった不完全かつ不自由きわまりない身体をはなれ、暗闇をさまよっていたことは確かだ。
 そして……そして気がつけば、見知らぬ女がこちらを冷たく見据えていたのだ。黒髪をこめかみの位置でふたつに束ねた、童女のような大きな瞳をした女が。その表情は、怒りを覚えながらも、せっぱ詰まった焦りがあった。こちらを見つめながら、腹部で慎ましく絞った両手を解こうともせず、風に吹かれた絹衣のように闇へ消えようとする。ついてきてほしいと、そんな必死さが、幼くも自己を律した顔立ちに表れていた。自分はそんな様子に興味をもち、女と行く先を同じにした。町を抜け、山や森を越えて、要塞教会の壁をすり抜け――あの部屋へ降り立った。
 そこに、狩人が横たわっていたのだ。
 女と同じ暗闇の道を抜けると、自分の体は、現世に生まれ落ちたかのように、在るべきかたちを取り戻したのだ。同時に、暗黒の世界での記憶は、まるで過去生のことであったかのように、なにもかもが消え去った。

 自分は長いあいだ、狩人の寝姿を見ていた。青年のうつろに見開いた目は、彼の精神がもうすぐ狂気に包まれることを示していた。なにがあったのかは知らない。ただ、呼びかけてみようかと思った。

「ベルモンド」……

 急に、濁りきっていた目が、血と涙による正常な潤みを取り戻した。目的を定めるまなざしは自分の姿を目にとめて、そして彼は鞭を手にした。どこか、先ほどまで行動を共にしていたような存在を手にして、それから――。

『そうか。わたしは、あの女に――聖鞭に招かれたのだ。ベルモンドの子孫を救え、決して自我を失わせるなと……今思えば、そのような目をしていた……』

 竜公を討ち、伝説に終止符を打たせるためだけに、孤独に耐え、呪いに耐え、嘲笑に耐えながら、狩人は今まで生き延びてきたのだ。
 その自我が崩壊するような呪いを受けて、誰が青年を正気の淵に止まらせることができるだろう。
 家族か、友人か。
 否。
 竜公だ。
 悪魔城の城主。魔界の王。伝説の吸血鬼。
“DRACULA”

『父母よりも、親友よりも、よほど彼の正気を保てる存在であったか』

 公の意思はたしかな笑みを浮かべた。快さが死神にも伝わった。いまこの瞬間の理解は、過去のどの復活にもありえない、喜びという邪な華として咲き誇った。
 聖鞭が効力を果たさなかったのも、鞭自身がまだ竜公を討つべきではないと判断したためだった。
 青年の回復を待って、しかるべき時に闇を狩るつもりでいたが、竜公と狩人の予想しえなかった魂の邂逅に触れて、聖鞭は取り返しがつかないほどに時期を逸してしまった。そして今に至り、聖鞭は波紋ひとつない水面のように沈黙している――青年に残り少ない命を燃えさせて、魔王に深い想いをめぐらせて。魔は滅びずにここにあり、闇はどこまでも広がるように思われた。人を介して、空を覆う暗雲のように、昏く、黒く――。

『しかし』まぶたがあれば瞳をとじるだろう、ため息のような思考が水晶玉に満ちていった。『やはり、このままではいられぬ』

 首肯の意の衣擦れの音がした。
 遺骸をすべて集めて、祈りの場に赴けば、一度は身体と魂が一体となるだろう。完全とはいえぬ力をその身に宿して。
 それではなにも、望むものは得られないのだ。
 腹心は問うた。復活の際には、過去の事例と同じことが起こるでしょうが、それでも手出しは無用と?
 左様、と公は答えた。

『そもそも、わたしの記憶とは、一体なにが真実なのか』

 星満ちる音も静かな、昏い水平線を眺めるような声だった。

『友人やその許嫁を不幸にしたかもしれぬ。妻や子がいたかもしれぬ。人間どもを襲い、女子供をかどわかしたかもしれぬ。数多の狩人と対峙した際も、青白い体躯の魔物であったような、それ以上に醜い化け物であったような――戦いを幾度繰り返したのか、それすらもわからぬ。終わったかと思えばまたはじまる、欲深な人間の祈りによって玉座に据えられる自分は、まるで永遠の遊戯を生む、都合のよい混沌の産物のようだ。身に宿る誇りも偽りかと思うような、不確かな存在。
 そのような、安定を欠く記憶の内で、たったひとつを確かなものとして覚えている。最も高名でしかるべき狩人との戦いのさなか、荘厳な音楽を耳にしたことだ。至高とも呼べる、美しくも勇壮な、天上の音楽。
 ……わたしはもう一度、その音楽を蘇らせたい』

 そして、旋律を身に受ける狩人という、新たなはじまりを目にしたいのだ。

『彼ならば、記憶をなくしたわたしと対峙しようとも、迷うことなくわたしの血を鎮めることができるだろう』

 かまわぬさ、滅びなどすぐに終わる。
 この鎮魂の儀は、彼を助けるためのひとつの段階にすぎないのだから。

『そう、すぐに――力も蘇る』

 人の足音が聞こえてきた。
 台座のある部屋へと、一歩一歩、慎重な足取りで近づいてくる。若く、力強い、確かな意思のある足音がすぐそこへ。

『また逢おう』

 その言葉で、腹心の気配は消えた。
 水晶玉に映る年若い狩人。その手にある、樫の木の杭。
 悲しげな目と目が合った。
 それはひとつだけが砕け散った。