忘れじの詩(うた)・17

 事の顛末を別の場所で、別の悪魔が見ていた。最上の力を象徴する大角はくるぶしまでさかしまに事をめぐらし、金色の目は邪悪にものを見晴るかす。豪腕傲気と黒い脅威を膚に鎧としてまとわせたような厚い身体をもつ悪魔が、今はひとりの人間のために動いていた。三時課の聖詠を終え、自室に戻ったイデュリ主教の影から、悪魔は聖鞭とそれにまつわるものたちの現状を囁きかけた。

『あれで7年前に捧げられたすべての魂は解放された』

 天に召されたのですか、とイデュリ主教は椅子に座りながら聞き返した。光を透かせば銀髪に見える鉛灰色の長髪を後ろへ流した若い男だ。一見穏やかな気受けを身なりや佇まいに醸し出しているが、よく表情を観察すれば、その眉の開きに軽蔑があり、見澄ます目の動きに傲慢がある。鼻は嘲笑するためにあり、ひげをたくわえた口元は侮蔑の言葉を吐くために常に柔くふくらんでいた。悪魔と会話するさいの彼の表情を見たものは心をことごとく打ちのめされ“魂を支配されたように”彼の従順な下僕と変わる。影に悪魔が潜む男は誰にも気づかれることのない紅い光を薄い胸に宿らせていた。

「つまり呪いを成就できぬまま、あなたやあなたの主の力の源泉は、宿敵である狩人の手によって枯渇したと、そういうことですか」

 尊大な物言いだ。彼はなにものをも恐れず、魔王の配下を嘲罵した。悪魔はそんな男の様子を静かに見つめ、ひとこと『そうだ』と肯定した。

『正確に言えば狩人ではなく、聖鞭に宿るなにものかの魂が為したことだが』

「同じことですよ。加護であれなんであれ、彼を助けようとする強大な力が働いたのですから、狩人の存在がそれを為したも同然です」

 英雄とはしぶといものですねと、イデュリ主教は両手を組み、ため息をついた。脳裏には一年ごとに狩人の指を傷つけた銀のナイフがあった。男のまなざしと同じく、冷たく、鋭い、刻削とした輝きが、彼の心を倦怠と恍惚に震えさせた。

 今すぐでなくてもいいと、片手間に――毎時課とおなじく――唱えた呪詛が、このような結びを見せるのか。
 英雄の抹殺と魔王の復活、遠い昔にぼんやりと捉えた目的が、褪せをこえて、はるかに遠く、白んでゆく。

 青年の血による押印――要塞教会の管理委託文書。一年ごとに深まる狩人との血の結びつき。
 呪いを行使する際に必要な膨大な力は、悪魔やその主の支配下にあった魂から搾取していた。7年前に魔王の復活を望むものたちの手によって捧げられた、苦痛と憎悪に喘ぐ無数の魂だ。魔物になぶられたそれらの苦悶を、悪夢を介して青年にも味合わせ、活力を奪い、主の糧とする。狩人が力つきる頃には伯爵の復活も果たされると考えていたのだが、現状はいまなおひとつとして目的が達せられる見込みがなかった。魔王を討った狩人の強靱性は精神力や体力ともにもちろん予想しえたことではあったが、実際にはそれ以上の不測の事態が発生したのだ。呪いをかけた当初から、悪鬼どもに囚われていた魂のもとへ先の女が現れ、獄からの解放と昇天に尽力しはじめたのである。呪いの正体がわかっているかのような、圧倒的かつ強大な、聖なる力だった。一年ごとに青年の呪いの傷は深まるのに、肝心の力の源泉となる魂は守ることも叶わず、減少するばかりだった。いまや財貨は尽き果て、狩人は生き延び、伯爵の存在は“影もかたちも感じられない”。

「しかし、とすればいよいよ、あの要塞を火却に処する時期が到来したということでしょうね」

『無事にいくのか』

「こちらに都合のいい証言者が現れましてね」

 教会に出入りする棺桶職人、トマスが、先一昨日に主教へ相談に訪れたのだ。
 現・要塞教会の管理者であるシモンが、夜分に彼のもとを訪れて、棺に使う材木を購入していったと。

「適当な理由を述べていましたが、なにぶん時間が時間ですし、よからぬ噂のある男ですし、購入していった木材も人間相手にしては大柄にすぎる量でしたし」トマスは眉をひそめ、侮蔑と失望を隠せぬ調子で話を続けた。「ほんとうは誰の棺になるのだろうと、そう思いまして」

 月明かりをたよりに、彼はシモンのあとをつけたという。青年に追いついた彼が目にしたのは、ひとりでなにごとかを話す狩人が、突然錯乱したかのように――まるで見えない敵を打ち払うかのように――深夜の町中で鞭を振るう姿だった。

「あんな姿になってしまったのを気の毒に思いましたが、同時に怒りも覚えたのです。わたしは飢えや病気や魔物の毒牙にかかって亡くなったものたちの棺桶を数多く作ってきました。狩人とも――正統ヴァンパイアハンターともあろうものが、それら早すぎる災厄をもたらした存在に負けて、闇と通じるようになってしまったなんて」

 彼は彼自身の潔白を保つためにも、また青年の魂をこれ以上汚れさせぬためにも、このまま魔王の寝所となる棺を作らせてなるものかと、気づけば狩人を堀めがけて落としていたという。

「水音がしたから落ちたのはたしかなんですが――いいえ、彼がどうなったかは見ていません。体当たりをした直後に肩から怖気が走りまして、急に我に返ったのです。どこで誰が見ているかわからない、殺人の罪に問われるならまだしも、もしかしたら人の手に罰せられるよりもむごい仕打ちを受けるかもと――ええ、もちろん、事の顛末を知った魔王に、報復として。わたしは恐怖のあまり、その場を急いで離れました。家のベッドにもぐりこんでも、朝がくるまで震えが治まりませんでした」……

 主教は組んだ両指を期待にじれるようにこねまわした。
 青年が生きていても死んでいても、男は遠からず疑惑の目を向けられただろう。身の潔白を証明するために、自分が危害を及ぼした相手こそが悪魔の手先だと密告する。誰もが使う手段を実際に見て、主教はある特定の人物を疎外する心地よさを味わった。英雄である存在が、善行を為した人物が、いまは人々の汚れを受けて、なにも知らずにもがいている。その彼の首に縄をかけるのは自分なのだと思うと、イデュリは総毛立つようなよろこびを、歪んだ口元から表さずにはいられなかった。
 恍惚の息を咲かせる主教に、悪魔は実行までどれくらいかかりそうかを尋ねた。

「主教会議にトマスを証人として召喚し、魔王と通じた罪を告発します。その後、要塞を不当に占拠し、邪神崇拝に心酔している可能性を示唆し、狩人を正統の座から解く旨を要求します。全員同意を得るのは確実ですが、決行までの時間というと……なにせ場所が要塞では人手がいりますからね……」

 主教は長いあごひげを思索の体で指先でいじり、「一週間から十日、火却のための魔法使いや射手を集めるのはそれから五日もあれば充分かと」そう、自らの影に潜む悪魔に伝えた。

『正統の座を解かれ、住む場所を追われても、一度は主を討った男だ。状況と功績による恩赦が認められて、奴は死罪を免れるかもしれんぞ』

「それは非常に難しいでしょうね」色といい、調子といい、誰が聞いても不快になる声音だった。「彼は魔王と通じているほかに、要塞内の金品を領じているということになっていますから」

 さかしまの角の合間から悪魔はイデュリの微笑みを見つめた。
 被害者の遺品を区分し、金銭もあまさず教会へ届け出た青年の行為を、この男は(ついでのように)利用した。遺族や親戚筋が教会に赴き、財貨はもちろん、形見の指輪なり金製品なりを照会にくると、男は決まってこう告げたのだ。

「そのようなものは届けられておりませぬ」

 禍々しい力が働く要塞内は狩人以外には立ち入れぬ場所であることと、いくら疑惑に感じても一般人には調べようもない旨を説明し、彼は遺族に謝罪をする。

「このようなことがいつまでも続くわけがありません。しかし、わずかなりとも遺品を持ち帰ることのできる人物をあの地から解任するにはまだ早いかと」……

 そして狩人の人外とも思える能力をことさらに強調するのだ。青年に対し、無理に問いただした際の想像を遺族にも分け与え、彼は怯えと畏怖を含ませた態度を――自らの力の無さを恥じ入りながら神に許しを乞う態度を、全身で表現する。

 公の裁判が始まれば、どのような判決を下されても、もはや青年に行き場所はない。そして裁判を待つまでもなく、トマスの言が広まれば、狩人は人々の誤解と悪意の刃を受けて、いつかは倒れ伏すだろう。
 奇なるかな、死神によって閉じこめられたあの要塞教会こそが、いまのシモンにとって最も安全な空間だった。

 部屋はしんとしていた。

「楽しみですね」男の呟きは返事を期待しない空虚なものだった。「楽しみです」

 悪魔はイデュリを見つめた。邪な思いに疲れたように、彼は遠いまなざしで窓の外を眺めていた。目に映る秋様の風は金色の光を帯びていた。

『もとより囚われの魂など必要なかったかもしれぬ』

 悪魔は男に囁いた。狩人に自ら呪いをかけたいかと。

『力の尽きたいま、最後ではあるが、お前の心がそれを可能にする』

 机上に闇を塗りこめたような真黒いナイフが現れた。主教はそれをちらりと見て、またすぐ窓の景色に心を移した。なにかを思案し、確かめるための時間だった。

「夢うつつのことではなく、実際に彼を責め苛む感覚は得られるのですか」

 悪魔は答えず、ナイフが蛇の舌のような気炎をあげた。男は柄を握り、指を切った。とたんに、目の前が暗くなった。小さな傷からとめどもない生命の流出が感じられた。
 座したまま寝入るように男は目をとじた。口はよろこびではなく、苦悩のかたちにつぐまれていた。

 混濁する意識のなかで、男は自分がこんなふうに暗い景色のなかを泳ぐようになったそもそもの出来事を思い返した。

 7年前の狩人の帰還の日。
 魔王の死に接した青年の穢れを払うため、この教会に彼の部屋が与えられた。

「長くとも一週間、早課の祈りも控えられたほうがよろしいでしょう。五旬節までにすべての浄払いを終えられるよう、わたくしどもも力を尽くします」

 報告はそのつど、ゆっくりと伺いますので……。
 風呂を用意されていたが、青年の傷はあまりに深く、すぐには入浴に適さなかったため、そのお湯は体を拭くのに使用された。あたたかいお湯は血と同じ色に染まり、体を拭ったタオルはすべて焼却処分された。

 修道女や看護士に体を洗われる青年の姿を、あの日、この建物にいる全員が目に収めたかったのだ。
 彫刻にも表現しえない健美な肉体と、その身に受けた傷がどれほどすさまじく、興奮を誘うものであるかを、誰もが確認したかった。傷処にやわらかな布があてがわれるたびに口端から漏らす忍び声を、イデュリは滲みる心地で聞いていた。痛みに耐えるその表情は厳粛として触れがたく、居合わせたものへ自覚のない肉欲を呼びおこした。恍惚と世話をする修道女を絞め殺したい、男はそんな欲望にかられていた。

 興味は彼の持ち物にも向けられた。
 この世の欲をすべて貯め込み、金銀に変えたであろう魔王の城から狩人はいったいなにを持ち帰ったのか――金袋の中身は驚くほど少なかった。金貨はほんのわずか、指輪も装飾品も古ぼけた品ばかり。ただひとつ、イデュリの目を惹くものがあった。小指の爪ほどもある紅い宝石だ。飾りはなかったが、きれいに磨かれた石は魔王の目のように紅く美しい。石に映る自分の顔を長く見つめていると、得体の知れぬなにかに、魂の底をのぞき込まれるような気がした。耳がつまり、こめかみが熱く脈打った。息をのむ。指先が震えた。

「なにをしているのですか」

 戸口に立つ青年に声をかけられたとき、男はそれを懐に入れていた。振り向けば、こちらを見つめるその表情から、石をしまった瞬間を見られたのは明らかだった。開いたままの金袋。気づけばこんなことを口にしていた。

「わたしは」途方もない罪悪感に打ちのめされる気がした。「わたしは、悪魔に魅入られてしまいました」

 息はつまり、声は枯れ、見るも無惨に取り乱した。血は沸き立つように体中をぐらぐらとめぐり、羞恥の感情はあたりを明滅とした世界に変えた。
 なにも冷静には見られなかった。

(あぁ、手に握りこんでいるこの石が妖しく光らなければ、こんなことには!)

 自分は言い訳を口にしたかもしれない。
 悪魔に魅了されたのだ、宝石に手をのばすように囁かれたのだと。でなければこんなことをした説明がつかなかった。聖務に就き、一度として人のものを盗ったことのない自分が、盗みを働くなど。

 青年はドアを後ろ手に閉め、静かにこちらへ歩み寄った。そして、宝石を握る自分の手をそっと包み込み、こう言ったのだ。

「これは、危険なものです」

 あなたを責めはしません、と彼はたしかにそう言った。
 安堵はため息を震わせて、自分にあるひとつの確信をもたらした。

「やはり、魔王の遺品に相違ないのですか」

 彼は少し考えて、静かにうなずいた。

「ええ、そうです。人の心を惑わす石です。このようなものは、竜公の血と共に、墓所へ葬ってしまいましょう」

 誰にも言わないと青年は約束した。
 自分はうつむき、後悔をこめた会釈をしたが、石を返そうとしたその時に、またあの光を見たのだ。紅いあかい、血のような輝きを。

 退室し、ドアのむこうで天井を見上げた自分の、腹の底に渦巻く感情を狩人は知っていただろうか。

 怒りだ。
 魔王の遺品と教えられた安堵は、同時に彼への侮蔑を生んだ。

 なぜあのような、無学で野蛮な青年に罪の告白をし、謝罪せねばならなかったのか。
 卑しい武器をとり、戦うことのみを使命とする短命の種に、なぜ、聖職に携わる高貴な身分であるこのわたしが、自分の非を認めて、頭を下げなくてはならなかったのだ?
 もとはといえば、危険と知りつつあの石を持ち帰った年若い狩人がいけなかったのだ。
 人の心を惑わす魔王の遺品など、海に投げ捨ててしまえばよかったものを!

「そう。だからわたしは、彼の背中を鞭打たねばなりません」

 うつろなまなざしで、主教ははっきりと呟いた。断罪への情熱に据わる目だった。

 ――彼はたしかに、こう言ったのですから……――。

 思い返しては、七年の歳月を支えにしてきたあの日の光景を、彼はもはや情熱の域に高めていた。
 椅子にもたれ、古ぼけた天井を遠くに見つめながら、彼はぶつぶつと、あるひとつの言葉を繰り返した。

「これは、危険なものです」……

「これは、危険なものです」……