忘れじの詩(うた)・15

 今朝はよく晴れ渡り、陽の光は要塞教会の狂った大気をいつも以上に初夏の輝きに満たしていた。
 庭の中井戸で水浴びを済ませ、整髪し、髭をあたると、青年はそのまま洗濯に取りかかった。
 青年に救われた霊魂たちは、この日、雑事を手伝おうとしなかった。それでいいと彼は思った。なにごともなかったように、どこかすっきりとした表情で衣類をこする。彼の心は残り少ない余命を清虚に過ごすことに決めていた。彼の胸は空っぽだ。空っぽであるから、このような言葉も言えるのだ。

「おはよう、ヴラド」

 昨夜、哀れだと打ち明けた男がその相手に向かって笑い、挨拶をしている。言葉の内容もまるで狂人だ。いまだにここを出て行けない彼は、気鬱を兆しているような孤独な在りたちで陽光に身をさらしていた。太陽の光でも滅びを迎えられない、乱された心のまま棺で休むことも屋内に潜むこともできない不安定な己が存在が、青年とふたたび会うこと以外になにができようか。自分ひとりがそれを求めていたとしても、変化するものが必要だった。シモンは見るものの心をどこか不安にさせる明るさで「いい天気だな」と話しかけた。伯爵はなんの言葉も返さなかった。いったいなにが言えるだろう。別に自分はふだんと変わらないというふうに青年は微笑み、ある提案をした。

「風が気持ちいいし、空は冬の日差しだが中庭はいつもどおりあたたかい。少し時間がかかるが、それでもいいなら洗濯が終わるまで待っていてくれないか」

 ともに時間を過ごしてもいいということだろう。
 公は彼に近づき「似合わぬと言ったろう」と呟いた。

「そのようなことは誰かほかのものにやらせればよい」

「誰もいない。誰も」青年の表情が一瞬、悲しみに強ばったが、すぐに元の、相手や自分を気遣う情のある顔立ちに戻った。「今朝も静かだな。散歩するのにちょうどいい」

 たしかに中庭の散策しかすることがないだろう。伯爵は今も外壁に張り巡らされた腹心の禁固の術を遠目に眺めて、鼻から細く息をついた。聞くものの肩が重くなりそうな神経質な息づかいだった。

 白い城壁、常緑の庭、日の光。冬の大気は時折強くふたりのあいだを通り抜ける。自分たちを高く囲う白い壁をついつい見上げてしまわぬよう、居住地に沿って草を踏みしめていると、遠目に渡り廊下が見えた。以前にあのあたりで交わした話を思い出して、シモンは隣を歩く相手に意識を変えた。

「以前、修道院で本を探していたと言っただろう?」その言葉に伯爵はちらと相手を見た。「お前の城の書庫で本に飛びかかられて、ふと見たその本の内容がどうしても忘れられないと」

「言っていたな、そういえば」公は従容としながらも、彼から向けられた話の接ぎ穂を丁寧に手繰った。「我が城の蔵書が修道院にあるとも思えぬが」

 し損じたかに見えた手繰りが一気に獲物を捕らえたように青年は彼のほうを振り向いた。

「そんなことはない、あれは確かに一篇の美しい詩集だった」

 にわかにシモンは自分の言ったことに気づいて頬を赤らめた。馬鹿にされると思ってあのときも詳しく話そうとはしなかったのだろう、貴族でも聖職者でもない一介の狩人が詩などを好むか、理解できるのかと。伯爵は笑わなかった。勝手に自分の態度を想像し、悔しそうに目を下に背けた青年の気が落ち着くまで、その場に留まり、彼の出方を待った。頬の赤みは引かなかった。「著者の名は?」伯爵が尋ねると、青年はうつむいたままこう答えた。

「間違っていなければ……ミハイ・エミネスク」

 公はしばらく考え「ミハイか」と呟いた。

「気の毒だが、この先も詩集が見つかることはあるまい。その詩人はまだ生まれてもいない」

 どういうことだ、と気を改めたシモンに伯爵は淡々と告げた。

「主の復活とともに混沌より生まれ出でる城は、この時代にないものや、国の境を無視した品々を内包することがある。以前にわたしが『東欧にはない肉だ』と言って七面鳥を出したことがあっただろう。わたしが異国の文化に通じることがあるのはそのためだ。書庫に現出した未来に書き記される歴史書を紐解けば、ルーマニア語の父、偉大なる詩聖、ミハイ・エミネスクは、今からおよそ150年後に誕生する」

 作家として考えるならばさらに30年はのちのことで――そこまで言って、伯爵はシモンの様子に目を留めた。とまどい、うつむき、その目は飲み込みがたい時の有り様に揺らいでいる。伯爵は一度ふかく瞳を閉じ、次に互いの気持ちを変えるよう、まなざしも静かに彼に尋ねた。

「読み返したかった詩の題名は覚えているか」

 え、とシモンは聞き返した。「題名だ。一篇でも、覚えているか」
 シモンは思い出すためではなく、言葉にするのをためらう仕草で口元に触れた。答えを待ち続けているのを受けて、青年は指先を解き、彼に顔を向けた。

「……“わたしのただ一つの願い”という作品が、とても印象に残っている。諳誦できるほど思い出せないのだが……」

 あぁ、あれは美しい詩だ。
 公は彼の意を汲むように小さくうなずき、題名から未来の記憶を語り出した。

「わたしのただ一つの願い――」ふだんの通りだったが、彼の声は格調高く、甘すぎず、そして、貴かった。「夕べの静けさの中に、海のほとりで死んでゆきたい――」彼は淀みなく、ひとつひとつの言葉に敬意を払い、情感を込めすぎることなく詩を諳んじた。光射すような声の文に、青年は目を瞠った。

 あぁ、それだ、そのことばだ……。

 シモンは7年のあいだ満たされることのなかった至高の光を胸にして、魂から洗われたような充足のときを佇んでいた。

 つつましく堅実に生きたであろう人物がその命の終わりを思い、理想とする安らぎの時をうたう詩だ。旗も棺もいらない、誰も嘆くものはなく、自然の美しさに身をゆだねて、ひとり土に眠りたいと、ただひとつのことを強く願う。

「わたしはもうこれからはさまよい歩くこともなく、わたしの心はいつまでも――」その詞を読み上げるとき、伯爵の唇は数瞬の空白を噛んだ。「やさしい思い出に包まれる」……

 そして、はじまりと同じ風韻のまま、諳誦を終えた。

「すばらしい」

 余韻の後の、これ以上はない適切な間で、シモンは喝采の言を口にした。

「やはり、美しい詩だ。唱う姿もなんと――あぁ、なんと言ったらいいのだろうな」

 言葉にできない、と青年は率直に感嘆の体を伝えた。いまや空っぽではない心のうちと、深い喜びの笑顔を彼に向ける。雪が降りはじめていた。さっと風が吹いて、シモンの髪が横になびいた。

「ありがとう、ヴラド。あの詩を再び目にすることができるなんて」

 目にすること、か。
 伯爵は静かに瞳をとじた。

「充分な賛辞だ。しかし、なぜこの詩が印象に残った?」

「あぁ」シモンは偉大な詩聖の作品に誠啓の念をこめて、まなざしを遠く細めた。「自分も命を終えるときにはこうありたいと、自然に思いを重ねていた。無理なことだとわかっているが、心に願うときはこの詩のようにひとつのことを祈りたいと……」

 微笑を浮かべる青年の頬に雪が溶けた。見つめられているのを教えるように。青年が少し顔を上げたその先に、眩しい情熱があった。目を閉じなければ互いを辱めるような熱い想いだった。翠影に似たあたたかい陰りがまぶたに落ちる。雪の降り始めの静けさのなかで、ふたりは立ち添い、唇を重ねた。
 かたく口づけた唇はしかし、甘やかさも温みもなく、息をつめる間もなくそっと離れた。目を開いて相手を見つめ、どちらともなく顔を逸らす。心の動きが遅いように、互いに不感であるかのように。

 青年は胸を押さえていた。風が吹いていた。休まないかというふうに、伯爵が木立を指さした。木陰につくなり座り込んでしまった青年を見て、しばしの逡巡のあと、彼もまたなにもいわずに腰を下ろした。膝を抱えてしまいたくなる胸の痛みを払うように、シモンは空を見上げた。ちらちら降る雪と寒光はまだ空の青みを失わせてはいなかった。木陰からのぞく城壁の向こうを雷鳥が飛んでいる。要塞のなかを伺うように大やかに羽を広げるが、あたりを巡り飛ぶだけで決してこちらに近づこうとはしない。旋回を続けた鳥は羽をひるがえした黒い点となり、ふたりの視界から音もなく消えた。

「いつもああなる」

 どの山鳥もここへ降り立とうとしないんだとシモンが続けると、伯爵はあたりまえのように話を引き取った。

「まともな生物ならわたしに関わるものに近づきはせんよ」

 建物であれ人であれ、決して。高貴な声で伯爵がそう告げると、シモンは遠くを見つめたまま、静かに涙を流した。その横顔は美しく、兄弟を思う少年のように澄み切っていた。シモンは膝に顔を埋めて泣いた。公は彼の金色の髪を指で梳いた。髪に、外套に、風花の散る音が聞こえる。

「いつか君に――君が君でいる時に、夜のすばらしさを教えたい。玄妙な月の光の美しさ、霧深い湖の向こうに天地の境もなく輝く星の海……水草の陰に隠れて眠る白鳥を指さして、あれが見えるかと尋ねたい。素直な君のことだ、きっと真面目に目をすがめて、指の先を見るだろう。草を踏みしめて前に出る君の頬やブロンドの髪は月明かりが映えてとても――」

 伯爵は青年の肩に顔を埋めた。

「シモン、愛している。泣かないでくれ」

 狩人の目から新しい涙が溢れた。いまや青年は自分の首筋に彼の顔が埋まるのを許していた。牙が突き立つ感覚はなかった。伯爵は嗚咽に震える青年の肩を抱き寄せ、額や鼻筋をなやましく擦りつけている。泣き止むのを待つ間ずっとそうして、いくら優しくしてもし足りないというように、彼を彼のまま求めていた。