きっと育めるもの・1

 興味のままに口にしてはならないものとして神話や物語の中に象徴的に登場する果物のひとつにりんごがある。一組の男女が楽園から追放されたのも、美しき姫が死の呪いにかかったのも、抗し難い誘惑に満ちたこの果物を口にしたせいだ。それを破れば不幸や破滅を迎えるが、人はその果物を見ると、不思議な魅力に惹き付けられるまま、特に考えもなしに口に運んでしまう。誰かを罠にかけるにはうってつけの気安い形状なのだ。混沌の産物である悪魔城が内包する食べ物にタブーや呪いといったものはないように思われたが、りんごという果物は異界の地においてもしっかりと呪いを宿して、罠を張り巡らすように、美しく整備された庭に根付いていたのである。

 たまには気分を変えてと、待ち合わせ場所に秘密の庭園を選んだのがまずかった。狩人たちの侵攻ルートなら人の身に害のある食べ物はほとんどなく、あっても用心して口にしようなどとは思わないだろうが、その庭園は入り口の優美なアーチが象徴するように心穏やかな気持ちにさせる緑豊かな園生で、月の光にも似た清冽な風がそよぐ開放的な場所であったから、ふだんの警戒心がなりを鎮めて、シモンはさわやかな風に混じった甘い香りのもとを辿ろうと、一本の立派な果樹に近づいてしまったのである。

 逢瀬の約束をした古の城主が来るまでの暇つぶしのつもりだった。目の前に生っている真っ赤なりんごをもいだシモンは、ごしごしと太ももで拭いたそれに大口を開けてかぶりついた。小気味よい音を立てて咀嚼すると、彼の目は大きく輝き、嬉しそうにりんごを見た。「うまい」手の中のりんごをかじりながら、たわわに生ったりんごを二個、三個ともいでいく。おみやげとして皆に持って帰ろうと思ったのだ。食後のデザートにちょうどいい、蜜の豊富な、甘酸っぱいりんごだった。

 風そよぐ庭園に伯爵が訪れたのはそれからだいぶあとのことだった。久しぶりの逢瀬に気合いを入れてしゃれ込もうと決めた彼は、鏡に映らない自身の代わりに、側近の死神にあれこれと注文をつけて身なりを整えさせていたのだが、それがなかなか彼の思ったとおりにならず、約束の時間に遅れてしまったのである。時間どおりに来ていれば今回のようなことは起こらなかったのかもしれない。

 白いベンチに青年の姿が見えないので、伯爵は慌てた様子で庭園をめぐった。時間に厳しいほうではないと思うが、少し腹を立ててしまったのかもしれない。もしかしたら約束をすっぽかされたと思って怒って帰ってしまったのかも――。刈り込まれたコニファーの陰にいないか、蔦の絡まるアーチを抜けた先に彼の背中が見えないか、ハープを弾く乙女の彫像のまわりを、優雅な水音を立てる噴水の向こう側を、伯爵は探し回った。そして一本の果樹の、そのまわりの異変に気がついた。かじりかけのりんごと、かごいっぱいに入りそうなもぎたてのりんごが地面に落ちていることに。なにより異常だったのは、青年がいつも身につけている皮製の防具が上下ともそっくり残されていたことだ。
 不吉かつ耳障りな鳴き声が聞こえた。はっとしてそちらを向いた伯爵は、狼が駆ける早さで身を翻し、疾走のあと、空に飛んで大型のコウモリに身を変えた。風よりも早く空を切り裂いて目指したのは巨大な迷路庭園だった。

 迷路の一角の行き止まりで、一体のガーゴイルが何者かに向けて威圧の鳴き声を上げていた。異変を察知したガーゴイルが石像から身を変えて侵入者を攻撃していたのだ。その声や表情にはある種の苛立たしさが込められていた。仕留めるのはたやすいと思っていた相手に予想だにしなかった反撃を受けたのである。鈎爪を光らせて急降下しては、なにかに弾かれて怒りの怪鳥音を上げる。番兵を怒らせているのは、威力こそ伴わないが、魔物をひるませるには充分な威力を持つ、聖なる鞭の音だった。そしてその鞭を振るう者は、迷路の生け垣の高さの半分の背丈にも満たない、ある少年だった。

 ガーゴイルの不規則な動きによる攻撃を見極めているかのように、地面を転がりながら、鞭を振るって必死の反撃をたたき込む。天性の視神経と身のこなしで応戦しているものの、その体は擦り傷だらけで、このまま戦い続ければガーゴイルより先に参ってしまうだろうことは見てとれた。番兵にとってこの子供は偉大なる城主の領地に侵入した不届き者である。こざかしい反抗を長引かせて、主の耳に騒ぎを入れてはならないので、ガーゴイルはこれまでよりも大きくはばたき、必殺の一撃に出た。翼は砂嵐を巻き起こして少年の目を霞ませた。拳よりも大きな雹が地面を穿つように、番兵の鈎爪は侵入者のはらわたをえぐり出すだろう――その大きなはばたきによる急降下は、小さなはばたきによる雷の閃きで阻止された。番兵と少年のあいだに割って入った伯爵コウモリが、高貴な意思を鞭のように番兵に振るい示したのである。

 背中に黒い翼を生やした、貴やかな城主の姿に身を変えた伯爵は、番兵を睨み据え、役割を終えるようにその者に告げた。ガーゴイルはとまどいながらも、その命令が絶対的なものであることを悟り、元のように迷路の一角の石像に姿を変えた。子供相手に情けない結果に終わったその仕事ぶりを責められるでもなく、ただ制止されただけだったので、城主の穏やかな対応を幸いに、そそくさと石に戻ったのである。

 伯爵は翼をしまい、後ろに身構える少年を見た。目をきつくつむりながらも、上段に鞭を振り下ろそうとしていた機転の利く少年を。タイミングを間違えなければ上空からの敵の攻撃を弾けていたかもしれない。力は及ばなかったものの、狩人としての判断の良さは天性のもので、彼でなくては伯爵が止めに入る前に地面に倒れ伏していただろう。「もう大丈夫だぞ、シモン」穏やかに名前を呼ばれた少年は、充分に気配を察して、目をとじたままこう言った。「あなたは、どなたですか」

 助けられたことを理解した少年は、礼儀正しく伯爵にお辞儀をして「ありがとうございました」と、幼くも芯の通った声でそう伝えた。
 腿までくるだぶだぶのオリーブ色のタンクトップを身につけた少年は、聖鞭の他にはなにも持っておらず、黒のスパッツも穿いていないようだった。思い返せば確かに鎧と一緒にりんごの木の下にあったような気がする。それらはあとで回収するとして、伯爵はこうなったことを一から順に少年に説明するために、そして砂嵐で一時的に失われた視界を回復させるために、私室へ運ぼうと、少年をやさしく抱き上げた。素直に身を委ねる少年に伯爵のほうが気になって声をかけた。「拒まないのだね」お姫様のように抱かれた少年は胸の中の聖鞭をぎゅっと握りしめた。「鞭が穏やかになったから――」「鞭?」「私よりずっと正しく物事を見極めてくれるんです。ここに迷い込んでからひどくざわついていたのだけれど、あなたが来たとたんに、ろうそくの火のようにしんとおとなしく、あたたかくなったから」
 危険な人物ではないと鞭が告げているという。これ以上危険な相手も他にいないのだが、鞭も他に頼らざるを得ないし、シモンを安全な場所まで導く必要があるから、ここは黙って様子を伺っているのだろう。長い時に育まれた友愛を信頼してくれているのかもしれないが――。

「わたしは君との永遠の友情を誓う者だ。君を守り、愛する。安心してくれたまえ」

 そう伝えて、伯爵は自室へと繋がる次元の裂け目へと歩み出した。彼以外にはわからない、城にいくつもある秘密の出入り口だ。迷路の壁面はその姿を変えて、伯爵のために道を空けた。腕の中の幼いシモンは、鞭をかたく握りしめながら、しかし不安は感じていないように、厳かな歩みによる律動を身に受けていた。

 私室での目の治療の最中に、伯爵はシモンに庭園に生えているりんごの木のことを話して聞かせた。

「ここは人間界と魔界との境目にある城なのだがね。現世とは違う時間と、空の暦が流れている。いつまでも三日月の輝く月夜なんだ」

 不思議な城の宝物庫を狙う不届き者もいるから絶えず防衛は強化しなくてはならない。あのりんごの木は様々な侵入者撃退用の罠を考案したなかのひとつで、実を食べた者を無力化する呪いがかけられているんだ。すなわち、侵入者を幼児化させ、それまでの記憶もなくしてしまうというね。記憶として留めていられるのはその体に見合ったぶんだけ。細胞とともにその身に記されていた情報もなくなってしまうんだよ。君の見た目は12、3歳かそこらといったところだが、それ以降の記憶は生まれてもいないんだ。君はりんごを食べる前は筋骨たくましい二十代の青年だったんだよ。

「わたしと会う約束をしていたのだがね。待ち合わせの時間に遅れてしまって……おそらく君は退屈しのぎに庭園を歩いて、りんごの木に目を留めたのだろう。注意をしておけばよかったよ。本当にすまない」

 シモンは目をぱちぱちとさせた。ポーションが配合された目薬をなじませるのと、多くの情報を理解するための仕草だった。気がつけば裸同然の格好であのりんごの木の下にいた。家に帰ろうと大切な鞭を握りしめながらさまよい歩くうちに、迷路に足を踏み入れてしまい、それから――。

「私は、元の姿に戻れるのでしょうか」
「心配いらないよ」膝の上でぎゅっと握りしめる小さな拳を憐れみながら、伯爵は安心させるようにやわらかい声で言った。「りんごに含まれる魔力が消えれば、何事もなかったように変身が解ける。時間とともに力が弱まる呪いでね。誤ってりんごを食べてしまったわたしの子供も、三日後には元の姿に戻っていたよ。記憶のほうも問題ない。りんごを食べる前のことをきちんと思い出せていたからね。大丈夫、君の血は強いから、今もきっと呪いを追い出すために、一生懸命体の中で戦っているのではないかな。君が元の姿に戻るまで、責任をもってわたしが保護するから、安心してくれたまえ」

 うつむいていたシモンは、伯爵の言葉に頬を撫で上げられたように顔を上げた。その目が伯爵のやさしいまなざしと合うと、少年はぽっとかわいらしく頬を染めた。気品ある顔立ち、ぬくもりのある声、なによりその身なりの美しさ。今までに出会ったことのない貴やかな魅力の持ち主だった。急なときめきに胸を押さえながら、シモンは伯爵にこう尋ねた。

「あなたと待ち合わせをしていたって……私とあなたは、知り合いだったのですか?」
「友達だよ。お互いに、なにものにも代え難い存在の」
「そんなに……」

 シモンはぎゅっと服の端をつかんだ。覚えていないことを悪く思っているのだろう。伯爵の誠実なまなざしに青い瞳が揺れている。こんなことを聞いてごめんなさいと言うように、静かな声でシモンは尋ねた。

「あなたのお名前は」

「クリストファー。クリストファー・ビー」

 そして伯爵は古の悪魔城全域の配下に向かって思念を飛ばした。
 これより先、竜公の名での敬称を禁ずると。
 また、不慮の事故で幼き姿となった我が友に危害を加えることを禁ずるとして、今のシモンの姿を配下全員の精神に焼き付けた。

 幼い頃から魔王の存在を聞かされ、その征伐と鎮魂の義務を担うよう、一族から教育されてきた少年に、自らの名を明かすことはいらぬ混乱を与えると伯爵は判断した。竜公の名も、領主の名も、魔王に関わりのある名のほとんどが一族に伝えられていることだろう。なにか縁もゆかりもない名称はないものかと考えた伯爵は、自分を演じたという古典的怪奇ホラーの役者の名を用いることにした。伯爵はソファに深く腰掛けながら、後の世でキング・オブ・モンスターを演じた彼の姿を思い返していた。実際とは似ても似つかぬが、あれはあれで味があるし、忘れられぬ存在感がある。伯爵は彼の密かなファンだった。おそらくベルモンド一族には死神のことも伝えられているだろうから、奴も姿を変えさせたうえで、役者の名をつけたほうが良いかもしれんな。ベロ・ルゴシとか……。

 とりとめもないことを考えていると、シモンが先ほどとは違った感じでまばたきをして、こんなことを言った。「大叔父様と同じ名前だ」
 一族の英雄、クリストファー・ベルモンドのことだろう。「よく知っているよ」と伯爵はソファから腰を上げた。「彼ら親子にはいささか申し訳ないことをしたが――いやこちらの話。わたしは君の一族と縁が深くてね……」

 伯爵はシモンを立たせて、その手を引いた。「泥だらけだから湯浴みをしよう。風呂から上がったらちゃんとした服を着させてあげるからね」

 伯爵は長い爪もなく、立派な牙も魔法で隠していた。
 後進たちのもとにはすでに彼の筆跡を真似た手紙をコウモリに届けさせてある。2、3日は部屋を空けても誰にも心配をかけないだろう。
 シモンの元の体躯と記憶が戻るまで、伯爵はごくごく穏やかに、健全に少年を庇護しようと決めたのであるが――城の魔力はそれを許さなかった。