7/20
奇妙な生物がわたしの部屋に現れた。机の上に出現したそれはマグカップに入ったシモンとわたしだった。中指ほどの大きさで、背伸びしてマグから顔をのぞかせている。話しかけたが、返ってきたのは理解できない透明な響きを持つ言葉だった。イヌやネコが人間と話すことはできないように、言葉はあるが、それは同じ生き物にしか通じない言語だった。彼らはわたしたちと姿形はそっくりでも、まったく違う種類の生き物なのだ。
小さなわたしは小さなシモンを後ろにかばい、わたしを睨み付けた。危害を加えるつもりはないと一応は声をかけて、わたしは机に向かい、この日記を取り出した。観察日記だ。魔力をこめてノートにふたりの姿を写したあと、下段に一日の様子を書き付けることにした。絵日記というやつだろうか。マグからページをのぞいたふたりは、その内容を察知したらしく、小さなわたしが猛然と抗議した。観察するとはなにごとだと、おそらくそんなことを言っているのだろう。かまうことはない、保護するにはその生態を観察することがなにより重要なのだから。
手洗いから戻ったシモンが、机に向かう伯爵と、聞いたこともない音を発するそれを見て驚きの声を上げた。「ヴラド、それはなんだ?」
「君が席を外しているあいだに現れたんだ。月の光に乗ってきたようにスゥッとな。見目がこのような姿だから放っておけんし、邪悪な力は感じられんから、保護することに決めたんだが、こやつらなかなか警戒を解こうとせん」
去るつもりなら抗議する前に姿を消すだろうが、なんらかの理由でそれができずにこの場に留まっているのだろう。完全に敵対するつもりなら噛みつくなり飛びつくなりするはずだ。彼らはどちらもせずに伯爵とシモンを見上げていた。
シモンは小さな自分たちを興味深く見つめながら指先を近づけた。ふたりは人差し指を見て困っていた。やがて小さな伯爵がシモンの指をなでた。それを見て、小さなシモンも指をさすった。子供の頭をなでるように、馬の首をさするように。シモンは彼らに笑いかけた。彼らは困り顔だったが、先ほどまでとは違うやわらかい光がその目に生まれていた。顔を見合わせて、お互いの意思を確かめる。シモンを見上げたふたりは、眉を下げてはいたが、静かに笑っていた。よろしくということだ。
「仲良くなれそうだよ、ヴラド」
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魔法で縮めた食器に小さく切り分けた肉や野菜、ひとさじのスープを盛り付ける。サイズに合わせたテーブルに乗せると、小さなシモンは疑うことなく席についた。お祈りをするところまで彼と同じだ。小さいけれど食べっぷりも良く、食に対して一生懸命な姿がなんともかわいらしい。小さなわたしはどこから持ってきたのかサイズに見合ったワインを飲んでいた。施しは受けぬだろうし、そんなそぶりを見せられるのも嫌うのだろう。わたしと似ている。
時々、小さなシモンの姿が見えなくなることがあった。冷たい風が吹くと思ったら窓が開いている。外を覗くと今にも落ちそうなところから小さなシモンが決まり悪げに部屋に戻ってきた。用を足していたのだ。致し方ないこととはいえなんとも危なっかしい。外にはコウモリがたくさんいるし、翼で叩き落とされないとも限らない。小さなわたしも窓の桟から不安そうに見守っていた。なんとかできないものだろうか。
ノックの音を聞きつけ、伯爵は魔法で扉を開けた。大きな袋を抱えたシモンが三人を見てにこりと笑った。机のもとまで歩み寄り、袋からなにかを取り出す。それはシックなドールハウスだった。
「探索のついでに拾ってきたんだ」
人形遣いが支配する世界で丁度良いものを探してきたという。
机に乗せたその家を見て小さなふたりは興味深げに玄関に上がった。シモンの指さす洗面所に向かうと、ふたりは感嘆の声を上げた。どこから来るのか蛇口をひねったら水が出たのだ。トイレや風呂も同じように機能して、どこへゆくのか下水は家の外に漏れ出る様子はなかった。魔法のかけられた家は水道が通じて、空調も利き、自浄作用がはたらくのか、下水処理も完璧だった。
「誂えられたかのような便利な品だな」
「さすが悪魔城だよ」
興奮した様子で手を洗っていた小さなシモンは、小さな伯爵に促されて風呂に向かった。その際に小さな伯爵はじろりとふたりを見上げた。「見ないよ」シモンは慌ててそう言い、家を覗き込んでいた伯爵の手をソファへと引いた。シャワーの水流とあたたかな鼻歌が聞こえる。
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風呂やトイレといった雑事を済ませる以外は、基本的に小さなわたしたちはマグの中にいたがるようだった。座り心地の良いソファや広々としたベッドもあるのに、寝る時までマグの中だ。一度、マグと家の往復は大変だろうと思って部屋の中にマグを移したことがある。小さなわたしは烈火のごとく怒って、ふたりで力を合わせて元の窓際に戻してしまった。(マグを被って移動する姿はなんとも奇妙で滑稽だった。)マグとふたりには定位置というものがあるらしい。月の光が射す窓際、そこが落ち着くのだろう。以降はわたしも手出しをしなかった。
増築案に煮詰まって図面の端に絵を描いていたときのこと、小さなシモンはマグから顔を出して絵を眺めていた。なにごとか声をかけて小さなわたしと一緒にマグから出ると、図面に集まって絵を見つめた。小さなシモンは目を輝かせて狼やコウモリの絵を眺めている。彼はわたしを見上げると賛美するように拍手をした。自慢ではないがわたしの絵は品良く美しい。当然の称賛を受け取ったわたしを見て、小さなわたしはどこからともなくペンを取り出した。紙の端にサラサラと絵を描く。小さくてわかりづらかったが、ドラゴンや城といったものを緻密に、器用に描いてみせた。小さなシモンはわたしたちがなにを描いてもすごいすごいと喜ぶので、気分が良くなったわたしたちによって、図面はいつしかたくさんの絵が並ぶ落書き帳になってしまった。
ふと、小さなわたしが小さなシモンにペンを渡した。描いてごらんという意味だろう。急にしおらしくなった小さなシモンは、仕方ないといった感じで図面の端にちょこんと絵を描いた。芋虫かなにかだろうか。他にも直立の獣や胴体が三角形の人らしきもの(顔はニコニコしている)を描いてみせた。絵心はないらしい。
おやつどきに遊びに来たシモンは、マグにこもって膝を抱えている小さな自分を見て「どうしたんだ」と事情を聞いた。伯爵は図面を見せて「これがなんだかわかるかね」とシモンに尋ねた。芋虫と思った小さな丸が連なった物体だ。
「ピーピングアイじゃないか」なんの不思議もないようにシモンが言った。
「これは」「黒ヒョウ」「これは」「お前」
伯爵は懍然とした様子で汗を垂らして「そうだったのか……」と呟いた。言葉は違うが小さな伯爵も同じことを言っているのだろう。精神と感性が通じるものがあるのか、シモンには小さな自分が描いたすべてのものがわかるのだった。
「誰が見てもわかるじゃないか」
伯爵は黙ってシモンにペンを渡した。シモンは紙の端にジャカジャカとした線を描いた。丸を中心としたなにかにトゲトゲがびっしり生えているという代物だ。
「……爆発したメデューサヘッド」
「メデューサだよ」
「そういう時は体も描きたまえ」
ナマコのような体の左右に線が生え、先には食虫植物の葉を思わせる手がついた。シモンはペンを置いた。ふいと立ち上がり、ソファに座る。そっぽを向かれた伯爵はしばらく考えたのちに赤ペンを取り出して、キュッキュと円を描いた。花丸だ。
「力強くてとてもユニークな絵だな」花丸の図面を渡したが、シモンは「いらない」と言って頬杖をついた。隣に座った伯爵がじっと黙って図面を見つめている。シモンはあちこちに目線だけを動かして、やがてこう言った。「お前の絵は好きだ」
「なにか描いてあげようか」
「うん、あの……馬がいいな」
メモ帳をもらった小さな伯爵も小さなシモンのために絵を描いていた。
できあがりは素晴らしく、どちらのシモンも嬉しそうに目を輝かせていた。
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運動不足を解消するためか、小さなシモンがでんぐり返しをしていた。ころころと俊敏に動く体がかわいらしい。前転、後転、お手の物だ。それを見ていた小さなわたしは同じようにでんぐり返しをした。前転はいいが後転になるとまるでだめで、途中で止まって尻を上向けた恥ずかしいポーズを晒していた。
まったくみっともない。わたしは決してそんな情けない姿を見せはしないぞ。
「私もやろうかな」
小さな自分たちに興味が尽きないのか、シモンはここのところ毎日遊びに来ていた。楽な格好になり、広い場所ででんぐり返しをする。回転からの着地も見事なもので、鈍重さはかけらも感じられない。まわる姿は一瞬のものだったが、後転をする際に、スパッツで覆われたムチムチとした部分があらわになった。伯爵は思わず唾を飲んだ。「5回くらいやってみないか」「そうだな」
苦も無くこなしたシモンは「お前もどうだ」と伯爵に声をかけた。しぶしぶといった感じでジャケットを脱いだ伯爵は、慎重に狙いをつけて一回転した。前転はうまくいった。しかし着地の際によろめいてしまった。後転。嫌な予感がしたとおり、途中で止まり、尻を上向けたポーズで呻くことになった。
シモンのサポートで復帰したが、二回まわっただけで気分が悪くなった伯爵は、不機嫌もあらわにソファに倒れ込んだ。ふと見ると小さな伯爵もマグにもたれかかってぐったりしている。
「そんなんじゃ玉座から立ち上がったときに脚がもつれて転んでしまうぞ」
「大きなお世話だ」
目をつむった伯爵はまぶたの裏に肉感的なシモンの体を思い浮かべていた。
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憎々しい小さなわたしめ、マグを隣室に移そうとすると火の玉を飛ばしてわたしに抵抗する。ろうそくほどの小さな炎だが、熱いものは熱い。まったく、このままではシモンと愛し合えないではないか。ベッドのシーツも取り替えたというのに、お前たちにこんなところにいられては。
そういえば見目も性格もわたしたちとそっくり同じなのにふたりは性交に至る気配がない。よく我慢できるものだ。やはり人前なのを気にしているのか。
そこまで書いた伯爵は、いまいましい気持ちを切り替えるために椅子から立ち上がった。そして本を携えてバルコニーで読書をすることにした。気分転換は涼しい風を浴びるにかぎる。青年が来るまで、カウチに寝そべって月光浴をしよう。
伯爵が出て行ったのを見て、小さなふたりは警戒を解いたようにマグの中に身を沈ませた。窓から見えるマグは青白い光に照らされてしんとしている。伯爵はフンと息をついた。いつまであそこにいるつもりなのか――まさかずっとこのままではないだろうな。なんとか部屋から移す方法を考えなくては――。
不満と焦燥が体を疲れさせたのか、伯爵はいくらも読まないうちにうとうとしだした。遠い地の葉擦れの音が風に乗ってバルコニーまで運ばれてくる。月が雲に隠れてほんの少し翳りを帯びたとき、窓際からなにかが倒れる音がした。目を覚ました伯爵は顔だけを向けて注意深く音のしたほうを見た。倒れたマグから小さなシモンが上半身をのぞかせていた。しかし様子がおかしい。両手をついた彼は一定のリズムで体を揺らして、焦りと切なさが入り混じった複雑な表情を浮かべていた。目は助けを求めるように遠くを見つめて、しかし今もたらされているなにかを必死の思いで享受している――。
伯爵は興奮と驚きのあまり頭のてっぺんまで総毛立った。マグの中であやしい動きを繰り返す小さな自分が目に見えるようだった。自分は満足に部屋にもいられないというのにこいつらは。
怒りは湧いたものの、小さなシモンの反応が気になったので、伯爵はその場で息をひそめてなりゆきを見守ることにした。後ろから突き上げられていた小さなシモンは、やがて達しを迎えたように大きく身をくねらせた。びくびくと打ち震えているのを見るに小さな伯爵も熱情を注ぎ込んだらしい。ゆっくりと倒れ伏して、潤んだ瞳で虚空を見つめる。小さな伯爵が顔を出し、頬や首筋にキスを流した。ふと、キスを止めた彼がバルコニーのほうを見た。伯爵は慌てて目を閉じた。閉じてから『くそっ!』と思った。あいつめ、絶対に笑っている。得意になって悠々と二回目を挑むつもりだ。
自分の行動パターンをよく知っている伯爵は目をつむったままその場に身をこわばらせていた。別に部屋に戻ってもいいのだが、愛し合う空気を切り裂くほど冷酷にはなれない。そんなことをする勇気もない。
寒気に耐えかねてくしゃみをするまで伯爵は外の冷たい風に吹かれていた。
7/25
昨日から彼らはわたしのことを空気と同等の存在に見なすようになった。机で書き物をしていようがおかまいなしにいちゃいちゃしだすのだ。会う予定を組んでいたのにシモンは約束をすっぽかしたし、わたしは苛々してろくに眠れていない。シモンも、このふたりも、一体どうしてくれようか――。
……小さなわたしたちがなにやらはしゃいでいる。ほっぺたをくっつけて内側から舌で相手の頬をつついているのだ。なんとくだらないことをしているのだろう。と思っていたらマグが倒れた。しかし一向に気にせずに体をくっつけあって、キスをし始めた。あ、服を脱がせている……。
伯爵はペンを置いて机にうつぶせた。甘い雰囲気のきゃらきゃらとした声を頭上に聞きながら、伯爵は指先で机に文字を書いた。シモン、simon、し・も・ん。
さみしくてたまらない。昨夜バルコニーでかきたてられた欲情はうずきとなって腰に残っている。青年は昨日の弁解に来るだろうか。
なにか理由があって来なかったのだろう? 急な用事ができてここに来られなかったのだろう? わたしとの約束を忘れてはいないよな。そうだろう、シモン?
「シモン、シモン……シモーン」
「あの」
伯爵はびくっとして身を起こした。後ろにシモンがいた。ということは、うつろな目で名前を呟いているのを見られてしまった。ノックもせずに部屋に入ってくるなんて、君はなんという無礼なふるまいを――蒼白とした表情の彼を見て、怒りを察知したシモンは両手を上げて弁解に努めた。
「ノックをしようとしたら扉がひとりでに開いたんだ。あぁ歓迎してくれてるんだと思って部屋に入ったんだが……その、お前じゃなかったんだな」
それを聞いた伯爵は机上の自分を振り返った。からかいもてあそぶような憎たらしい表情の小さな伯爵がこちらを見ていた。魔法で扉を開けたに違いない。お前の情けない姿を見せてやれとそのまなざしは語っている。
つまみ上げようとする伯爵と応戦のかまえを見せる小さな伯爵をどちらのシモンも強く止めた。つまらないことでよしてくれと、押さえる手の力に少しの怒りが込められている。
「ヴラド、昨日のことなんだが」
「そうだ、忘れてはいないぞ。昨日はよくも」伯爵の剣幕に臆することなくシモンは答えた。
「探索中に多くのものが負傷して帰ってきてな……ポーションで傷は癒えたが、無理をした疲れから、何人かが体調を崩したんだ。看病をするために昨日は一日かかりきりで……すまなかった」
伯爵はシモンの様子を見た。寝不足を思わせる手の熱さ、真摯だが少し充血したまなざし、いつもよりも重い声。疲れていただろうに謝罪をするためにわざわざここまで足を運んだのだ。伯爵は青年の頬をなでた。くっつけ合わせたらきっとざらざらで痛いだろう、髭の伸びた頬がとても愛おしく思えた。
「休んでいきたまえ」
なにか胃に入れて、湯船に浸かって、広いベッドでゆっくりと休むといい――
伯爵の申し出を青年はありがたく受け入れた。互いの友愛は元通りになった。清らかな雰囲気から隠れるように、小さなふたりはマグにもぐった。