シモンが目を覚ますと、伯爵のうなじがそこにあった。
 あぁ綺麗な首筋だ、襟足といい盆のくぼといい筋肉の付き方まで無駄がなくてとても洗練されている――寝起きの頭でぼんやりとそんなことを考えていると、ふとしたことに思い当たった。彼が寝返りを打っている。
 シモンの瞳がぱっちりと開いた。

 棺に横たわって眠る吸血鬼も、ベッドの上では寝返りを打つのか。
 雪が降り積もった山岳の斜面のような美しい背中を見つめながら、シモンは、ほかのどの狩人も迎えることはできなかっただろう珍しい状況に、隠しようもない胸の高鳴りを覚えていた。
 目覚めているときならば何度も目にしたことのある背中だ。
 変わらず美しく、見惚れてしまうような均整の取れた肉体が、素肌を露わにして、すぐそばにある。

 恋い慕うあいだでしか生まれない悪戯心が刺激された。
 この肌は自分しか見ることが叶わなかったのだと、そんな確認を得るために、青年は彼の背中に頬を寄せた。
 ためらいはあったが、それはまばたきの合間に静まった。唇を開き、きめ細やかな肌へと、ゆっくりと吸い付く。
 朱が付くのかどうかわからなかったが、付いたとしてもほんの一瞬のことだろう。討ち滅ぼすためでもない刺激が痕として残っても、彼の皮膚は時間をかけずに元のとおりに再生してしまうに違いない。
 シモンはそう考えて、花の蜜を吸うように、長いまつげを震わせた。

 秘めやかな音を立てて唇を離すと、痕はくっきりとそこにあった。
 大きな胸をよろこびでいっぱいにしながら、シモンはそのしるしをじっと見つめた。
 次第に、青年の表情が、戸惑いとうろたえの色を見せた。痕が消えない。
 聖鞭を身に受けたわけでもないのに、こんな些細な傷が治らないなんて、そんなばかな。
 シモンの顔が徐々に後悔と焦りの色に染まっていった。
 やがて恥を覚えた彼の胸に、ひとつの思いが渦を巻いた。
 鏡に映らない彼に、自分では決して見えない位置にこんな痕を付けてしまった。なんてことを、なんてことを。

「ひとつきりで終わりかね」

 息を飲むのをわかっていたように、伯爵は返事を待たずに振り返った。
 身を起こし、片肘をついて、青年を見つめる。その表情は冷笑も怒りもなく、静かな気が満ちていた。眼差しにはつい先ほど起きたのではないという力がある。

「――ほんとうに、すまない」

 シモンの言葉に、伯爵はふっと笑った。やわらかな手で頬を包み、微笑を浮かべながら小首を傾げる。
 シモンの深い反省の色は薄らぎを見せなかった。引き結んだ唇をなぞりながら、伯爵は「傷が治らないのが不思議かね」と彼に尋ねた。うなずきを見せるシモンに対して、伯爵は「わたしが残しておきたいだけだ」と囁いた。

「素肌も、背中も、君だけに見せたのだからな。嬉しいことをしてくれる」

 しかし、と伯爵は、ものやわらかな口調から一転して厳しい声音になった。
「痕の付け方が、下手だな」

 なにを言うんだというシモンの目の見開きようを無視して、続けて伯爵はこうも言った。
「教えてやろう」
 伯爵はシモンを押し倒した。

 身じろぎをして抵抗するシモンの胸元に、ひとつ――たったそれだけで、シモンの焦りは官能の波に飲み込まれた。
 血を吸われているわけではない。それなのに、この陶酔と快感のすさまじさ。
 これが吸血行為に至ったら、いったい自分はどうなってしまうのか。
 全身の毛穴が開くような絶頂感と、なまぬるい水に浸っているような心地よさが青年を包む。
 上りつめるだけでいっこうに下ろしてもらえない愛撫が続き――シモンの目から涙がこぼれた。

 わきの下に、ひとつ。起伏ある腹部に、ひとつ。
 腰や太ももに痕を付けられるたびに、シモンの体がびくびくと打ち震えた。
 声にもならない快楽に、目をきつく瞑りながら感じ入っているひとりの青年を無視して、伯爵は次々に痕を付けた。
 青年の性器からは精液がとめどなく噴出している。

「もう、やめて、あぁ」

 脚の付け根に、ひとつ。膕(ひかがみ)に、ひとつ。
 ふくらはぎや、足の甲にくちづけが落とされる頃には、シモンはわけもわからぬまま、「あーーっ、あーーっ」と、叫んでいた。
 いやとは言っていない。唇の感触は、抗いを忘れてしまうほどに気持ちいいのだ。涙に濡れた顔で、人が人でいられるうちの、このうえもない快感を享受する。
 全身の筋肉を使って身もだえるさまは大蛇に絡みつかれているような淫猥な迫力があり――青年は、実際にはそれよりも性質の悪い、高貴かつ馥郁(ふくいく)たる闇に犯されているのだった。

 体を裏返して、太ももや、尻にまでくちづけたあと、伯爵は、青年が自身に付けたのと同じ位置に痕を残した。
 そこだけは長く、じっくりと、時間をかけて。
 シモンの体が微弱な電気を流したように小さく震えた。
 それを最後にふっつりと意識が途絶えた。
 伯爵は静かに顔を上げた。
 身を起こし、青年を見つめると、そこには、悪魔が身を灼くであろう薔薇の花弁が、いくつもいくつも、汚されてなお美しいシモンの体に散り積もっていた。

 伯爵は考慮したのだろう。
 半分裸にも等しい彼の格好でも、布地に隠れる部分をと。
 それでいて、少し動けば朱が覗くポイントへと。
 ソファに座ってぼんやりと壁を見つめていたシモンは、草摺の下から覗いたそれを風魔に尋ねられて、はっとしながら、こう答えた。

「――虫に、喰われたんだ」

「虫?」風魔はシモンの体を上から下までじろじろと眺めた。胸元や、腿の内側から覗く朱。「虫ねぇ」

「蚊に刺されやすい体質なんだ」
「窓を開けて寝ていたとか?」
「そう、そうなんだ。昨日も暑かったから、それで」
「そうか」風魔は立ち上がった。「いいものがあるぞ」

 自室から戻った風魔に手渡されたものを見つめて、シモンは目を丸くした。
 大蒜の花と、十字架だった。
 風魔はしれっとした表情で「効果はてきめんだぞ」と腕組みをした。
「窓や扉に花を吊して、十字架を掲げていれば、どんなに厄介な虫でも入ってこれまい」

 シモンは手渡されたものを見つめながら、唸るような声を喉の奥にこもらせた。
 顔は熱を持ち、汗に濡れて、体中に散った朱と同じ色になっている。

「気持ちだけ、受け取っておく」

 手を洗い、自室へと戻るシモンは、部屋の前に佇む人影を見た。伯爵だった。
 遠目でお互いのことを確認したあと、シモンはつかつかと歩み、伯爵の後ろを素通りした。伯爵は慌てて振り向き、その背を追った。

「なんだ、なにをそんなに怒っているんだ」
「理由はわかっているだろう」
「誰かにばれたのか」
「ばれるように付けたんだろう!」

 シモン、と伯爵は青年の腕をつかんだ。「すまない」
 振り払おうとしたが、その謝罪の素直さに、シモンの腕は宙で止まった。そのままゆっくりと腕を下ろす。歩み寄るように手を包み込まれて、シモンは静かにうつむいた。大きな、やわらかい手のひらだった。

「もうしない」伯爵の声はあくまで真摯な響きがあった。それはどこか不器用なところもあり――「それと、ポーションを持ってきた。振りかければ痕も消えるだろう」

 シモンは顔を上げて伯爵を見つめた。まなざしも、唇の結び方も、誠実さがあった。古の城主、伝説の吸血鬼。
 昨日から考えていたことだ。痕を付けたかっただけなのに、それが人相手ではあんな反応を起こさせてしまう。
 シモンの背中が、一カ所、さみしい熱を持ってじくりと痛んだ。

「――気持ちだけ、受け取っておく」

 シモンは伯爵の背中に手を添えた。痕を付けた部分だ。「まだ、あるのか」
 あぁ、と伯爵はうなずいた。
「そうか」シモンはまつげを伏せた。穏やかな声音で、そっと呟く。
「私も、自然に消えるまで残しておきたい」

 胸元の朱を覗くシモンの表情を見て、伯爵は思わずまばたきをした。
 汗を落とすような困り顔なのに、そこにはたしかな――よろこびの色が見えたからだ。
 伯爵は彼の背中に手を伸ばした。痕に触れると、青年の笑みは深くなった。
 伯爵の胸が甘い愉悦に満たされてゆく。

 ふたりは互いの背中に手を添えて、城の外へと歩んでいった。

 終
 13/07/21(日)

 Twitterの呟きを膨らませた話です。シモンさんは伯爵様の背中にキスマークを付ければいいねとごにょごにょ。
 あと、伝説の吸血鬼が痕を残そうとしたらこんなことになるかもと思い……。
 それにしてもうちのドラシモは仲直りが早いですね。暑いからいちゃいちゃしたいんでしょうね、きっと。