sentiment (『忘れじの詩(うた)』をもとにした話です)

 本に記録された世界の中心ともいうべき、遠い未来の真祖が支配する城のなかで、ありし世の城主が本棚に向かっていた。もっとも高名なる吸血鬼狩人と同時代に存在し、対峙した古の魔王である。棚に収まりきらない本が背よりも高く積まれた混沌とした物量のなか、彼のまわりには秩序があった。本を読み終え、目的の棚へ足をのばすそのときに、本のほうから道をあける。滑り、段となって端にたまる数多の本。足の踏み場もないことで不愉快な思いをさせないようにというよりも、書物を足蹴にする野蛮人にさせないよう、一冊一冊がかつての主に敬意を払っているようだった。

 一晩は保つ立派な蝋燭のあかりが彼の頬を照らしている。長い爪で滑るようにページをめくる彼の前に、一冊の本が空に浮いて目通りを願った。
 城主は本を手に取り、題名を見た。詩集だった。
 決して見ることのかなわない海原を照らす陽光のような輝きと、ひとりの青年の横顔を思い出し、公はしんとした表情で本棚を仰いだ。蝋が溶けて流れ落ちた。芯のくすぶる音がする。

 時代の異なる狩人たちの集う場所として、城の一部が安全に解放されているラウンジがある。その一角で、ふたりの青年が同じソファに座っていた。風魔とシモンである。月氏の末弟と高名なる狩人はとうに冷めたコーヒーを見つめてぽつぽつと話をしていた。

「それきり、会っていないのか」

 ん、と金色の髪をさらりともせずシモンが答えた。伝説の吸血鬼とふたたび戦い、記憶を確かめ合ったあと、このソファで座ってから七日が経とうとしていた。一週間、どこでなにをしているのか、顔を合わせることがないためわからないという。

「天守で眠っているのではないか」
「いないんだ。何度か会いに行ったが、空の棺しかなくて」

 討つべき相手もいないのだから攻略もできない。それはシモンにとって気にするところではないが(気にしなくてはいけないのだが)、突然行方知れずになった城主のことを考えると、こうして沈黙を挟みながらの会話になってしまう。
 茜色の髪を風の音のように流して、風魔が彼の横顔を見た。その表情に同調するように眉をひそめて、「なにがそんなに心配なんだ」と尋ねた。
「心配」シモンが言葉を確かめるように口を開いた。「心配か。そうだな。無理をしていなければいいのだが――あいつは思い詰めるといつも」

 いつも、どうだったろう。行動がわかるほどともに時間を過ごしただろうか。

 静止した思いに風を入れるような音がふたりの耳に届いた。コウモリの羽音だった。後ろ足に小さな手紙を携えている。コウモリはシモンの目の前ではばたき、ローテーブルに手紙を落として、気にくわないというように牙を見せた。
 シモンは手紙を手に取った。封蝋に竜の文様がある。青年と目が合ったあと、コウモリは城が恋しいようにラウンジの外へはばたいた。後ろ姿を見つめる青年の視線がコウモリの使命感をこのうえもない高揚で満たしていた。

 古の城の中庭に竜公の姿があった。
 控えめな白を基調とした、高い壁に囲まれた広い空間はそれなりに手入れがされていたが、中心にある池のほかは、野草やどこにでもある花が端にひっそりと生えるだけの静かな場所だった。思わず手紙に記された地図を見比べて、ほんとうにここかと伯爵を遠目に見てしまうような、そんな質素な雰囲気だ。月明かりに照らされた草花は涼しく香り、夜の空気は青い光に満たされている。
 伯爵が肩越しに青年を見た。最後に会ったときと変わらない、柔和なまなざしで狩人を迎え入れようとしていた。

「こちらへ」

 シモンは手紙をしまい、彼の側へ歩み寄った。草を踏みしめる音とマントのはためく音が妙に静かに感じられた。胸は奇妙な刺激を受けている。かゆみにも似た、しかし快い感覚だ。彼の視線がそうさせているような気がした。

「久しぶりだ」
「そうだな」

 青年が隣に並ぶと公は池をめぐるようにして歩き出した。水草の陰に数羽の白鳥が泳いでいる。穏やかに映る三日月と、水面に浮かぶ赤いベゴニア。

「よく、眠れているか?」
「うん?」
「天守に行っても空の棺しかないから」
「たまたまだ」

 七日もか、と言おうとして青年は口をつぐんだ。毎日天守を訪れていたことを知られるのは気が引けた。具合を気にかけるにしても、相手にとっては心安まる暇がないように思えたのだ。なにより、眉をひそめられるかもしれない。

「君は」と伯爵は尋ねた。問題ないと青年は答えた。よく見ないとわからない程度だったが、頬が少しこけていた。あまりものを食べていないが、それを悟られるのも――頬にやわらかな感触が伸びて、シモンは身をすくめた。顔を上げると心配そうに眉をひそめる伯爵と目が合った。

「食べていないだろう」
「そんな、ことは」
「嘘をつくな。肉が少し落ちているではないか。君は気が張り詰めるとすぐに食事を摂らなくなるから」

 大丈夫だとシモンは答えた。「変わりないお前と会えた。胃も満足に食事を受けつけるようになるだろう」

 自分がしていることだが、頬の手を取り、下ろそうとする仕草のひとつひとつが青年の心を落ち着かないものにさせた。しっかりとした細い手首、なめらかな肌。息が苦しくなるような近い距離を変えようと、シモンは顔を上げて、まわりを見た。

「お前の城の中庭というから、もっとめずらしい、厳かな雰囲気に造園されたところかと思っていたのだが」

 見たことのある植物や飾りのない壁ばかりで驚いたとシモンは少しだけ笑って話した。伯爵は青年を迎え入れたときとほとんど同じ、沈黙にも似た静かな表情であたりを見渡し、こう呟いた。「こんな感じかと思ったのだが」
「なにが」
「君とこうして中庭を歩いた」

 風に吹かれて消えていくかのような遠いまなざしだった。思わず手をのばして先ほど触れた手首を掴もうとしたそのときに、伯爵のやわらかく閉じられた唇が貴やかに開いた。

「わたしのただ一つの願い――」

 題名からはじまるひとつの詩を、公は格調高く、しかし華美になりすぎないよう、すべての言葉に敬意を払いつつ、穏やかに諳んじた。
 月の光を受けて佇む伯爵の声を青年ただひとりが聞いていた。横顔を、威光を、楽(がく)に表現しきれない美しさを、シモンの青い瞳が見つめていた。
 言葉を紡ぎ終えると、余韻のあとのこのうえない間で賛辞が届いた。「すばらしい」拍手は似つかわしくなかった。顔の輝き、声の震えで思いを口にした。

「覚えていてくれたのか」
「表紙を見るまでは忘れていた」

 少し首をかしげた青年の前に、伯爵は外套の内側から一冊の本を取り出した。
 遠い未来の書庫に現れた詩集だった。著者の名はミハイ・エミネスク。『ルーマニア語の父』と讃えられた偉大な詩人だ。
 伯爵は本を手渡し、ここへ呼んだすべてのわけを伝え終えた。

「君にこの詩を読んだことも忘れていた。あれほどこの詩を読み返したがっていた君のことも忘れてわたしは――」

 高い鼻になにかが落ちた。雨粒だった。天候までも変化する本の世界そのものを睨むように伯爵は空を見上げた。三日月は変わらず細い雲をまとって天守近くを照らしている。霧雨が中庭を濡らしていく。城に入る道は少し遠い。嫌な顔をする伯爵に向かい、シモンは首元のマントを広げてこう言った。「ここにもぐるといい」

 片眉を上げて問い返そうとする伯爵に「小さなコウモリになれば雨を避けられるだろう」とシモンは笑いかけた。しかしすぐにまばたきをして「男の胸元にもぐりこむなどごめんか」と、笑みはそのままに眉を下げた。伯爵は黙って小さなコウモリに身を変えた。控えめにはばたきながら青年のマントにもぐる。胸元からビーズのような金色の目がのぞいていた。

「そこの木々の合間にわたしの部屋に通じる次元の隙間がある」

 青年は心得たように走り出した。伯爵の示した木々の合間を通り抜けると、幹の向こうにその姿は見えなくなった。

 雨に濡れたことは風呂に入らせるいい口実となった。
 青年をベッドに導き、抱き寄せ、ここへ来てから初めてのキスをする。
 年若い狩人の身体は胸元にもぐりこんだときと同じ匂いがした。なじみの深い血の香りも混じった、甘くてあたたかい、いとおしい匂いだ。
 熱い舌はなめらかで肉厚だった。青年の感じ入る声が鼻孔を通った。控えめな調子から不意にもれるその声をもっと聞きたいというように、伯爵は青年を白いシーツに押し倒した。

 背中から腕へ伸びる長い手指。たくましい胸や腰まわりをなでさする指先は流麗で、シモンの身体をきめこまやかに愛撫した。みずみずしい肌が甘美な熱を帯びていく。身をよじるその体躯は彫刻に表現されるような力強い美をたたえていた。
 誇り高い身躯にはなまめかしさも存在した。乳首や腹部を爪先でいじられると、シモンは一瞬困ったような顔をしたが、すぐに与えられる情愛に感じ入るように、頬を染めて長いまつげを震わせた。

 青年の性器を口に含んでたっぷりとこねまわしたあと、舌を離した伯爵は、そのときはじめて自分の長い爪に気がついた。切りそろえていない。
「すまない」と、少し待っているよう伝えると、それを遮るようにシモンが「いい。立派な爪だ」と彼を止めた。
 そして身を起こし、「なにか、滑りをよくするものはないか」と伯爵に尋ねた。息を静めた伯爵に潤滑剤の入った瓶を指し示され、シモンはそれを手に取った。手指に垂らしたあと、恥じらいと、少しの逡巡が混じった表情で斜を向き、そろそろとすぼまりに指を伸ばした。
 淫らな音が室内にこもった。
 息をつめてはうまくいかないようで、シモンは呼吸を糸のように細く保ちながら指を動かしていた。

 伯爵の呆然とした視線は彼の痴態をゆっくりと追っていた。唇を開くと、少し遅れて声が出た。「そんなことを、どこで」動きのない表情が次第に胸を潰すような色を帯びていった。「まさか、誰かほかの奴に教わったのでは」

 違うと、シモンは慌てて顔を上げた。視線が合うと、恥ずかしさからか、すぐに下を向いてしまったが、言葉はひとりでに彼を向いた。

「……お前がいなくなってからも、どうしてもあの夜が忘れられなくて……ひとりでよく、こんなことを」

 言葉の途中から頬が燃えるようだった。視線を振り切るように指の動きを再開して、こう呟く。「あまり、見ないでくれ」

 なにかが弾け飛ぶ音が聞こえた。見ると、伯爵が爪を次々とかみ切っていた。
 呆然とするシモンをよそに、伯爵は爪を床に吹きだした。五指すべてをそうしたあと、伯爵は潤滑剤を手に取り、シモンを乱暴に横たえさせた。

「そんなことを聞いて、黙って見ていられるわけがないだろう」

 不嗜みに切りそろえた指先が青年の内に侵入した。シモンは息をつめた。びくつく腕でシーツを掴み、どうしていいのかわからないように腰を浮かす。伯爵の情熱に対してシモンは従順だった。ときおり、とまどうように涙目で彼を見たが、伯爵の火がついたような表情と目が合うと、恥ずかしさとは別の、求められる快さに、瞳をとじて感じ入ってしまうのだった。

 身体のなかの、とりわけ敏感な部位を指で掻かれた。シモンの金色の髪が汗を散らして大きく跳ねた。びくっびくっと反応する狩人の淫らな姿が伯爵を燃え上がらせた。「あっ、あっ――」どこも見ない目が指の動きを想像するように静止する。何度も同じところをもみほぐされて、シモンはとうとう、打ち明けるように声をあげた。「欲しかったのは指先じゃない、お前自身だ」

 指が抜かれた。仰向けに大きく開脚させられたあと、すぼまりに伯爵の男根があてがわれた。ゆっくりと先端が入り込み、奥まで押し広げられる。根元まで受け入れたシモンは大きく息を抜いた。潤む目で伯爵を見上げる。彼がそこにいた。

 抱擁とキスを交わし、ふたりは長い時を埋めるように愛し合った。甘い夢を見るようだった。快楽は耳に囁く愛の言葉とともに内に染み渡り、刺激を分け与えた。あたたかいと思った。匂いは快く、動きのひとつひとつが涙を生んだ。
 やがて青年は達し、公は彼の内に熱情を注ぎ込んだ。
 息が整うのも待たずに、当然のように、ふたりはふたたび求め合った。
 噛みつくようなキスとこなれないあえぎ声が、青い月明かりのなかで絶え間なく続いた。

 霧雨は激しい雨に変わっていた。
 前にもこんな音や、室内にこもる湿気を感じたことがある。彼の腕に抱かれていたシモンは薄く目を開けた。眠っても大丈夫だとわかっていても、胸の奥がひやりとして寝付けなかった。なにかを話そうとしても頭はもやがかかったように言葉を作らず、瞳は静かにまばたきを繰り返すだけ。まつげのかすかな動きに気づいたように、伯爵が青年の金色の髪をなでた。なめらかな仕草は肩にまわり、青年を落ち着かせるような抱擁に変わった。

「君と離れたくなかった」

 ふたりは同じ日を思い返していた。
 飾らず、取り繕わず、伯爵は想いを口にした。

「せめて朝を迎えるまではこうしていたかった」

 青年は次の日のことも考えていた。
 ふたりで中庭を歩き、たわいのないことを話して一日を終えられたらと――ゆるやかな死に向かう生活でも、彼と一緒ならきっと楽しいだろうと。
 結果的にはそうならなかったが、それでも、もっと一緒に。
 シモンは目の奥が熱くなるのをぐっとこらえた。
 現実とは違うが、ここでならその願いが叶うではないか。明るい夢を見たように、シモンはほほえみながらこう答えた。

「ここでのことを覚えていたいな」

 うむ、と伯爵が天井を見つめながら呟いた。

「方法を探して七日が経ったが、いまだにこれという手段が見つからぬ」

 互いのために、彼は遠い未来の書庫や城のなかのありとあらゆる文献を求めた。青年に会うことも、眠りにつくのも、すべてはここでの記憶が確実に定着する術を得てからと思っていた。詩集はそのときに現れた。あざやかな幻だった。

「本当はもっと君と会いたかった」

 乾きを忘れた瞳がなんどもまばたきをした。彼の顔を滲まずに見ることはできなかった。胸元が濡れていく。抱擁はかたく、甘い感傷をすべて受け入れるように優しかった。シモンは首筋に顔を埋めた。理解を示すように伯爵の鼻が彼の耳元に寄せられた。

「本に記録するように、ここでのことが確かな記憶として互いの心に残せたら」

 雨のような愁いはあるが、同時に、月明かりにも似た希望がある。シモンは微笑を浮かべるように瞳をとじた。

「きっと、できる」

 詩を覚えていたお前だもの、きっと何度でも、必要なことを思い出せる――。

「明日も会えるか」
「毎日でも」

 どちらが先に言っても同じ返事になっただろう。いずれは次の願いも変わりなく応えることができるように、シモンは彼にこう囁いた。

「もう一度、あの詩をうたってくれないか」

 伯爵は天井を見上げて唇を開いた。いつかは青年に諳んじてもらえるように、ゆっくりと、思いをこめて。

「わたしのただ一つの願い――」

 終
 13/04/25(木)