偶々(たまたま)に

 シモンは鏡に向かって身だしなみを整えていた。
 ちくちくとする前髪をバンダナで上げて完了となるところだったが、今日は不快さが拭えなかった。伸びすぎている。
 痛む目で自身を眺めて、どうしようかと腰に手をあてて考えたが、結局は今日一日くらいはと我慢することに決めた。
 振り返ったところで驚きの声を上げた。すぐ後ろで、伯爵が顎に手をあてて思案していた。それも、不満そうな顔で。

「いつ、から」
「それもわからぬとは」

 嘲っている調子だった。鏡に映らないからといって、吸血鬼の存在に気がつかないとは――そんな見下す目で見られて、シモンはむっと唇を引き結んだ。

「声もかけずに部屋に入ってきて」

「のんきなことだ」それが宿敵にかける言葉かと伯爵は呟いた。侮蔑の表情を隠しもせずに。
 シモンの苛立ちは目元の不快さも合わせて険のある顔となって表れた。

「害を為そうとする気配もないのに、どうしてお前の接近に気がつけるというんだ」

「いいわけは聞かぬ。少しの油断が君の命を危うくするのだぞ。最近、どうも君の気がゆるんでいるように思えて心配になってきてみれば、さっそくそれだ」

 伯爵は伸びすぎた前髪を指さした。

「これから戦いに赴こうとする者が、鏡の前に立ってそれを放っておこうというのか」

 痛いところを突かれたようにシモンは口ごもった。
「バンダナを解け」
 言われるままに紐をほどくと、頬までかかる前髪が垂れた。
 だらしのない、と言わんばかりに伯爵は鼻からふっと息をついた。

「ハサミは」
「ない」

 ない、と答えてシモンは驚いた。「お前が切るわけじゃないよな」
「他に誰がいる」
「いや、皆いるが」
「気づいたのはわたしだ。注意したのもわたしであって、他の奴にやらせるなど――いいから椅子に座れ、整えてやる」

 めったにないことなんだからなと、伯爵はシモンを無理やり椅子に座らせた。
 伝説の吸血鬼が最も高名なる吸血鬼狩人の前髪を切ろうとしている。めったにないことどころか、金輪際あるわけがない。
 状況のおかしさにシモンは首をかしげた。どうしていいかわからない。

「いやか」
「いやじゃないが」
「なら、いいだろう」

 落ち着いた声音に変わったのを受けて、シモンはかすかにうなずいた。
 ハサミもないのにどうするつもりなのだろうと考えているうちに、前髪が手にとられ、さっと爪で梳かれた。金髪がぱらぱらと落ちた。同じ動作で次々に金色の筋が胸や腿に散り掛かった。驚きと痛痒さを覚える間もなく、サイドや後ろ髪に手櫛が入った。どのような手技か、伯爵が爪をすべらせるだけで、シモンの長髪は耳に心地よいリズムで散髪されていく。
 わずか二分という短さで、シモンは手鏡を渡された。
 のぞきこむと、美しく整った髪と、まばたきの止まらない自分の顔が見えた。

「なんだ、まだ目にかかる部分があるのか」
「そうじゃない、あまりに見事で」

 賛辞を無言で受け取り、伯爵は「ブラシは」と呟き「あるわけがないか」と自分の発言を取り消した。
 そして顔にかかった細かい毛を、自身のやわらかな手で拭おうとした。
 長い爪に驚いたか、シモンは目をつむった。
 しばらくは手のひらで顔の毛を払い、首筋の毛を拭い、胸や腿まで叩いていたが、伯爵はとうとう、はぁっと息をついた。
「なにをしているんだ」
 そして青年に口づけをした。密な空気はとうに訪れていたのだ。シモンはもがこうとしなかった。
 ハサミでそっと前髪を咬まれていたら、まぶたを震わせて甘い空気に耐えようとしただろう。
 顔の角度を変えて何度も唇を重ね合わせながらも、シモンは服を脱ごうとはしなかった。キスだけで終わらせるつもりだ。伯爵は苛立ちに眉をねじませて、青年を立ち上がらせようとした。できなかった。両腕をつかんで手前に引いた途端に、シモンは膝をついてしまったのだ。腰から力が抜けていた。襲われる恐怖に震えているように、前かがみでうつむいている。鼻をすする音が聞こえた。伯爵は眉を下げた。

「すまない」

 膝をつき、乱暴しようとしたことを謝るために、彼の肩を抱いた。

「そういうつもりではなかった」

 本当に髪を切ってあげたかっただけなんだと囁くと、わかっているというふうに、シモンは肩口に顔をうずめて、うなずいた。
 抱擁に抵抗はなかった。青年はいとおしさを確かめるように、うずめた顔を右に左に動かした。
 払いきれなかった髪の毛が伯爵の衣服に付着する。
 そのことに気づいたか、シモンは顔を上げて、ぼうっとした身を離そうとした。
 けれども、抱擁は名残惜しい様子だった。

「洗髪しないうちは髪の毛が落ちてくるだろうな」

「あの」シモンは目線を下げた。「じゃあ、これから風呂に」手指がなにかを期待するように伯爵の腕でじれている。「でも、お湯とか水とかは、その」

 伯爵はシモンの指先から片腕をほどいて、プリーツタイをめくった。
 そこには以前に見せてもらった、ネックレスという最小のかたちに精錬されたホーリーシンボルがきらめいていた。

 湯気もわずかなぬるいシャワーを浴びながら、ふたりは口づけを交わした。
 舌を絡み合わせるたびにシモンの喉に甘い水が染み渡った。
 腰や胸を抱きながら、洗髪とは違う行為を続けている。
 青年は冷たい壁に身を預けて、伯爵の愛撫を受けた。
 首筋や乳首を、腹部のひとすじひとすじを伯爵の舌が這う。
 とうに勃ちあがったそれを口にくくまれると、シモンは湯気よりも熱っぽい息を吐いた。
 股間にある頭を切なげに両手で撫でて、久しぶりの口淫に感じ入る。涙がにじんだ。
「ヴラド」名を呼ぶのも久しぶりだった。
 手加減されているのだろうが、吸血鬼による口淫は人のそれとは比べものにならない快楽をもたらす。腿が震える。
「あ、あ」出る、という忍び音が頭に寄せた手にこめられた。肩をびくつかせて精を吐き出す。伯爵の喉が嚥下する動きを見せた。
 伯爵はミルクを求める犬のように、男根を顎に加えこんだまま、頭を左右に動かした。
 じゃれるようなくすぐったい動きに青年は内股になりつつ、両腕をつっぱらせた。
 そのうちに、シモンは奇妙なよろこびを感じて、目をきつくとじた。
 伯爵がこんなことをするのは自分だけなのだと思うと、彼の好きなようにさせて、求めることにはなんでも応えてあげたいという気になった。
「ヴラド」もう一度抱き合いたいと言われて、伯爵は身を起こして、青年と向き合った。
 キスを受けた。
 肩にまわる腕はたくましく、情熱的なぬくもりがあった。

「大好きだ」

 首筋に顔をうずめた青年からそう告げられると、伯爵の顔はとたんに無表情になった。冷めているわけではない。
 急なよろこびに満たされると、彼は感情のゆらぎを隠そうとして、表情筋の動きを止めてしまう。今回もそうなったのだ。

「愛している」

 そう囁かれたのがずいぶん久しぶりのことに思えて、伯爵は瞳をとじた。
 ふたりはシャワーを浴びながら、終わりに近いチークダンスのように、深く心地よく身を揺らした。

「ひ、あ、あんっ、あ――」

 三度目の射精を内に放った。
 顔を強引に振り向かせて、青年の口を吸う。
 萎えを見せないシモンの剛直を片手でしごき、彼にも射精させる。
 伯爵は厚い胸に手を這わせた。
 青年の泣きじゃくる声が浴室に響いた。
「もう、出ない」場所が場所だったのと、シモンが従順なのをいいことに、かねてからの欲望だった青年の失禁する姿を、伯爵はもう一度その目に収めようとしたのだ。
 この浴室で愛し合いはじめてから、すでに二度は見ていた。
 放尿時にはわざわざシャワーを止めて、音を隠さないようにして、青年を辱めた。

「本当に?」

 お湯はキスの最中に充分すぎるほど飲んでいる。刺激を受ければそろそろ――伯爵は男根を引き抜いた。

「っ、あ、いや、――」

 シモンは圧のなくなった体をぶるぶると震わせた。弛緩した肉体から色のない雫がちょろちょろと流れ出た。
 すすり泣きが聞こえた。まだ頬が赤く染まるほどの羞恥心があるらしい。伯爵の笑みは深くなった。
 シモンは崩れ落ちそうになる体を支えるように、バスタブに両手をついていた。伯爵はその身へ優しく囁いた。

「こちらも出そうか」

 肛門をするりと撫でた。青年はびくつき、なにを、という不安げな顔で伯爵を振り返った。それに対して伯爵はいつもしているだろう? という表情でまなざしを細めた。「きれいにしなくてはな」

「いやだ、自分で」

 有無を言わせず、指を入れた。
 息の止まった青年を見つめながら、ぐちゅぐちゅと音を立てる肛門をほぐし、自身も膝を折る。
 よく見える位置になったところで、指を開いた。肉のすぼみが広がると同時に、精液がどろりと流れ落ちた。
 ひくひくとうごめく朱色の脈動が、青年のすすり泣きに合わせておもしろいように緊縮を繰り返している。
 ふふ、と笑い、伯爵はもう片方の指で内に残った精液をかきだした。
 シモンは濡れた髪に泣き声をこもらせた。浴槽の縁をつかむ両腕が耐えるように震えている。
 いつまでも尽きずに溢れ出る精子を眺めて、伯爵は興味深いように眉を開いた。
 さぞ苦しかったろうなと思いながらふと見ると、青年のペニスはきつく勃ちあがっていた。

「いやらしい奴だ」

 かきだす行為をやめて、勃起したそれをつかむと、ひああ、と恥じらいも限界に近い声が上がった。
 もうやめてというつもりか、それともただ泣きじゃくるだけか――「い、れて」青年は顔を真っ赤にしながら、伯爵を振り返った。淫乱に見えてもかまわない、泣きはらした目がそう懇願している。伯爵の頬がかりそめの熱に染まるようだった。
 望むとおりに勢いの増したペニスを青年の内に挿入して、情熱のまま揺さぶる。
 肉のぶつかりあう音とあえぎ声が浴室に響いた。
「苦しいだろう」青年は頭を振った。「気持ちいい」と答えて、切ないように泣く。「もっと、中に――出してくれ」

 伯爵の息が荒くなった。頬が染まれば真っ赤に興奮しているだろう顔が、青年の肩口にうずまる。胸に手がまわった。
 抱きすくめるようにシモンの全身を感じて、伯爵は果てた。
 遅れて、青年も射精した。
 すぼまりが緊縮する。いとおしい男の精子をすべて飲み込むようにして、シモンは目をとじた。
 シャワーのお湯がさきほどよりもぬるく感じられた。
 キスを交わせば、最上の甘い味がした。
「大好きだ」切ない愛の告白に伯爵は鼻をこすりつけて好意を伝えた。

 狭いバスタブで大の男ふたりが湯に浸かっていた。
 伯爵がシモンを抱きかかえるようにして、縁に片腕を乗せている。
 シモンは伯爵のあたたまらない膝小僧を撫でては、お湯をぱしゃりとかけていた。
 ちゃぷちゃぷとした響きは時おり甘えた音に変わった。青年が頭をもたれて伯爵の顔を見上げる時だ。
 キスをねだる仕草を受けて、伯爵は頬や唇にくちづけをする。なかでも額に落とすキスが多かった。そのたびに伯爵は青年の前髪を梳いて、「ちゃんと洗わなくてはな」と呟くのだが、ぐずるように眉を下げるシモンを見て「もう少ししたらな」と意見を変える。
 青年は嬉しそうに首筋に頬を寄せる。あたたかい波に身をゆだねる。
 白く光るネックレスを見つめながら、シモンは「用意がいいんだな」となにげなく呟いた。
「まるで最初からこうなることを見越していたようだ」うとうとと眠りに落ちるような声だった。
「偶然だ」青年の肩を撫でながら伯爵は壁を眺めた。

 髪が伸びてきたようだと気づいたのも、それを切るか切らないかくらいのタイミングで部屋を訪れたのも、勢いでもって説き伏せるために気配を殺して近づいたのも、そうして髪を切ったのも、洗髪を促したのも、すべては偶然によるものなのだ。
 青年が応じなければこのホーリーシンボルも出番がなかったところだが、彼から誘うかたちになったのだから、これは成り行きということになるのだろう。

 気がゆるみきっている青年を大切にするように、伯爵はばしゃりと大きな水音を立てて、シモンを抱きしめた。

 終
 12/11/11(日)

 まぁその。
 いちゃいちゃって、とってもいいものですよね……。