各々が勝手に部屋を造り、仮の住まいをこしらえている悪魔城の一室にて、オーク製の扉の前に、足音も影もなく、蒼い長身が立ち現れた。いにしえの城主であり、本の世界を支配する真祖とは存在を別にする伝説の吸血鬼、ドラキュラ伯爵である。竜公は扉の前に立ち、その色や造りを目にとめて、部屋主と住まいとの記憶が合致するのを確かめたあと、ノックもせずに中へ入った。
彼は以前からここの部屋主とのあいだに交流があり、窓を開けてもらう必要もない関係を築いていた。互いに招き招かれ、来訪を許し合う間柄なのだ。彼は部屋に入るなり鼻をすんと動かした。空気にかすかな火の揺らぎを感じた。ろうそくの燃える匂いがする。ほのかな温みを感覚の隅において、彼は足音もなく奥へ歩んだ。ほどなく、衣装棚の前であぐらをかき、腕を組んでいる青年の後ろ姿が目に入った。
青年の視線の先にはポークパイ、モノクル、みかわしの服など、悪魔城攻略のさいに手に入れたのであろう数々の戦利品が並べられていた。金髪がさらりと揺れた。シモンは振り向き、「来ていたのか」と驚いた顔をした。
立ち上がろうとする青年を片手で制して、伯爵は同じく――とても優雅に――青年の隣に膝をつき、そのままじゅうたんの上にくつろいだ。脚の揃え方、腕を休ませる力の抜き方はもちろんのこと、指先までが美しく流麗な気に満ちている。
仕草を見つめる青年の口から熱のあるため息が漏れた。
見惚れるような存在が自分と同じように地べたに座るなんて――信じがたい光景が口を開いた。「君に渡すものがある」
伯爵は指をひらめかした。なにもない空間から葉巻入れのような大きさの赤い革張りの箱が現れた。伯爵の手に落ちたそれはひとりでに蓋が持ち上がった。中には上等のろうそくが大小合わせて何十本も収められていた。祭壇用、寝室用、どれも一晩は保つ立派な品だ。伯爵は蓋を閉じ、「なにかと入り用だろう」と箱を差し出した。
「どうしてそれを」
「君のことだ。今しがたも討伐した敵の菩提を弔っていたのだろう」
いまも火のくゆる匂いが漂っている。伯爵がそちらに視線を移すと、この部屋を使うときに真っ先にこしらえたのであろう小さな祭壇に、真新しいろうそくが一本立てられていた。溶け残りのろうそくの数と合わせると十数本はある。
「しかし、事情を知らぬ者からすれば好き勝手な解釈を生みそうな光景だな。いずれ“好きなもの・ロウソク”とか“嫌いなもの・ドラキュラ”とかなんとか、適当な感じで人名禄に載るのではないか」
困ったように笑いながら、シモンは礼を告げて、箱を受け取った。
「好きなように言わせておけばいいさ。第一、お前に対しての思いはそんな単純なものじゃない」
「そうであろうな」
空気が鎮まった。
見つめ合う表情は穏やかであり、なにも語らない心地よさはふたりだけのものだ。静けさを胸にとめながら、伯爵は夜空を眺めるような清涼な気分で「毎日、夢を見る」と呟いた。
馬に乗って地を駆けたり、狼となって世界の雄大さを足裏から直に感じたり、竜に変じて月満ちる夜を飛ぶような、静けさと爽快感にあふれた夢だ。今までに感じていた闇一色の土中のような重苦しさはない。君がここへきてからというもの、そんな寝苦しさを感じたことは一度としてない。
話を聞くうちにシモンの表情が穏やかさから確かな嬉しさに変わっていった。願いを聞き届けられたような胸のはずみを押さえるつもりか、青年は衣類を整理しはじめた。その様子を眺めながら、竜公は聞くものすべてをよろこびに満たすような麗しい声音で呟いた。
「わたしのために祈りを捧げているのだな――安らぎを願う祈りを」
衣類をたたむ手をとめて、シモンは顔を上げずに、微笑を浮かべながら「よく眠れているのなら、よかった」と、心から告げた。伯爵はかすかに眉を下げた。見つめる視線は熱く、潤みがある。目の前のいとおしい存在を胸に抱きとめたい、互いの友愛を抱擁によってさらに深く理解したい、そんな、狂おしい表情を浮かべていた。
竜公の視線を受けて、シモンの頬は赤らんだ。熱っぽい空気に風を入れるように、シモンは「知っているのなら、教えてほしいんだが」とモノクルを手にとった。「付け方がわからなくて」
差し出されたそれを見て、伯爵は先ほどとはまったく違う感じに眉を下げた。呆れと納得の入り交じった視線を向けて「必要なかったのだろうな」と、年若き狩人の視力のほどに思いをはせた。こうするんだと、伯爵は眉と頬骨のあいだにモノクルをはめた。彫りの深い顔立ちは単眼鏡を易々と顔の一部に変えた。シモンの頬が先ほどとはまったく違う感じに赤らんだ。一方的に見惚れている。似合うだろうとは思ったが、まさかこれほどとは。ふつうに歩くだけで颯爽とした風が吹き、声音に甘い香りが漂うようだ。伯爵の気品の増した面立ちを見て、シモンは「お前みたいに威厳ある年の重ね方をしないと、そういうものは似合わないんだろうな」と、嘆息気味に呟いた。
「付けてみるかね」
「いや、いい。教えてくれて、ありがとう」
モノクルを手渡す際に触れた、やわらかな指先の感触を受けて、シモンは頬の赤みに恥じらいを加えた。熱をもった肌にひやりとした感触が伝わった。伯爵が頬に手を添えている。髪の毛に隠された耳を指の腹でなでて、くすぐる。くちびるをゆるく引き結び、されるがままにうつむいていた青年は、密な空気を避けようとするように、衣装棚に向かって立ち上がった。開け放したままの棚のなかへ、丁寧にたたんだ衣類を片づける。数々の衣類やマントがかけられている薄暗い空間を見つめながら、青年は先ほどまでの甘い雰囲気を断ち切るように、これからの用事をぽつぽつと話しはじめた。
「また、新しい場所へ赴くつもりなんだ」
「なんのために」
「ベルモンド一族に代々伝わる装備品があるだろう? バンダナ、胸当て、サンダルといった、どうしてここにあるのかわからない、不思議な品が悪魔城で次々に発見、回収されているのだが、いまだにひとつ、見つからないものがあってな」
シモンは色も材質も異なるマントの列を手のひらでさっと梳いた。
「父から譲り受けたマントだ。聖獣の毛皮の裏打ちがされている、とても質のよい、あたたかなマントが、いまだに見つかっていないんだ」
とても大事な品なんだが、とシモンは呟き、うつむいた。一族に伝わるマントなら、他の装備品と同じようにここで発見されるのではないかと思い、色々な場所で探索を続けてきたのだが、これまで一度も目にしたことがない。わずかな希望をかけて、シモンは占いという不可思議な術にたよることにした。ヴェルナンデス家の末裔であるヨーコは、魔術のほかに様々な占術も心得ている。求めるものがどこにあるのか、シモンは失せ物探しを頼んだのだ。快く引き受けてくれたヨーコは、しばらくして、水晶玉と、自身の脳裏に映った影に悲鳴を上げた。マントは確かにこの世界にある。しかし、それを所持している魔物の影は、およそ正視に耐えうるものではなかった。地下水脈のさらに奥、マグマに至る中心部に封じ込まれた妖物の名は――
「多くにして、ひとつなるもの――レギオンか」
「知っているのか」シモンは振り向いた。
「未来のわたしでもその存在をもてあました怪物だ。誰も侵入できないよう地下洞窟の奥深くに封印したらしい。混沌と破壊の名にふさわしい知性をもたない不死生物――見目はおぞましく、きわめて不快、よほど精神力が強いものでなければ正気を保てぬ姿をしている」
シモンは唾を飲み込み、きっとした表情で「心してかからねばならぬ相手のようだな」と呟いた。
「わたしの話を聞いて、なおもその場へ赴こうというのかね」
「一族に伝わるマントを取り戻したい」
「わたしも行こう」
シモンは驚いて、声もなく口を開いた。見つめ返す目を平然と受け止めて、伯爵は淡々と話を続けた。
「道のりは暗く、危険に満ちている。わたしが同行すれば闇に属するものどももおいそれと手は出すまい」
「しかし、向かってくるものもいるだろう。そういう場面を目に収めることに抵抗は」
「名を上げたいものの行動を止めはせん。君にも手は貸さぬ。それに――」伯爵はその瞬間を想像して、闇が広がるような薄い笑みを浮かべた。「君の血のはやりを間近で感じ取れる好機を逃しはしない」
戦いを好む城主の顔つきになった彼を見て、シモンは眉をひそめた。断ろうがなにをしようが、どうあっても共にゆくつもりだ。
「私はお前を楽しませるために行くつもりでは」
伯爵はふっと小さく笑った。
「わかっているさ。そのようなことがあったらの話だ。わたしはもとより、君を地下深くまで安全に導きたいだけだ」
「なぜそうまで」
「わたしはわたしのために祈るものをそのままにはしない」
好戦的な目が一転、慈愛と威厳に満ちた力ある光を宿した。月も彼のために威光を下ろすであろう静かな声に、シモンは目を見張った。
「そのものがわたしの安らぎを願うのであれば、なおのこと――力を貸さずにはいられぬ」
ふたりは見つめ合った。そのまなざしには信頼と静寂があった。祭壇に捧げられた蝋が音もなく流れ落ちた。空気の揺らぎを受けて、伯爵は見上げる姿勢を解いて優雅に立ち上がった。
「どの戦いにおいても菩提を弔ってきた君のことだ。今回の討伐も新たなろうそくに火をともすものとなるのだろう。高潔な精神をもつ狩人にこそ、あの多くにしてひとつなるものを狩ってもらいたいのだ――安らぎの弓をもって」
君の矢をつがえる助けとなろう。
伯爵はそう告げて、青年の準備が整うのを静かに待った。