地下洞窟。
緑色に道を照らすひかりごけの明かりをたよりに、ふたりは虚(うろ)を歩む。
気温は今までに居た部屋よりもぐんと下がり、肌は冷たく、湿っぽい。洞窟に住み着く悪魔たちは伯爵の姿を目にとめるなり、さっと姿を――隠そうとはせずに、猛然とした勢いで年若き狩人に襲いかかってきた。チュパカブラ、スケルトンビーマーらを容赦なく聖鞭で討ち滅ぼしたあと、シモンは伯爵を見て、ふっと息をついた。
「畏れ多いとか、身がすくむとか、そういう感覚は働かないのだろうか」
むぅと伯爵は細顎をかみしめた。苔の燃える音がする。背丈のばらばらな花が壁に咲くように、ひとにぎりの炎がこちらに向かって順々に燃え上がっていく。
「おいそこの」伯爵は小柄な体躯をした緑色の悪魔、ユコバックに手をのばした。声をかけられた釜焚きの悪魔は、びくりとしてその場に立ち止まった。
なぜこんなところにいるのか、その存在が理解できないというように固まってしまったため、伯爵は自ら歩き――シモンにはそこで待っているように言い残し――ユコバックとなにやらひそひそと会話をした。気の毒な悪魔は全身から冷や汗を流し、地面に深い色をつけている。時折、叱責をとばす神経質な低い声が壁に響いた。
「もういい、行け」とはっきりと聞こえる声に従って、小悪魔はぴゅうと姿を消した。炎が遠ざかってゆく。
伯爵が不満げにこちらへ戻ってきた。
「目的地への詳細な経路を聞き出した。先へゆこう」
「なにを不満そうな顔をしているんだ。道案内を拒まれたのか?」
「申し出はあったが、断った。明かりは充分すぎるほどにある」
壁は可視に耐えるほど明るく、燭台も至るところに備えつけられてあった。釜焚きの火による先導は無用のようだ。
「じゃあなにをそんなに」
「古の城主がここへ来ることなど誰も頭にないから、たとえこの身を目にしたとしても攻撃の手は止まぬと」
我が目を疑うひまもなく貴方様にも襲いかかってくるでしょうと、そう告げられたらしい。
震えながら教えてくれた小悪魔の言と、やむをえず理解したこの状況に、伯爵はずっと眉間にしわを寄せていた。
シモンは頬をかいた。伯爵とともにゆけば悪魔たちはおいそれと狩人に手を出さないはずであったのだが、いきなりあてが外れてしまった。そして青年はそれを口に出せずに黙っている。
気まずい空気を打ち払うように伯爵は「こっちだ」と大股で先を歩んだ。
肌がぴりぴりとするような機嫌の悪い声が洞窟の奥まで響いた。
中程で途切れる坂が幾重にも続く深部への道を、シモンと伯爵は慎重に降りてゆく。脱出口を確保するために、落閉(おとしだて)による仕掛けを作動させる手間が必要だった。扉を開けるためのレバーを求めて不安定な足場を伝い、時には意を決して飛び降りて、地下へと進む。
壁や岩場が苔によって緑色に濡れ光っていた。伯爵の身のこなしは地表から浮いているように滑らかだ。一切の不安がないように外套をひらめかせて、公は底へと下っていった。
いっぽう、シモンもブーツの底で確実に地面を咬み、飛び降りなければならない場所では、充分な足場があるところに、虎を思わせる身軽さで着地する。過酷な道のりであってもそれを感じさせないふたりであった。
「この薄暗がりに目が慣れてきたんだが」
シモンは左右に広がりを見せる濃緑の空間を見つめた。「壁にはめこまれたいくつもの木製の扉――ここは誰かが住んでいたのか?」
「仕掛けがある時点で天然の洞窟で捨て置かれなかったことは確かだ」
「魔法の本が据えられた場所にしても、壁に奇妙な獣の顔が彫り込まれていたな。まともな神経の持ち主ならあんな石獣を拵えはしないだろう。人目をはばかるように何百もの人間が集まる場所というと……」
燭台の炎が水滴を受けてくすぶる音を立てた。伯爵は胸のうちによく似た冷たい空気を吸い込みながらあたりを見渡した。
「異端信仰の場。それも、とりわけ異質な神に仕えたものたちの生活の場だったのだろうな。いまも暗黒に通じるような魔力の淀みを感じられる――祈る神は違えど、わたしにはなじみの深い空気が流れているな」
「――つまり、古の神殿か」
「とうに滅びを迎えたがな」
古代の遺物ではあるが、禍々しい祈りは今も最奥でうごめいている――伯爵はそう呟きながら、仕掛けへと通じる横穴へ進んだ。奥にくすんだ金色のレバーが苔むした石台の上に設置されていた。シモンが錆びついたそれを力任せに動作させると、遙か遠い壁の向こうから落閉の開く音がした。
「先は長い。慎重に行こう」
巨大な柱に石でできた大蛇が巻き付いている。魔界の犬と思わしきモチーフの岩門から出てきたふたりは、水脈へ通じる岩場へ飛び移った。足元を黒猫が駆けてゆく。古の城主と気づかずに魔力球を放ってきた魔女が伯爵の火球に返り討ちにされたのだ。本性を現した黒猫はふたりとは反対方向へと逃げて行く。怯えるように、可憐な鈴の音を響かせて。
「手加減しているんだな」
シモンの言葉に伯爵は「なんのことだ」と振り返った。
「お前の力をまともに喰らったらどんな奴でも正体を現す間もなく消滅してしまうだろう?」
「くだらぬ」
「あ、ちょっと待て」
「なんだ」
「最初から聞こうと思っていたんだが」
波紋の広がる場を指さして「水だ」とシモンは呟いた。目の前には有口湖がなみなみと続いていた。
「入り口からすでに水の流れる音が聞こえていただろう?」
その心配そうに見つめる顔は「大丈夫なのか」と尋ねていた。
公は首筋に手をかけ、プリーツタイに隠れたネックレスを見せた。中央にはキャンディ型にねじれた白い紋様が不思議な光を放っていた。最小の形に精錬されたホーリーシンボルだった。
「アルカードが持っているやつとよく似ているが……口にくわえるものじゃないのか?」
「未来の世界でいうシュノーケルという器具と混同しているようだが、吸血鬼を水から守る護符がたまたまそれとよく似たかたちだっただけだ」
「とりあえずは水中も大丈夫なのか。よかった」
よかった、という純粋な響きに、伯爵の心は甘くくすぐられた。それを表情には出さずに、彼は水の中へ先行した。シモンはその場から動かずに、先に続く道を見つめていた。しばらくして、水中で古代魚を始末するようなさざめきが立った。伯爵の白銀色の頭が勢いよく水面に飛び出した。そのまま対岸に上がる姿を見て、シモンは不思議そうに眉を下げた。
伯爵が振り返って、こちらも不思議そうに声をかけた。
「どうした」
「あ、いや」
シモンはあわてて跳躍と浮泳をもって後に続いた。
蝙蝠に変身すれば水に入る必要もない道のりのことを、青年はやはり口には出せずに黙っていた。
幾筋もの水簾が続く道。
石壁の切れ目から水の帯が垂れて洞窟を青鈍色に埋めている。
湖水の匂いは清浄として、ただ冷たく鼻に香る。空間は湿度が高く、息苦しい。水から上がった体は歩を進めるごとに闇色の重みが増すようだった。肌寒さは痛みに変わり、暗がりは不安を募らせた。
見通しのきかない同じような道が続くなか、怨霊や亡霊にまとわりつかれては、聖鞭や火球でそれらを払う。
さらに地下へと至る道の途中で、青い巨体の悪魔が闇の中に現れた。不気味な出目がこちらをにらみ、いかつい手の中心に魔力をこめた。ナイフによる掃討を計ったが、それは相手より出遅れたかたちとなり、足元にするどい氷塊を出現させてしまった。回避は不完全だった。足をすべらせ、シモンは下落した。遙か頭上で炎によって焼き払われる悪魔の断末魔が聞こえた。
水没するなら幸運だが、落下する先に岩肌があったら――その思いは力強い衝撃を腹部に受けてかき消えた。
息が抜けて視界が一瞬、真っ暗になる。次に星がまたたいて、なにが起こったかのかを、シモンは明滅する世界で理解した。腰のベルトを誰かが空中でつかんでいた。竜を思わせる厚い翼ではばたく音がする。徐々に明るくなる視界の先には湖が広がり、その水面では古代魚が凶暴な牙を剥き、こちらを見上げては何度も口惜しそうに食返(はみかえ)していた。
空中を安全な湖淵まで運ばれて、シモンはようやく地面に膝をついた。
立ち上がる前に振り向くと、翼をしまう伯爵の姿が目に入った。
「ありがとう、ヴラド」
「先へ進めるか」
「もちろんだ」
まなざしには信頼があった。
それは竜公のまなざしにも等しくたたえられていた。
不安は汗とともに流れ落ちた。
闇は至るところに広がっていたが、闇そのものが讃える存在がすぐそばにいる。そうして闇を討ち払う力を宿した聖鞭の継承者がここにいる。
地下水脈をふたりはさらに奥へと歩んでいった。
しんとした空間に青い宝箱がぽつんと置かれている小部屋で、ふたりはやれやれと壁にもたれかかった。
先ほど、深部へと続く落閉のスイッチを入れるために、水中にあるレバーを動作させてきたのだが、ただでさえ身動きに不自由が生じる場所で、シーデーモンやフィッシュヘッドといった水中戦を得意とする魔物たちの相手をしてきたのだ。
無数に出現するゴーストにまとわりつかれるわ、悠々と泳ぐ古代魚に噛みつかれそうになるわ、レバーを倒して狭い横穴からスライディングで脱出したときには、ふたりともさすがに疲労困憊の体だったので、魔物の寄りつかないこの部屋で小休憩を取ることに決めたのである。
伯爵は壁にもたれかかりながら天を仰ぎ、「しかし、成長したものだな」と呟いた。
同じく壁にもたれかかっていたシモンはなんのことかと聞きたいように隣を見た。
「昔の君なら落水しただけで命が危うかったろう。泳いだほうが早いのに水中をスライディングで進むとは、いったいいつの間にそんなおかしな身体能力を身につけたのだ」
「水中である程度自由に動けるようになる護符を持つのはお前たちばかりじゃないさ。それに、古代魚とは比較にならないくらい凶暴な半魚人がうようよしている場所に落ちたら、誰であれ命が終わったと思うだろう」
彼の統治する古の城の地下水脈はここの比ではなく凶悪無惨な化け物がうごめいている。よほど手だれのハンターでなければ生きて再び月夜を拝むことはできない。
伯爵はふっと息をつき、思い返すように薄く瞳をとじた。
「ファイナルガードの後ろをとった時も。急降下キックなどという新しい技を身につけおって」
脱出口確保のためのレバーを入れるさいに、とある道をゆかねばならなかったのだが、神殿のなごりだろう幾数もの崩れた柱が並ぶ要点ともいえる場所に、鉄の大門を思わせる戦士が道を塞いでいたのである。その魔法生物は全身鎧に身を包み、構える盾は半身を隠して、巨大な剣を跳ね橋のように振り下ろす。攻撃を回避し、地道な衝撃を加えて破壊するしかない巨人に対して、シモンは剣を振り下ろしたさいに身を屈めた相手の体を蹴り付けて、そのまま後方へまわりこんだのである。巨体がわざわいして反転することも、効果的な一撃を加えることもできない戦士の足元に、シモンは古から伝わる聖水を何回も浴びせかけた。執拗に燃え盛る聖なる炎によって、鉄巨人は足元から瓦解した。膝をついて消滅する敵の向こうに見た年若き狩人の表情には厳しさと静けさがあった。熟達とした技巧によって容赦のない仕止め方をする青年の姿を、伯爵は何度も脳裏に思い返しては、高揚とした気分に浸るのだった。
床にいくつもの雫が垂れた。髪をしぼる音が聞こえた。伯爵が頭のうちからすぐ隣に意識を変えると、シモンが髪の毛の水を切っていた。前髪をかきあげて、手を払い、一息をつく。こめかみから雫が伝い、顎に流れて、音もなく地面に落ちた。疲れから回復しようとする伏せたまなざしのかたちのよさ――横顔はととのい、憂いと無自覚の艶を浮かべていた。
伯爵はシモンの頬をほんの少しなでて、なにもわからないままの青年にくちづけをした。遠くで水音が流れている。
何度も熱く唇を重ねる伯爵の行為をやめさせようとシモンは両腕でもがいたが、それは手首をつかまれて封じられた。
壁に体を押しつけられて息をするのも困難な温いキスが続いた。情熱的に交わす唇の音が小部屋に響く。
青年は腕を下ろした。手首をいたわるようにさすられたあと、肩や頬にやさしい指先が添えられた。
舌先でキスに応えながら、シモンは腰の後ろに手をまわした。
ふしぎな動きに伯爵はほんの少し顔を離した。次に彼の額につきつけられたそれは、古のハンターが使用した十字架だった。苦鳴を上げて伯爵は顔をそらした。聖なる光から身を守るように外套で顔を覆う。
「悪く思うな」シモンの言は断固とした響きをともなって伯爵に打ちつけられた。
「このような場所で熱に浮かされては、この先まともに生きて帰れるとは思えぬ。このようなことをされるのは屈辱的だろうが、たのむ、理解してくれ」
声の調子にはふらふらとした浮つきがあった。唇に残る熱や香りに翻弄されまいとして、きつく精神を引きしぼっているような必死さが感じられた。
伯爵は「クロスを下ろせ」とだけ言い、空気の揺れを待った。
しばらくして、クロスを元通りにベルトにくくりつける動きを感じられた。
伯爵は外套を下ろし、顔を上げた。
目の前には気の毒な青年が唇を引き結んで、うつむいていた。
肩で息をして、崩れ落ちそうになる腰を脚の力でなんとか支えているという様子だった。
「すまない」
シモンはわずかに首を振った。
謝罪を受け入れて、先へ進もうとする顔立ちだった。
伯爵は彼と距離をおいた。
青い宝箱をはさんだ位置で、壁際に座り込んでゆるく膝を抱える青年を守るように、公は部屋の入り口で青年に背を向けて座り、外敵が侵入しないよう、水の流れる壁の向こう側を眺めていた。