古の悪魔城の、とある一室にて。
赤々と燃える暖炉の火が部屋の中央にふたつの影を作っていた。波間に照りはえる落日のようなゆらめく影だ。
毛足の長い敷物に座り、あたたかな空気のなかで談笑をする、ここの城主と年若い狩人の影が、共に変わらぬ友情を誓い合ったように、隣同士でうしろに伸びていた。
暖炉の明かりのほかは燭台のほのかな熱のみで、部屋の隅は薄暗い。守られているのは暖炉の前だけという生活感のあるぬくもりに、青年の心はなつかしくも安らいだ雰囲気を覚えていた。
隣にいる気のおけない男の話を聞き、相づちを打って、敷物をさわる。毛足5センチはあるベージュ色の絨毯に指をひろげ、水平に梳く。
「君もやはりそう思うか。聞く機会は少ないと思うが、聖水やジャベリンが出てきたときの、あの槍を重ね合わせるような力強い音がなんともいえず耳に心地よいと」
あぁ、と言いながらシモンは指を閉じたり開いたりして、手のひら全部が毛並みに埋もれる感触を確かめていた。
ぽんぽんと小さく叩き、甲でなであげ、ぎゅっと掴む。
「壁を壊す音も昔にくらべて響きが良くなったと思わないか。いかにも分厚いかたまりを破壊している、といった感覚がこう――」
うん、とシモンはうつむきながら答えた。そこで伯爵も気づいた。自分のほうを見ていない。青年の視線は絨毯に向けられていて、いまにも体を折りそうだ。
と思っている間にシモンは肘をついた。そしてそのまま、横たわる姿勢になった。さわさわと体全部で毛足の海を漂うように敷物へ腕を這わせている。
「あれはいいよな、肉が出るし」
同意のポイントを間違えている。シモンの気は完全にベヒーモスの毛皮で拵えた絨毯に向いていた。壁に激突して死んだ魔獣の毛皮をただ腐敗させるのもと思って加工した品だが、こうまで青年の心を掴むとは。手触りのよい調度品を揃えてやろうとは思ったが、会話に支障をきたしてはなんにもならない。なんだそのくつろぎようは。こっちを見ろ。
伯爵はしばし考えたあと、狼に姿を変えた。
シモンはそれにも気がつかず、ただ無心に毛皮を触っていた。笑顔である。
急に、脚のあいだをなめらかな毛並みが這い寄った。
びくつき、真っ赤な顔でその感触が走ったほうを振り返ると、股間から銀色の狼が顔を出して、こちらを睨みつけていた。
驚いて仰向けになったところを狼はかまわず侵入してきた。草摺を踏まれて、シモンは「なんだ、なんだ」と上擦った声をあげた。
狩人でありながら狼に対してみっともないほど取り乱した彼に向かい、伯爵は「なんという反応だ」と見下す調子で言った。
「こんな格好をしているくせに内腿が弱いのか」
むきだしの腿に体をこすりつけるようにして伯爵は青年にのしかかった。草摺の上の脚はそのままにして、もう片方の脚を腹に乗せる。
「城主の話も聞かずに勝手に寝そべるからこんな目に遭うのだぞ」
わかった、わかったからと青年は狼の脚を掴んで、どいてくれるよう懇願した。その力無い頼みに伯爵の意地悪い心が刺激された。草摺にかける脚に力をこめて、口端を持ち上げる。
「獲物である狼に襲われるというのは、狩人にとってはさぞ屈辱的なことであろうな」
もちろん、狼の姿で腰を振るなど伯爵にとっても恥以外のなにものでもない。
ほんの少しおどかすつもりだったのだが、冗談を間違えた――それも、悪いほうに。
シモンは赤らんだ顔から真顔になり、ぞっとする重さを声にこめて、伯爵を睨み返した。
「そんなことをしたら、絶交だ」
本に記録された、変化のない、閉じられた世界のなかで、これ以上の痛みを感じたことはなかった。
首をはねとばされるよりも致命的な、それでいてどこまでも長引く痛みが、伯爵をあとじさりさせた。
狼は青年からのろのろと離れて、暖炉の明かりが届かない部屋の隅で、ひとり背を見せて、うなだれた。
ぱちぱちと薪が燃える音がする。
しばらくして、青年が背後に座りこんだ。
「すまない、言い過ぎた」
その銀色の背は自分の行動を恥じて力をなくしていた。シモンは気遣うように眉を下げた。
「お前がそんなことをするはずがないのはわかってる。私も頭に血がのぼってしまって、ついあんなことを」
しかし、どうして急に狼の姿で――やさしい問いと、背中をなでる手の感触へ、伯爵はぼそりと声を落とした。
「君が敷物にばかり興味を示すから」
そう言ってから、伯爵は「自分でもわからん」といましがたの発言を取り消した。敷物をなでる青年を見て、そんなになでたいなら自分をなでろと言いたかったのかもしれないが、いまとなってはくだらなく、どうでもよいことだった。
「ひんやりしてるな」
「寒いなら暖炉の前に戻れ」
「お前を置いていけないよ」
「かたい毛皮だ。なでてもつまらんだろう」
「そんなことはない。うずまりたいくらいだ」
背中をなでる手はたくましく、厚く、あたたかい。
そのぬくみが全身に渡ったらと思った。「寒いな」
シモンは伯爵を抱きしめた。首筋に頭をうずめて、かたい毛並みをいとおしんだ。甘くやさしい抱擁に、狼はきまらないうなり声を上げる。それは鼻から抜ける鳴き声のように部屋の隅に切なく響いた。
シモンは「まだその姿でいてくれ」と伯爵に伝えてから、静かに立ち上がった。狼があとに続く。
暖炉の前に戻ったふたりは向かい合って座り、橙色に染まる顔を見つめ合った。
シモンはバンダナをといた。
それを伯爵の首に巻いて、きれいに結ぶ。
「ネックレスでもあればよかったんだがな」
でも似合うな、と青年は首に魔除けの紋様を巻いた狼に向かいほほえんだ。
「あとでイトスギの木を見せるよ。ほんとうは腰くらいまで伸びたらお前に教えようと思ったんだが」
立派に育ったら、それもお前にあげるなと、シモンはあぐらをかいた格好で狼に語りかけた。
暖炉の火がとろとろと燃えて、ふたりの影をやわらかに伸ばした。
長い鼻が狩人の頬にこすりつけられた。
青年は狼の体を抱き寄せた。銀色の毛並みをさすり、指を入れて、生え際のふんわりした部分をさわる。
暖炉の火は変わらず燃えて、空気はもとのあたたかな雰囲気に戻った。が、抱擁は解かれず、背中をなでる手は妙にうっとりとしたものになっていった。
伯爵は金の瞳をくるりと上向け、「いつほどく?」と首の紋様について尋ねた。
これがあっては少々元の姿に戻りづらい。
「んー」と、生返事が首筋にこもった。夢見心地の声が肌を渡る。「もう、ちょっと」
甲でなでる。手のひらで梳く。耳の裏も背中もしっぽもあらかたなでられたあと、体をすくわれ、仰向けにされた。
やわらかな腹毛があらわになる。
見上げると狩人の目がそこにあった。
いまや自身しか映していない生気に満ちあふれたまなざしが狼を射抜く。
獲物を捉えたそれに加えて、秘密と友愛を誇る目の光が、暖炉の火を受けて琥珀色にゆらめいている。
腹の毛を顔中で愛撫したいという妙な勢いにさかまく青年の、どきどきとした笑みが、すぐそばに。
伯爵は元の姿に戻ろうとした。が、魔除けの効果のあるバンダナを巻かれたせいか、力の伝達がうまくいかない。そして仰向けにされたとき、首も脚もがっちりと押さえ込まれていた。すべては狩人の手練のなせる技だった。
くすぐり殺されるかもしれない。
腹に迫る若者の影をうつろに見ながら、伯爵は『敷物くらい好きなだけなでさせてやればよかった』と、この日一番の後悔をした。
終
12/12/17(月)
ちょっと今回、シモンさんがひどい感じですみません。
あとがきでいうのもなんですが、バンダナをあげたのは純粋に好意からです。
なでているうちに抑えがきかなくなったようで(この説明もなんだか……すみません)。
別の話でも書きましたが、シモンさんはあの毛皮のブーツから見ても毛並みのよい一品に目がないのではと思い……。
あとあんな格好をしているけれど内腿は弱いと思います。その妄想から派生した話です。