窓の外に白霧が漂っていた。寝息や針の動きなど、微細な音が包みこまれる早い時間に、シモンは鏡に向かい、バンダナを締めた。
精悍な顔立ちがじっと自分を見つめている。ふ、とまなざしがほころんだ。口元は自然に持ち上がり、たわんだ線をかたちどった。
シモンは部屋の出口に向かった。ドアから顔を覗かせて、あたりに誰もいないことを確かめたあと、いそいそと城の外へと歩んでいった。
崖の上で目を瞑る黒い竜――古より語り継がれる城は、目に収める場所がどこであっても、そのような大いなるものを連想させた。この城の主である伝説の吸血鬼は、露台から月を眺めていた。美しく齢を重ねた三日月が青白い光を放っている。闇を讃えるように、強く静かに、竜公の偉容を月光が照らす。
とがった耳が機械音を捉えた。彼は手すりを掴み、音の鳴るほうを見た。建物の一部が動いている。牙が夜風に触れるのを感じた。唇が持ち上がったのだ。金色の瞳は熱をもったように輝きだし、彼はその表情を隠すように、頬まで覆う外套の襟に顎を引いた。
私室のドアが静かに開いた。金色の髪が後ろに流れる。豊かな波が落ち着くのを待たずに、シモンは遠目に映る影をみとめて、足早に部屋の中ほどへ駆けた。歩み寄る衣擦れの音が近づく。中央で、ふたりは抱き合った。息のひとつも逃がさないようにかたく抱きしめて、笑みを転ばせた。見つめ合い、口づけを交わす。お互いに身を預けるようにして、ふたりは穏やかな鼓動に乗せた、あたたかい波の中をたゆたった。
「こうしてすぐに会えるのは嬉しいな」
大変だったろうと、シモンは伯爵に尋ねた。なんのことはないと、悪魔城の主は答えた。「魔力の微調整には手間取ったが――改築は苦にならぬ」
趣味のようなものだからなと呟きながら、伯爵は目線でソファに座るよう促した。ローテーブルにはワインが用意されている。シモンは招待状を見せるように笑みを返した。
喉を湿すあいだも微笑みが絶えることはなかった。長い脚を組み、白鳥を思わせる優雅な姿勢で話す伯爵に対して、シモンは膝の上で両手を組みながら、野外で火を囲むような体勢で言葉を交わしていた。見目も様子にも貴賤はあるが、ふたりのあいだにはそれがなかった。一緒にいるのが楽しくてしょうがないと、互いの表情がそう語っている。
やがて、和やかな会話へ、沈黙がところどころに流れるようになった。
あたたかな雰囲気にそわそわしたものが混じり、伯爵はわけもなく壁の隅を見たり、すんと鼻を鳴らしたりした。組んだ脚の爪先が、刺激を受けたように小さく跳ねる。
伯爵はちらりと目線だけ青年のほうを向き、「よいだろうか」と尋ねた。
「あぁ」と、そこでシモンは初めて沈黙の意味に気がついたように、慌てて立ち上がった。腰のベルトに手をかけて、かちゃかちゃと音を鳴らす。伯爵の喉が鳴った。唾を飲み込んだのを悟られないよう、うんと咳払いをする。シモンは気に留めないようにベルトを外して、そのまま草摺を床に下ろした。重々しい音が鳴る。
身軽になった状態で改めて腰掛けたシモンは、背筋をしゃんとして顎を引いた。脚を揃えて、隣を見る。視線が合った。
次の瞬間、伯爵は姿勢を崩して倒れ込んだ。青年の腿へと、頭を乗せて。
位置を正すのもわくわくするというように、口髭でうまく表情を隠して、ずりずりと後ろに下がる。ちょうどいい場所が見つかった。
こうして伯爵は、ソファの手すりから長い脚を投げ出して、本格的に膝枕を楽しむ時間に入ったのだった。
床で同じことをしようとしても青年の腿はたくましく、あまりに高すぎるので、鎖骨に顎がめりこむようなかたちになるのだが、深く沈み込むソファならいくらか調整がきく。こうするために片側だけ沈み込む特注で誂えたソファに青年を座らせて、前にも膝枕を頼んだのだ。邪魔な武張った草摺をほどかせて、肉厚の腿に寝転ぶこのひととき。はみでた脚は自然にぶらぶらとして、楽しくてしょうがない気持ちがそこにあるように、虚空を落ち着きなく小突いている。ふだんの格式張った態度から一変するこの光景は青年しか見たことがなかった。彼は困りながらもまんざらではない様子で、伯爵の甘えた欲求を受け入れるのだった。
「ちゃんと食べているか?」青年の顎へ手を伸ばしながら伯爵はそう尋ねた。
「あぁ」シモンはくすぐったそうに眉を下げた。「ここは食べ物が豊富にあっていいな。私の時代とは大違いだ」青年は苦笑した。
「たくさん食べるといい。あとで君の好きな七面鳥を振る舞おう。濃厚なクリームスープと一緒に、ふっくらと焼き上げた塩のきいたパンも用意して――」
くるくると鳴る腹の音を聞きながら、伯爵は青年の髪を指先でいじった。耳たぶを触り、太い首をなでる。くすくすと声がこぼれた。シモンは膝の上の伯爵を見つめて、うっとりとした囁きを落とした。
「あいかわらず、素敵な口髭だな」
そうか? というふうに伯爵は顎を上向けた。「なでてもいいぞ」
つやつやとした口髭を指先でなぞりながら、シモンはたまらないように伯爵の頭に手を添えた。このまま抱き上げてキスをしたい。腿を上げ、全身を縮こまらせて抱擁したい。骨をきしませ、窒息させるくらいに力をこめて、このいとおしい存在を抱き潰してしまえたら――妖しい欲望に呼応するように、胸がゆっくりと上下した。なぞる指先が口髭から顎へ移ろうとしたそのときに、暗がりから、ランタンの灯のようなゆらりとした声がふたりに届いた。『伯爵様』
聞き慣れた声を耳にして、伯爵はあわてて身を起こした。放り投げた脚を優雅に組み直し、なにも変わりがないように姿勢を正す。隙のない背筋に戻るのを待っていたかのように、虚ろな影が時間をおいて部屋に現れた。伯爵の腹心、死神(Death)だった。
『新たに時空の狭間を見つけた狩人どもが、あの方法で天守へ移動しようと』
不安定な本の世界そのものを利用した異次元の移動方法だ。常人にはできない特異な身体能力を用いて、次元のほころびに接触した狩人がいた。壁を突き抜け、空を飛ぶような動きを可能にしたその技はまたたくまに狩人のあいだに広まり、悪魔城の防衛機能は崩壊のきざしを見せた。無秩序に城に押し入り、宝を奪い、兵を殺す――蹂躙するもの、弑虐者、狩人たちをそのような呼び名になるのを防いだのは他ならぬ悪魔城の城主であった。彼は時空のほころびを見つけ、魔力を使い、誰にも踏み込めぬよう障壁を張った。次元を超越した技は封じられ、悪魔城は元の強固な防衛力を取り戻した。それにより狩人の蛮行を抑えることに成功したが、いままた、その秩序は破られようとしていた。
伯爵は緊迫した様子の青年をちらりと見た。原因はわかっている。隣にいる青年を迎え入れるための直通の通路を設置したことによって、城全体の魔力の均衡が崩れたのだ。狩人どもは技を封じられてもなおあの方法を試していたのだろう。次元を移動する技を使うようなら秘密の通路は発見されていないだろうが、しかし、何度も何度も、祖先の名に泥を塗るような真似を――。
死神もシモンも魂の底から凍るような鬼気が部屋に満ちた。伯爵の眼は紅く染まり、怒りもあらわにその凶暴性を瞳に宿した。穏やかに閉じられていた口元からは、竜の息吹を抑えられぬというように、稲妻のごとき白い牙を覗かせるのだった。
立ち上がろうとするシモンを伯爵は片手で制した。「すぐ戻る」その言葉と同時に、黒い影を青年の瞳に残して、部屋から姿を消した。あとを追うように、死神も目の前から消えた。燭台の炎はくすぶりもしなかった。音のない光景がシモンのまわりに広がっていた。
こういうとき、一切の手出しは無用と伯爵から伝えられている。どちらの名誉も守るためと言われているが、このような状況でなにもせずにいることが、ほんとうに互いのためになるのだろうか――シモンは顎を噛みしめて、うつむいた。竜公とふたりきりで会って、いったいなにをしていたと罵られようとも、彼らの前に姿を現し、狩人の在り方やその精神を伝えるべきではないだろうか。誰に煽られようとも自らが蹂躙する立場になってはいけないのだ。征伐が目的ではない、宝物目当ての登城など――シモンは床にたわんだ草摺を手に取った。腰にまわし、手早く金具を留めようとしたそのときに、見慣れた姿が目の前に現れた。伯爵だった。その表情はしんとしていた。顎を引いて立ち尽くす様は黄昏時のなかにいるようで、瞳はそんな世界の翳りの色を帯びていた。「自滅しおった」そうひと言呟いて、シモンを見つめた。
天守に着いてすぐに狩人が侵入を果たしたという。部屋全体を焼き尽くす炎を放ちたいところだったが、力の調整を兼ねて、伯爵は通常の戦法と同じ、拳ほどの火の玉を閃かせた。いつもよりも大きな悲鳴が上がった。妙だなと思ったが、向かってきた狩人を威嚇するつもりで、続けて二、三度、同程度の火球を浴びせた。それで終わりだった。激しくのけぞり、地に倒れ伏してから、侵入者は動かなくなった。あっけなく倒れた狩人の装備を見て納得がいった。与えるダメージが多くなるが、被る被害も倍増する防具、バーサーカーメイルを身につけていたのだ。配下のL・フランケンから強奪したものか知らないが、あれはとても人間に扱える代物ではなく、いささかの攻撃にはびくともしない強靱な体躯を持つ生命体にこそ有効な防具なのだ。すべての攻撃を見切る腕前があるならまだしも――そこまで考えて、伯爵はむなしくなり、死神を防御城塔へ帰らせた。その頃には残りの狩人たちも全滅し、城には平穏と秩序が戻った。そして青年が待つこの部屋へ戻って、うつむいているのである。
事情を聞いたシモンはどうしていいのかわからないように動きを止めた。なにに同情したらいいのか、なんと声をかけたらいいのか、そしてどの立場にいたらいいのか、一切がわからないというように立ち尽くしていた。しばらくして、伯爵は草摺を下ろすよう指の動きで指示した。ソファへ座るよう無言で促す。シモンはそのとおりにした。おずおずと脚を揃えたところへ、伯爵がうつぶせて、もたれかかってきた。青年の膝へすがりつくように腕をかじらせて、腿のあいだへ顔を埋めた。そして唸った。はじめはこぼれるように、やがて耐えきれないように、大声で。叫びを籠もらせる竜公の姿を見て、青年は痛ましいように眉を下げた。触れていいのかどうかわからなかったが、シモンは伯爵の肩をそっと抱いた。
一度燃え上がらせた怒りの炎をこのようなかたちでくすぶらせて終わるのは不本意なことだったろう。まともな方法で登城されなかったばかりか、抗戦に赴けば情けなくも自滅されて、悪魔も凍り付くような気迫は行き場をなくした。貴重な時間を邪魔されたことに変わりはないのに、誰にも不満をぶつけることができない。そもそもこんな感情を抱くのも厭わしいことで――。
激しく息をつく両肩が徐々に落ち着きを見せていった。やがて完全に沈黙し、伯爵はひと言、「すまなかった」と、取り乱したことを青年に詫びた。気にするにはおよばないと、シモンは伯爵の髪の毛をなでた。
「あとで私からもきちんと言っておくから」
言うことを聞くかどうかわからないが――不安気に口にしたことを謝るように、「いや、聞かせなくてはならないな」とシモンは厳しい表情で決意を固めた。ふと、伯爵のとがった耳が、なにかに気づいたようにぴくりと動いた。顔を上げて、シモンに尋ねる。「そういえば、ここへ来ることを誰かに話したのか」
シモンは「いいや」と、安心させるように首を振った。「時刻でいえば朝方に部屋を出たんだ。誰にも見られていない」
魔王と会うことを知ったら、お互い妙に思われるだろう? シモンはそう言ってなだめるように首を傾げた。納得がいったように伯爵は小さくうなずいた。そして青年の視線へ人差し指を伸ばして、こう告げたのだった。
「今度からはここへ来る前に皆と顔を合わせたまえ。どこへ行くか、なにをするかは喋らなくていいから。そして説教はしなくていい。若い後進たちも、いずれ、君の後ろ姿を見てわかるときがくるだろう」
不服だったが、それ以上に伯爵の言葉が謎めいた確信に満ちていたので、シモンは黙ってうなずいた。明日も会う約束をして、ふたりは別れた。
次の日。
皆と顔を合わせたシモンは、同じ食卓につき、パンを早口に食べた。勧められた肉を断らずに噛みしめて、スープで喉を潤した。どれもが手早く、無駄のない動きをしていた。皆はそんな健啖家ぶりを頼もしく、ほほえましく見つめていた。
先に席を立ったシモンの後ろ姿を見つめた蒼真とジョナサンが顔を見合わせた。完全に姿が見えなくなった頃、ぽそっと呟く。
「予定変更だな」 「あぁ」
古の城の探索に赴くつもりだったのだが、シモンの表情を見て、その場にいた全員が登城を断念することに決めた。明るすぎるのだ。晴れがましく、うきうきとして、傍目にもわかるくらいに胸が高鳴っている。大切な相手に早く会いたいとばかりにすみやかに食事を終わらせ、言葉少なにワインを飲み込むその姿。それが、がっかりするような顔で帰ってきたら、皆どんなに気分が落ち込むことだろう。悪く思うことだろう。伝説の吸血鬼との仲は、狩人たちのあいだで、誰もなにも口にすることがなかったが、覆されることのないたしかなものとして暗黙のうちに知れ渡っていたのだ。
言うことを聞くかどうかわからないがとシモンは言ったが、こうして魔王との仲を黙認されるようになったのは、とある説教も影響している。
シモンがここへきて間もない頃、ジョナサンの戦いぶりを見ていた高名なる狩人は、一度、激しく怒ったことがある。聖鞭の扱いがどうの、体術がどうのという話ではない。サブウェポンとしてパイを投げようとしたジョナサンに対して、激昂したのである。
いわく、「食べ物を粗末にするなど、とんでもない」と。
私の生活していた時代は飢饉が頻繁に起こっていて、小麦の一粒も無駄にはできなかった、山羊の乳も満足に飲めなかったと、実際に飢えを経験したものにしかできない教えを懇々と聞かせたのである。日常的に食糧難に見舞われていた人間の、生の気迫に打たれたジョナサンは、それ以降、この世界でパイを投げるのをやめた。武器として使えるという意地も底にはあったが、他に豊富に使えるサブウェポンが揃うこの世界で、この狩人の前で、パイにこだわるのが馬鹿らしく思えたのである。最も高名なる狩人に説教を受けてまで投げたいものじゃない――ジョナサンがこめかみを掻きながらパイをしまった理由はそんなところである。
シモンは自分で思うよりも、皆から敬意と畏怖を抱かれているのだ。この人が敬慕の念を持って付き合う相手なら間違いはないだろうと、それが魔王であろうとも、皆心の底では、きっと大丈夫だと、そう信じているのだった。
古の城の、魔王の私室にて。
秘密の通路を抜けて伯爵に会いにきたシモンは、昨日よりも熱い抱擁を交わして、伯爵に口付けた。ソファへ招かれて、穏やかに話をしたあと、いつものように伯爵の頭を膝に乗せた。霧が流れてゆく。コウモリのはばたく音がする。密やかな会話の最中、その穏やかさに耳をとめたシモンは、顔を上げてふと、こう呟いた。
「今日は静かだな」
当然のように、伯爵は伸びのある声でこう囁いた。「誰もこないさ」
それはたしかなことだった。
戦い方も、いずれは彼の背中を見習うものが出るだろう。
いまはこうして互いの時間に敬意を払われるだけでいい。
昨日のやり直しというように、ふたりはその日一日、誰にも邪魔されることなく、甘くかけがえのない、濃密な時を過ごしたのだった。
終
13/09/09(月)
サブウェポンでパイが使えない理由がこんなんだったら面白いなと。
ふだん穏やかな人が怒るとものすごく怖いんですよね……。シモンさんはそんな感じかなと。そして皆から慕われていればいいな、敬意を払われていればいいなと思っています。
あと機嫌の良し悪しがだだもれだったら可愛いです。嬉しいことは特にまるわかりだったらいい。うきうき気分の時はまわりが思わずほころんじゃうような感じでね……ふへへ。