「すまないが、少し疲れていて」
肉をごちそうになっておいてという思いはあったが、シモンは対座する古の城の主に向かい、倦怠感を口にした。ひとりの画家が支配する世界での、絵画から絵画へと場を移す不可思議な移動手段は、戦いを終えてすぐには拭いきれない疲労感を狩人の体に残していた。
申し訳なさそうな顔のシモンを見て、伯爵はテーブルの下で絡めた脚をすっと引いた。なんでもないように肘をつき、手を組み合わせる。横を向いた顔が静かに口を開いた。「部屋まで送ろう」
城の入り口まででいいと言う青年の腰を抱き、伯爵はともに階段を降りた。シモンは回廊に飾られた絵画を見渡して、「また増えたのか?」と伯爵に尋ねた。
混沌の産物である悪魔城は時代を超越した品を内々に吸収する。城の内部に生み出された宝物ともがらくたとも区別のつかない品々を、気まぐれな城主はたまに選別を行って、訪問者の目につく所に飾るのだった。
「惹かれるものがあってな」伯爵は一枚の絵画へひらりと手を差し向けた。
湖に浮かぶたくさんの蓮の花。奥には古城がそびえ立ち、裏庭と思われる場所で、ふたりの男が湖のほとりに佇んでいる。美しい獣の気性を思わせる赤毛の青年と、豪奢なローブに身を包んだ黒髪の男。杖をつくその男はおそらくこの城の主なのだろう、身なりからはもちろんのこと、穏やかに佇むその姿から気品と優美さが香り立つように表れている。月光の照らすなか、花の満ちる複雑な水面にはゆらゆらと影が伸びて――「気づいたかね」と伯爵が声をかけた。
シモンはじっと目をこらした。水面に伸びる影は赤毛の青年ひとりだけのものだった。
「吸血鬼――それも真の貴族と思わしき城の主が、ひとりの青年との逢瀬を楽しんでいる。似た関係もあるものだと思って、飾ってみたのだよ」
「遠い未来のお前の姿かも」
「ありえぬよ」
「なぜ」
「わたしが君以外の青年と逢瀬を交わすと思うのかね――このような美しい湖で、別の誰かと」
シモンは口をつぐんで静かに目線を下ろした。それはとても安心できる未来のように思われた。自分がいなくなった先、彼が心穏やかに過ごせるのなら――しかし、ありえぬと断言したことが妙に嬉しかった。それをいけないと感じる気持ちも、この胸に確かに。心に広がったかすかな緊張を紛らわせるように、シモンは顔を上げた。
「今日も楽しかった。ありがとう」
伯爵は青年の頭を抱き寄せて、こめかみにキスをした。
「ゆっくり休みたまえ」
翌日、シモンは朝の祈りを終えたあと、伯爵の城へと向かった。手元に昨日のお詫びの品としての金の指輪を携えて。もうひとつ、指にはめようかどうしようかと散々迷ってネックレスの飾りにした金の指輪が首元で光っている。名前入りの揃いの指輪を数歩歩くごとに指でいじりながら、シモンは伯爵の私室へ向かった。階段をのぼり、廊下のつきあたりで見慣れた姿と――初めて見る後ろ姿を目にして、シモンは思わず気配を殺した。
燃え立つような見事な赤い長髪、細かい装飾が施された黒いレザーに身を包むひとりの青年――その腰には見まごうことのない聖なる鞭が絡げられていた。
新たにこの世界へ喚ばれた狩人だろうか――一族の者か、それとも……。
しかしなぜ、聖鞭を受け継ぐものならたしかに感じ取るだろう、伝説の吸血鬼とわかる彼のとなりに?
絵を眺めていた彼らに、躊躇はしたが、シモンは声をかけようとした。しかし、小さく開いた口はわずかな言葉も発することはなかった。なんらかの話を終えた伯爵が、青年の腰に手を添えたのである。そのまま導くように廊下を歩み、階段をのぼる伯爵の姿を、シモンは気配を殺したまま、声もなく見送った。彼らが階段をのぼるときには、死角となるところに身を潜めて。ちらりと見えたふたりの表情に険悪なものは認められなかった。シモンはうつむき、しばらく経ったあと、ずっと握りしめていた首元の指輪に気がついた。くにゃりと曲がり、輝きを失ったそれを、シモンは慌ててネックレスから外して、城の外へと投げ捨てた。
しんとした廊下に、一枚の巨大な絵画が異質な気を放っていた。
彼らが見ていた絵にはある変化が現れていた。
ひとりきりで湖のほとりに佇む古城の主。
水面には影ひとつなく、彼のとなりには人ひとりぶんが、画布の色そのままに、塗り残しのように空いている。
その夜、シモンは寝付けなかった。
ベッドの上でぱっちりと目を開けて、頭痛がするように、悩み深く頭に腕を乗せている。やがて彼はむっくりと起きた。祭壇の前にひざまずき、両手を組んで、瞳をとじる。
どこかしらで自分のことを祈ったのかもしれない。しかし大部分は彼の安眠を祈っていた。欠かすことのない彼への祈りを、青年はもう一度繰り返した。
どうかゆっくりと眠りについているように――その祈りの内容に『誰を求めることなく』という意味を自身で感じ取るたびに、シモンはいけないというように唇を引き結んで、夜の祈りをやり直した。
寝不足でほてった体に無理を言わせて、シモンは城を訪れた。
約束を取り付けないでも自由に来訪が許される身だ。妙な血流に急かされるように、シモンは大広間を抜けた。ひとつの部屋を行き過ぎるとき、身をひるがえして、部屋をつなぐアーチ部分の、陰に隠れるように足をとめた。
伯爵と、あの青年が、食卓についていた。
香草かぐわしいスープや、塩のきいた肉のにおいが、ろうそくの火であたたまり、シモンのもとまで漂ってくる。
話の内容はわからないが、遠目からもわかるように、彼らは食事を楽しんでいた。食べるのはもっぱら青年のほうだが、伯爵は相づちを打ちやすい慣れたタイミングで話を振り、なにごとかの返事を聞いては、笑みを返していた。
横顔のみだが、シモンははっきりと、赤毛の青年の、その美しい目鼻立ちを見た。鮮やかに巻いた魅惑的な髪の毛、静かな気迫を感じさせる金色の瞳、端正な鼻梁、ふくよかな唇。鍛え上げられた肉体は自身と比べても遜色がなく、狩人としての技量も自身と同等か、あるいはそれ以上に力あるものとして目に映った。
力量を一目で判断できるこの感覚にシモンはなかば打ちのめされる思いだった。彼を自身に劣るものとしては見られない。肉にかじりつくあの堂々とした食べ方も、見ていて気持ちが良く、圧倒される部分すらある。彼も――伯爵もそんな様子を大いに喜んでいた。さらに肉を勧めるようにワインを注ぎ、楽しげになにかを話している。
シモンはテーブルの下に目をやった。優雅に揃えた脚が片方、くせのようにそろそろと青年のほうへ伸び――シモンは息をつめて顔を戻した。耐えきれないように胸元に拳をあてる。爪先に触れて、足の内側、側面を、爪先でそっと滑らせるのが彼の愛撫だ。食事中にいつも行う、ふざけた、とても快い、愛情表現で――。
胸の痛みはシモンの呼吸をおおいに乱した。真っ暗な視界のなか、感覚のない体をどう動かしたものか、しばらくあと、シモンは外の空気に触れて、胸の奥に詰めていた息を静かに吐き出した。それは震えていた。
昼食の時間で、シモンはいつものように肉を勧められた。
スープはおろか、飲み水さえも口にしない彼を見て、皆が「いかがですか」と心配そうに色々な料理を並べてくれたのである。
シモンが手元に寄せたのはシーザーサラダだった。
皆の不安はなにも口にしない前よりもさらに強いものとなった。まるでざわめくように一気に広まった気遣う表情を見て、シモンは責任感からか、フォークを置いた。胃が潰れてなにも食べられる気がしない。テーブルクロスに視線を落としたときに、ふと、頬にかかる髪の毛でとある感触を思い出した。
彼は自分が思いつめたとき、いつも頬に手を添えて、きちんと食事を摂っているか確かめたものだった。やわらかな手のひら、気遣うように見つめるあたたかいまなざし――。
シモンは肉が置かれた皿を引き寄せた。骨の部分を片手でつかみ、顔を寄せて、頬が汚れるのもかまわずに身を引きちぎる。その様子がどことなく無理をしているものだと皆わかってはいたが、とりあえずは栄養を摂る彼の姿を見て、ほぅと息をついた。無言ながら、いつもながらの見事な食いっぷりに見惚れたのである。シモンは味のしない肉を残すことなくきれいにたいらげた。
「この頃、会わないな」
「会いたいのは山々なのだが――忙しくてな」
ラウンジの外でばったりと会ったときに交わした会話だ。
シモンは自分でも驚くほど険のない表情で伯爵を見つめていた。
拳をにぎりしめてはいたが、平静を保った口調で「今夜、よければ」と伯爵に笑みを向けていた。
「すまないが、用事がある」
挨拶のように髪を梳かれた。途中で絡まり、指がつかえた。ふっと苦笑するようなまなざしを向けて、伯爵は指を抜いた。
後ろを歩み去る伯爵の、外套のひらめく音を耳にしながら、シモンは針を刺されたかのように萎縮する胸をそのままにして、誰もいない廊下を見つめていた。
その日のうちに、彼らの姿を書庫で見かけた。
壁一面に並ぶ膨大な本を前に、一冊の本に顔をつきあわせていたのだ。
文面に指をさしてなにごとかを話す伯爵、うなずく赤毛の青年。
頭ひとつぶんの差があるその背格好を見て、シモンはその場を立ち去った。
なぜこう鉢合わせてしまうのか、そしてなぜ声をかけられずに場を離れてしまうのか、なによりなぜ、彼はこちらに気がつかないのか――赤毛の青年に気を向けているからだと理解して、シモンは衝動的にあの絵画の並ぶ廊下へ足を向けた。あそこには多くの作品と、彼を描いた肖像画がある。なにかを確かめるためにシモンは目的の絵の前で立ち止まり、作品を見上げた。
すらりと姿勢良く立つ長身痩躯。自然かつほかに並び立つもののない存在感。厳かであり、身なりは偉容を現すには充分に品が良く、指先から爪先に至るまで隙がない。まなざしには気迫があり、この絵の作者は彼の目の光を描くためだけに全人生を費やし、魂を捧げたのではないか、そう思わせるほどの力があった。
彼は美しかった。身震いするほどに。
この世界を統治するにふさわしい圧倒的な存在が、なぜ今まで自分のようなとるにたらない人間に目を向けていたのだろう。やさしくしてくれたのだろう。
気が変わったところで責められるはずもない。腰にまわした手、食事の最中に向けたほほえみ、顔をつきあわせるほどに許した距離。いまはすべてあの青年が得るものとなったのだ。そして彼の安らぎは自身が願う最終的な目標でもあるのだ。それをもたらすものは自分でなくてもよい。あの青年が自身の、とほうもない願いを叶えてくれる。喜ばしいことではないか。
シモンは拳で胸を押さえながら、何度も『自分でなくてもいい』と思い返した。
『彼が選ぶのだ。彼が望んだことなのだ。あんなに穏やかな顔を自分以外にも見せたのだから、これは、喜ぶべきことなのだ』
足が動かなくなる前に、意識的に息を吸い込み、滲む視界を正常なものへと変えた。そしてシモンはその場を離れた。
皆とともに探索を積極的に行おうとラウンジへ戻ったが、ひとり残っていた風魔に――おそらく帰りを待っていた彼に、自室へと背中を押された。気を張るのは無意味だった。
風呂に入り、祈りを終え、ベッドに横たわったシモンは、しばらくしてから、ふと気がついたように横を向いた。シーツに波打つ金色の髪。窓から射し込む月の光に照らされたそれを、凝り固まったまなざしでじっと見つめる。最後に触れたあの指先は、『相変わらずだな』というような仕草を見せた。
『くせのない髪だからといって、手ぐしで済ませるのは――』
がみがみとした文句のあとに、彼は幻獣の毛で作られたというブラシを青年に贈った。
『メデューサも愛用している。頭の蛇が気持ちよさそうにしているのを思い出してな』
それは人に向くものなのだろうかと思ったが、サイズはごく普通の、一般的な太さの毛を使用したブラシだった。柄の部分には秀麗な細工が施されている見事な逸品だ。結局は使わずにしまっておいたが、それも彼には不満だったのだろうか。
シモンは起き上がり、鏡台の引き出しにしまわれていたブラシを手にとった。
そして鏡に向かい、一櫛入れた。
教わったとおりに、毛先から根元まで、ゆっくりと――解きほぐすように時間をかけて。
思い出すのはあの青年の、見目麗しい、美しい髪の毛だった。
鮮やかな赤、洗練された毛先、豪奢な波を打つすばらしい髪の毛。
自然に恵まれたものといって手入れをしていない自分とは明らかにちがう、豊かな夕焼け色の、午後の風を感じさせる、あたたかな空気を含んだ見事な髪。
ブラシを入れるといかに髪の毛が疲弊していたかがよくわかった。絡まりをなくして、空気を入れると、金色の髪は豊かに膨らみ、艶を生んだ。月光に映えるその髪の毛を見て、シモンはブラシを置いた。
会いに行って、話を聞こう。
青年は身支度を整えて、部屋を出た。
伯爵の私室を訪ねたシモンは、しばしの逡巡のあと、はっきりとした音を立ててノックをした。返事はなかった。
会いたいような会いたくないような。ここ以外に落ち着いて話せる場所も、確実に彼に会える場所もないように考えたシモンは、思いきってノブを回した。
鍵はかかっていなかった。留守中に黙って入ったら気を悪くするだろうが、それはそれとして素直に謝ろう。いまはどうしても話したいことが――
足音を吸収する絨毯を歩むと、見慣れた家具のなかにふたりがいた。
ひとりはソファに座って、もうひとりはベッドにいた。白いシーツから柔軟性を感じさせるなまめかしい肩が覗いている。しどけなく流れる赤い髪。
ノックの音にも気がつかないくらいに読書に夢中になっていた伯爵が、まるで悲鳴を聞きつけたように、そのとがった耳をぴんと震わせた。無音のなか、たしかに強烈な音を捉えたのだ。心臓を握りつぶすような、胸張り裂けんばかりの顔をした青年の鼓動を。
伯爵が立ち上がるのとシモンが背を向けるのはほとんど同時だった。
「シモン、誤解だ」
呼び止める言葉はシモンには届かなかった。足早に去る彼のあとを追って、伯爵は彼の名を叫んだ。「シモン!」
その騒ぎに目を覚ました赤毛の青年はベッドから身を起こした。神秘の偶像を追い求める詩人のような澄んだ意思を表情にたたえて。
痛ましささえ感じられる激しい足取りで階段を降りるシモンに、伯爵は何度もその名を呼びかけた。青年は立ち止まることなく絵画の並ぶ廊下を歩んだ。
まなざしは雷光のように鋭く、肩はいかり、息づかいは耳に入れたものが戦慄するような厳しさに満ちていた。
城主と対峙する以外には二度とここを訪れないという表情で歩む彼の眼前で、唐突に、つきあたりに飾られた絵画から縞模様の黒い渦が現れた。
目を見開き、反射的に鞭に手をかけたシモンの前へ、その巨大な渦は人の姿を生みだした。長身痩躯、黒い長髪に壮麗なローブ、禍々しさと高貴さが組み合わさる一条の杖を手にしたひとりの男。あの蓮の湖に佇む吸血鬼だった。
彼はふたりを目に捉えたが、すぐに興味なく階段を見上げた。ふたりのあとを追ってこちらへ向かう足音を耳にしたからだ。それは彼にとって聞き慣れた物音だった。「シモン」
自分ではなく、階段にいる赤毛の青年に向けられたその呼びかけに、階上の青年もまた「ドラキュラ」と返事をした。呆然とする青年をよそに、もうひとりのシモンは、ドラキュラと呼ばれた彼のもとへ歩み、ごく自然な抱擁を交わした。
「異なる位相の君だ」
背後の声に振り返り、シモンはその日まともに伯爵と顔を合わせた。その表情には誠実さがあった。
「全精力をこめた絵が不可思議な力を放つというのは、この世界ではごく当たり前に起こる現象なのだろう。一枚の絵画は画布に表現された世界と我が城とを繋げてしまった」
実際にどこかにある世界の、最も高名なる吸血鬼狩人は、ある日突然、位相をねじまげる力に囚われてしまったのだ。さまよい出た青年を一目見たとき、伯爵は瞬時にシモンと同じ魂の色を感じ取った。彼もまた古の城の主と同じ雰囲気を感じ取った。名前、生業、自分との関係を抵抗なく話し合えたのも、どこかで繋がりがあったからに他ならなかった。
一時的に迷い込んだ彼を狩人たちに会わせるのは混乱が生じると判断した伯爵は、自分のもとで保護することに決めた。
文献をあたり、元の世界へ戻すために、向こうの伯爵と繋がりを持てるような複雑な儀式を行使する毎日。
ほとんど休むことなく動き続けたが、先に青年のほうがまいってしまったのだった。慣れない場所で疲れが出た青年をベッドに横たえさせて、さらに詳しく連絡を取れる方法はないかと魔術書を読んでいたところにシモンが訪れ――今に至る。
説明を終えた伯爵と、まだうまく事態を飲み込めていない青年に向かい、もうひとりのシモンは会釈とともに礼を告げた。
「ご迷惑をおかけしました」
自身へとほほえむ赤毛の青年はやわらかな、若々しい声をしていた。
青年は、もうひとりの自分に会えて光栄だというように目を細めた。
「貴方のすばらしいところを彼からずっと聞かされていた。とても楽しそうに、誇らしげに」
実際にそうなのだろうと思った、彼はとても穏やかな表情をしていたからと、青年は語った。
「寂しい顔も見たけれど――食事中は特に。まるで貴方と何年も会っていないかのような遠い目をして、両手を組んでいた」
やりたいこと、したいことを我慢するときに行う彼の仕草だ。あの爪先は結局、青年に触れたかどうかは見なかったが、おそらくは、なにもしなかったのだろう。赤毛の青年の表情には少しも後ろめたいものがなかった。
「あなた方のようになりたいものだ。迷い込んだ自分をごく自然に助けてくれる、かけがえのない関係を築いたあなた方のように」
シモン、早くしなければ時空が閉じると、もうひとりの伯爵が声をかけた。青年はうなずき、「さようなら」と、やさしい笑みを残して、背を向けた。その腰に手をまわして、絵画へと導く古の城主。彼は伯爵に向かい、「感謝する」と、どこか気むずかしい表情でひと言告げた。
消えゆくふたりの後ろ姿を見ながら、シモンは朝の光を浴びたような冴え渡る思考で『あぁ、あのふたりは、私たちなのだ』と理解した。
渦の消えた絵画には元の通り、湖に佇むふたりの姿が描かれていた。しかしそれは、以前とは少し様子が違う。湖を眺めていた顔はお互いのほうを向いていた。穏やかに見つめ合うふたりを見て、シモンはしんとした廊下を振り返った。伯爵は青年を見つめていた。
ふたりは魂が引きあうように抱き合った。痛いほどの力をこめて、肩を、背中を抱きしめる。
「不安にさせて――胸の悪い思いをさせてすまなかった」
いいんだというように、シモンは額や頬を彼の首筋にすり寄せた。
あぁ、彼の言ったとおりだったのだ。彼が親切にする狩人など自分のほかにいはしない、美しい湖のほとりで逢瀬を交わす相手など自分以外には存在しないのだと。それは悲しいことのように思われたが、シモンの心臓は今ようやっと快さを取り戻したのだった。
頭をなでる伯爵がなにかに気づいたように耳元で囁いた。
「いつもより艶があるな。なにか特別なことでもしたのかね」
シモンは気恥ずかしいように赤くなった頬を肩口に埋めた。
「お前にブラシをもらったから……くせがないからといって、手入れをしないのはやはり良くないと思って」
「そうか」と伯爵は嬉しいように髪に指を入れた。「とてもなめらかだ。ぬくもりがあって、輝くばかりに――美しい」
いとおしい響きに満ちた声だった。
見つめ合い、音立てるキスを交わしたあと、ふたりは自分たちの時間を過ごすために階段をのぼった。
腰に手をまわして歩むその後ろ姿は別世界の彼らふたりとよく似ていた。
終
13/11/14(木)
いつもお世話になっている蓮さんに。