夕食の前に中庭を軽く散策しないか――そう伯爵に手を差し伸べられて、シモンはその手を取った。
三日月の夜、月明かりに照らされて、アネモネの花が紫色に映えている。
秘密の通路を抜けて、ふたりは高い城壁に囲われた、つつましやかな園庭に赴いた。広々として、空気は冷たく、塔の内部のように、あらゆる物音が星空へと向かう場所。耳は詰まるが、不快ではなく、中庭は心を落ち着かせるような静寂に満ちていた。草を踏みしめる音、視線と同じように流れる呼吸、風のない月夜。園内にはすずやかな大気が広がり、カエデの木を一葉も見事に、くっきりと青い夜に調和させている。
中央に、白鳥が泳ぐ湖があった。白い石縁に囲われた豊かな水。ゆらめく水面に、三日月が小さな影を落としている。
「一羽だけというのは寂しいな」
「そうだな。貧しい光景かもしれぬ」
「そんなつもりで言ったわけでは――いや、白鳥の気持ちなどわからないが」
仲間がいたほうがいいのではという思いで言ったのだろう。青年のなにげない言葉を空気のように吸い込み、伯爵は息を抜いた。青年は湖の近くへ足を運んだ。腰掛けるつもりで石縁へ歩んだが、水面に映る自身の姿を見て、シモンはふいと顔をそらし、「あそこへ行かないか」とカエデを指さした。伯爵は彼の隣へと歩んだ。人ならそこに映るだろう水面をちらりと見て、古の城主は鼻から息をついた。こういう青年なのだ。そして自身も水鏡を前にするのを多少は厭う。気遣いを無言で受け取り、伯爵は青年のあとを追った。
カエデの木のそばで、ふたりは腰を下ろした。
豊かな枝葉がときおり風に吹かれて、ひめやかな音を立てる。透きとおった夜の空気は青年の声をいつもより鮮明なものとしてふたりのあいだに響かせた。「聴かせたいものがあるんだって?」
あぁと伯爵は優雅な座姿勢を崩さずに返事をした。
「新しいレコードが見つかった。ともに聴けるかどうかわからないが、その楽曲について文献をあたったところ、人類史上に輝く名曲と記されていてな。ぜひそのレコードを君と一緒に聴きたいと――」
青年を城に招いた理由を話すうちに、伯爵のもとからの遠い視線は、さらに茫洋としたものを見つめるかたちへと変化していった。「詩もすばらしく、美しくて――」
なにか別なことを考えているな――伯爵の移ろいやすい性格を知るシモンは、黙ってその様子を見守っていた。聖夜が明けて間もないのだ。まだ本調子とは言えないのだろう。棺のそばで待っていたように、シモンは息を静めていた。やがて伯爵が額に指先をあてて「机は」と呟いた。懐からハンカチと万年筆を取り出して、シモンを見る。
「忘れそうだ。背中を貸してくれ」
シモンは伯爵に背を向けた。その背にハンカチが広げられて、ペン先が滑る。が、しばらくして「書きづらい」と神経質な声が聞こえた。
「筋肉が盛り上がってでこぼこしている。文字がぐにゃぐにゃだ」
「そうか」シモンはくすぐったい感触を解消するように肩をすくめて「言ってくれたら、私がお前の背中で書くよ」とうしろを振り向いた。伯爵はしばらく考えたあと、黙って背中を向けた。
「……――壁を破壊すると肉ではなくノミ男が現れる。箱の中にはコウモリが。女神像の血の涙はレッドスケルトンに変わり、鏡もシャンデリアも狩人が近づけば大破するように作りを」
「ちょっと待て、なんだこのメモは」
「新しい罠を考案しているんだ。忘れないうちに書き記しておかなければ」
シモンはハンカチをくしゃくしゃに丸めて、万年筆と一緒に放り投げた。
「お前は私と一緒にいるときに一体なにを考えているんだ!」
ムッとする伯爵を無視して、シモンは不機嫌をあらわに腕組みをして、そっぽを向いた。伯爵は悪びれない様子で「君を見ると今度こそ狩人が踏破できない罠はなにかないものかと考え込んでしまうんだ」と言った。シモンは耳を貸さなかった。
ふたりのあいだを風が吹き抜けた。伯爵は背を向けたままのシモンの後ろ姿をじっと見つめた。風にそよぐ金髪、大地を流れる溶岩のような、神秘的かつ力強い背中。文字も刻めないほどのたくましい体。
「いまの君の背中には傷がないのだな」
うん? とシモンはその問いに振り返った。動じない様子で伯爵はそっと息を落とす。「もしもその背に呪いの傷が刻まれていたら、君は果たしてわたしのそばにいただろうか」伯爵はそう呟き、目線を下げた。「わたしのほうからは、とてもではないが、君のそばへなどいけない」
人の世に伝えられている記録には、英雄、シモン・ベルモンドは、伯爵から呪いの傷を受けて、7年のあいだ苦しんだという。解呪と、伯爵の鎮魂の儀のためにふたたび旅立ったシモンは、見事にその使命を果たし、血を残した。ふたりのあいだにある記憶とは異なっているが、これこそが本当の史実なのだ。そのような戦いを経たのちに、こうして同じ木立の下に坐すことなど、ありえるのだろうか――伯爵が口にした疑問は、重大であるがゆえに、いままで考えることを避けてきたものだった。シモンはしばらくのあいだ口を閉ざして、やがてぽつぽつとこう話した。
「この世界で、お前と私がいて、戦いだけで終わるはずがない。きっとどこかで、どちらかが、相手と接点を持とうとしただろう。話をするうちに、いつか心が重なり合うことも――」
「そんなことがあるだろうか。憎悪の気持ちが先に出て、相手と話をしようなどとは思わないのでは」
「嫌悪や憎しみの念を抱いて戦ったことなどない」
「君はそうであろう。君は――すべてを終えたあとに、わたしの墓前で祈ったのだから。自分を死に至らしめようとしたものを愛し、そのもののために祈りを捧げたのだから」
わたしは、と伯爵はそれきり口をつぐんだ。
互いの心に鮮明に焼きついている薄暮の光景。
復活の際に崩れた墓を新しく作り直し、その前で鎮魂の祈りを捧げた青年の英姿はどうあっても真実で、忘れられるはずがない。
しかし自分は――訪れた夜の光景を思い出し、伯爵は遠く、歎くように青い月夜を見上げた。混濁した記憶のなかで、聴けるかどうかもわからない調べが、文献の文字とともに蘇る。
「”すべての生き物は、自然の乳房から歓喜を飲む。
すべての善人も、すべての悪人も自然の薔薇の小路をゆく”」
白色の靄に覆われたように、古の城主の目の色は薄く霞んだ。
孤独な生き物を見て、その光景の貧しさしか気に留めない自分。
彼とともにいるときでさえ、狩人を罠にかける算段を組む自分。
「わたしは自然の薔薇の小路もゆけぬ。ただひとり残されて昏い道に佇むのだ」
シモンは伯爵の言葉を受け止めて、ひたむきと言える早さでこう伝えた。
「私がいるよ」まっすぐな声とまなざしが届いた。「道を引き返して、お前のもとへゆくよ」
そうするのが当然のように、迷いなく、シモンは答えた。
いつもより少し神経質になっているだけなのだ。
眠りが足りなかったせいかもしれない。
どう考えても同じ答えにしか行き着かないことをあれこれと思いすぎて、古の城主は、自身の存在に不安を覚えてしまったのだ。貴族のなかの貴族、伝説の吸血鬼と呼ばれる存在が、まだ起こってもいないことを気にかけて、昏い思考に落ち込んでしまっている。
シモンの気遣いはしかし、伯爵の心を上向けることができなかった。
洞窟の奥の奥へ潜るように、伯爵の凝固した視線は下を向いて、その思考には重苦しい闇が広がった。
青年の――狩人の思考には迷いがないのだ。
7年のあいだ、死に至る呪いに苦しめられても、幼い頃に誓った信仰を持ち続けて、誰を恨むこともなく、ただ自身の使命を果たした。呪いに蝕まれた年月は、いったいどれほどの苦しみだったろう。鉛を背負うよりも重苦しい体を抱えながら、理不尽な仕打ちに耐えて、ふたたび旅立ったその思いは、どんな焦燥に満ちたものだったろう。そして墓前に跪き、鎮魂を願った青年の祈りは。
「私は蘇った。君の祈りにも耳を貸さぬ、真正邪悪な存在として」
夜の空気に触れた手の感触を覚えている。狩人は、青年はたしかに祈りを捧げたのに、この身はふたたび人の世に蘇った。彼の祈りも通じぬのなら、自身の安らぎの時など、永遠に訪れるはずがないではないか。
うつむき、両手で目元を覆おうとしたとき、その高貴さが失われない縒った背に、シモンが軽く頭を寄せた。考え過ぎだが、その思考の邪魔はしないというふうに、まなざしを細めて。
「お前はすべてのものに勝たなくてはいけないよ」
青年のまなざしは遠い未来を見通すような透徹とした光に満ちていた。
声も、表情も、透きとおった善きものとして、伯爵の背にぬくもりを与えた。
「戦にも、時の流れにも――祈りはお前を歎かせるが、同時に力も与えることを、いつかきっと知るときが来る。私はお前をひとりにはしないよ」
凝固したまなざしのままだったが、伯爵の掲げた手は目元を覆うことなく、眼前に上げたまま静止した。血の涙は下まぶたに盛り上がるのだろうか――背に当たる青年の頭の感触は、気を落ち着けるようなゆらぎを伴って、ぬくもりを伝えてくる。竜公と呼ばれる存在が、一時の悲観に暮れて、歎く様を見せるのか――。
骨から響くような振動が互いの体を震わせた。体がからっぽになったかのような、切なる響きだった。シモンの動きが止まった。こめかみを当てているところから熱が伝わってくる。どんな表情をしているのか、彼が想像するまでもなかった。
「すまない」恥ずかしげにうつむいた、素直な声だった。
伯爵は振り向いた。その顔には憂いも気鬱もない。ただ青年の――友の空腹を癒さなければという使命感があった。「夕食前だったな」
伯爵は立ち上がり、ここへ来る前のように、シモンに手を差し伸べた。青年は多少赤くなった顔のまま、その手を取った。土を払う仕草でも照れを隠しきれなかった青年は、なにか話題を変えようと、途中で途切れた会話のことを思い出した。
「なんという曲名なんだ?」
「交響曲第9番。合唱部分の主題は歓喜の歌。正式にはもっと長いが、世間ではそれで通っている。わたしたちよりずっとあとの時代に作られた傑作だそうだ」
「きっと良い詩なんだろうな。お前の心を揺らがせたもの」
「聖性があるのはたしかだな。詩を読んだだけでこの有様だ――不安定になってしょうがない」
「でも、一緒に聴けるといいな」
「そうだな」
数歩歩んだところで、伯爵は投げ捨てられたハンカチと万年筆を拾い上げた。
青年に背を向けて、メモをとるように頼む。
「白鳥を増やして、ベンチを設置する」
書き終えたシモンは彼のとなりに並び、穏やかな微笑みを向けた。
「楽しみにしている」
やわらかな微笑を浮かべた狩人を見て、伯爵はふたたび詩の一篇を思い出した。
そうだ、たとえただひとつの魂でも
地上で友と呼べるものをもつことができる者は!
しかし、それができなかった者は
涙しつつ、この集いからひそかに立ち去るがよい――
集いになど興味はない。涙を流すつもりもない。
伯爵は青年の手をしっかりと握りしめた。
そして聖歌をものともしない足取りで、彼のための夕の席を設けようと、ほのかな明かりの灯る自身の城へと帰るのだった。
終
14/01/05(日)
大晦日に浮かんだ話です。(第九が流れていたので)
なので書き納めとはいかずに、新年に持ち越すことになりました。
このずっとあとに『睡郷』に続く感じです。