時計塔の近く、苔むした階段の隅で、一匹のコウモリが息絶えようとしていた。片翼が折れている。歯車に巻き込まれたのだろう。
幼いコウモリは丸い体をかすかに上下させて冷たい石段にうつぶせていた。
三日月の夜、古の城に冷厳な色の月明かりが射している。
青い地面に横たわる黒いぼろきれのようなそれは、しばらくして、足音もなく階段を降りるひとりの貴やかな影に包まれた。
長身痩躯、風になびく外套の音もおごそかな美しい佇まい。古の時代の竜公が、小さなコウモリを前に、その金色の瞳を向けていた。
数日後。
天守へと続く階段をのぼり、私室への隠された扉を開いた城主は、思わぬ出迎えの言葉を耳にした。
「おかえり、ヴラド」
ここへの直通の路を来たのだろう。この本の世界でただひとり、竜公をその名で呼ぶ年若き狩人が、本から顔を上げて、彼に穏やかな笑みを向けていた。
青年はソファから立ち上がると、黙って部屋に入ったことを詫びるように、少しだけ眉を下げた。扉の前から動かない彼に歩み寄り、「あの」と声をかける。「迷惑だったか」
城主は表情を変えずに青年の頬をなでた。「ただいま、シモン」言い慣れない言葉に対して喉の奥で笑うと、その声の温みにシモンもほっとしたように口元をほころばせた。
「会いたくなって」
「わたしもだ」
伯爵はなにかに気がついたように青年の唇をなでた。親指から伝わる乾いた感触に片眉を上げて、彼はソファへ腰掛けるよう青年に言った。
部屋の奥にある棚を探り、なにかを携えてシモンの元へ戻ると、彼の隣に優雅に腰を下ろして、手の中の小さな平たい缶を開けた。乳白色の軟膏を指先に取り、ごく自然な動作で青年の唇に触れる。シモンはとまどいながらも、されるがままに唇をやわく閉じていた。細く長い指先からなめらかな感触が広がる。
「乾燥した肌に塗る薬だ」
伯爵はシモンを見つめながらそう言った。「少しひび割れていたからな」
その声は熱を持った青年のこめかみによく響いた。シモンはほんのりと赤らめた頬で「すぅっとする」とかろうじて呟いた。「油臭くもないし、水のようになめらかで……その……」
ありがとうと、シモンは少しうつむきながら礼を言った。薬を伸ばすように、あるいは自分で塗れたと言いたいように、唇を引き結ぶ。
伯爵は軟膏を多めに指に取り、両手を出すように言った。シモンは遠慮がちに手を伸ばした。伯爵はやわらかなしぐさで両手を包みこみ、青年の手のひらへていねいに薬をもみこんだ。
シモンの頬はますます赤くなった。自分の分厚い手に比べて、彼の手はなんとすべらかでみずみずしいのだろう。しっとりとしたきめ細やかな白い肌。いっぽん一本の指を包まれ、爪へと抜けてゆく塗布のしぐさに、かすかな、たしかな快感を覚えてしまう。シモンはそれを悪く思うように眉を下げた。
薬を擦り込まれるたびにじわりと汗の感触が生まれる。
気にしないように手指をもみこむ伯爵に対して、シモンはちゃんと洗ってからにしたかったと、それだけを思いながら、自身の手の甲と、彼の見目麗しい両手を見つめていた。
「ありがとう」
伯爵はわずかに目線を下げて礼に応じた。
「全身に使えるクリームもある。帰りに持っていきたまえ」
あぁ、渡したいものは他にもあると、伯爵は缶の蓋をしめながらローテーブルに視線を移した。なにもなかったそこに、丸太のように巻かれた毛布が現れた。
手渡されたそれは極上の肌触りを誇る逸品だった。毛足5㎝はある。一枚で三人はくるめるほどの長大な、上等の毛布だった。
毛並みの良い感触を好む青年は、ほどいたそれにたまらず顔をうずめた。喜びをおさえきれない。子供のように頬がほころぶ。
すごい、すごいと毛布に思いきり叫び声をくるませたあと、シモンはようやく我に返り、じっとこちらを見つめている伯爵と顔を合わせた。焦りの混じった、喜色満面の表情で、青年は「ありがとう、ヴラド」と礼を言った。
「喜んでもらえてなによりだ」
「でもどうして」
「気にするな。そうしたいと思っただけだ」
伯爵はシモンの頭をなでた。髪を梳き、愛に満ちたまなざしを向ける。
シモンは微笑みながら見つめ返して、静かに首を傾げた。「どうかしたのか」
「やさしくしてはおかしいかね」
「そうじゃないんだ」
「それならば――好きなようにさせてくれないか」
シモンをゆっくりと抱きしめて、伯爵は彼の首筋に高い鼻をこすりつけた。
頬を、額を同じようにすりつけて、顔をうずめる。
シモンは毛布越しに伯爵を抱き返した。理由はなにも思い当たらない。ほんとうに、こういうことをしたい気分なのだろう――おそらく。たぶん。それだけなのだ。
「なにかしてほしいことはないか」
自分がなにかを頼むことで彼の気持ちが満たされることをシモンはよく知っていた。好きなように、彼の好きなように――互いにゆりかごのように身を揺らしながら、ふたりは目をとじた。「それなら、ひとつだけ」腿に触れる毛布の感触がとても心地よい。
新品の毛布にくるまれながら、ふたりは――裸の青年と、一匹の狼は、ひとつのベッドに横たわっていた。
シモンは銀色の狼を腕に抱き、鼻筋や背中をなでては、たまらないようにふかふかの毛並みに顔をうずめた。
飽きることのない抱擁に狼も長い鼻をこすりつけて親愛の情を示す。
感触の良いものを好む青年は伯爵に狼になってくれるように頼み、共に一夜を過ごしたいとかねてからの希望を述べたのだ。硬い毛並みは肌にちくちくとしたが、それも青年にとってはたくましく、心地よいものに感じられた。
ふたりは信頼と友愛の心を胸に広いベッドで抱き合っていた。
格子つきの大きな窓から三日月が見えた。
伯爵の耳の裏をなでながら、シモンは夢見る心地で彼の首筋に顔をうずめた。
鼻声を響かせて、言葉にならないことを尋ねる。甘えながら、よかったら聞かせてほしいというように、気心の知れた間柄にのみ伝わるしぐさを取る。
狼は一度深く瞳をとじてから、過去の情景を見つめるように、薄く現した金色の光を青い部屋にゆらめかせた。
「弱々しく地面に横たわる一匹のコウモリを――君も見つめていたかと思うとな」
対峙ののち、決着がつき、窓が破れ、太陽の光が射し込んだそのときに、無数のコウモリは次々に塵と消え――最後に一匹のコウモリが残った。それもしばらくのちに灰と化した。
青年はその姿を見つめ続けた。目をそらすことなく、見届けた。
強大な力を持ち、人間界へと侵攻を進めた魔王の最期を、ひとりの狩人はその青い瞳にしっかりと焼き付けたのだ。
見下ろすという気持ちがどんなものか、竜公は数日前に経験した。
その光景は不思議なことに、思い返すと、自身の後ろ姿を見つめる状態で脳裏に蘇るのだ。
月明かりの射すなか、足元には一匹のコウモリが。
彼にやさしくしたいと思う気持ちが泉のように伯爵の心に湧きあがった。
「そうか」シモンは狼をしっかりと抱きしめた。「そうか――」
ありがとうというように、顔をうずめて、瞳をとじる。
「今日はゆっくり眠ろう。明日か、しばらくすれば、また……」
言葉を継ぐように伯爵は瞳をとじた。
戦いは続くのだ。覚悟と誠実さをもって鞭を振るう狩人と対峙する日が、またいつか。
静寂に満ちた青い夜に、常闇を象徴する三日月が雲に隠れることなく浮かんでいる。
翌日、相変わらずの青い世界で目を覚ましたふたりは、同じテーブルについて食事を摂っていた。もっとも、食べるのは青年だけで、伯爵は真向かいからその様子を眺めていたのだが。
穏やかな表情で、胃に負担のかからない食事を摂る青年と、それを見つめる伯爵のあいだに、外からの音がかすかに混じった。
窓を見ると、一匹のコウモリが小さな瞳でこちらを見ていた。
伯爵が魔力を飛ばして窓を開けると、コウモリは控えめなはばたきで部屋に入ってきた。
幼いコウモリは伯爵ではなく、青年の肩の近くではばたいた。
シモンは微笑を浮かべながら指を差し向け、「すっかりよくなったな」と、コウモリをその指にぶらさげた。
伯爵の脳裏に自身の後ろ姿が蘇る。
数日前――直通の通路から天守へと赴いたのだろう――階段に佇んでいるところを、青年に背後から声をかけられた。
手のなかのコウモリをのぞきこんだ彼は、道具入れからポーションを取り出して、まだ息のあるコウモリに使用した。
不思議そうな顔で見つめる伯爵に、青年もまたなぜそのようなまなざしを向けられるのかわからないように、首を傾げて見つめ返した。
「なぜこのようなことを?」
「そうするのが当たり前だろう」
「君くらいだ」
「コウモリを抱き上げたお前の姿を見たら、誰だってそうする。
――ここにいる皆はきっとそうする」
そうかな。
青年がそう言うのなら、そうなのだろう。
そういうことにしておいても良いのかもしれない。
ただ――ただ、やはり、わたしにとっては、君こそが――。
食卓は薄い月明かりに照らされている。
やさしい表情でコウモリと戯れるシモンを見つめながら、伯爵は落ち着いた声音で、こんなことを口にした。
「お互いに、最高の獲物を仕留めたように思う」
狩人は魔王を、魔王は狩人を。
彼だからこそ。彼でなくては。
そう思うのが自分ひとりであっても。
シモンは驚き、目を見開いたあと、頬を赤らめて視線を落とした。
ゆっくりと考えてから、静かに顔を上げて、真摯な思いに応えるように伯爵を見つめ返す。
「私も、そのように思う」
竜公の笑みが深くなった。なにもかもが満たされたように、まなざしを細める。その高貴な光は青年に注がれて、ふたりの胸を甘やかな愛で包み込んだ。
「肉でもどうかね。たっぷりと脂ののったうまい肉でも」
「いただくよ」
食事の邪魔をしないよう、コウモリは窓から元気にはばたいていった。
冷たくもやさしい色をした三日月が夜空に明るく輝いている。
終
14/04/07(月)