気が立っていただけなのだ。
ひとつ、長雨が続いたこと。
ひとつ、ニンニクの花の花粉で花粉症にかかっていたこと。
おまけにひとつは、彼がそのいまいましいニンニク料理を食べたのを忘れて(あとで聞いたところによると料理にガーリックオイルを使用していたらしい)間近で自分の名前を呼んだこと。
「ヴラド」と親しげにほほえんだ青年に向かい、伯爵は真っ赤な鼻を震わせながら「寄るんじゃない、汚らわしい」と怒鳴りつけたのだ。
あらゆる不快さが重ならなければそんな酷い言葉を言って青年を傷つけることもなかったろうが、当時の伯爵はただ混乱のきわみにあって――ふたりのあいだにある種の緊張が生まれようとも、自身の命を脅かす刺激から逃れるべく――猛烈な勢いで青年をはねのけることしかできなかったのだ。
強ばった表情のシモンを見ても、伯爵は怒り以外になにも感じないまま背を向けた。しかし時が経つにつれて彼の顔を冷静に思い返すことができ――視界が暗く狭く落ち込んでいった。
あの時、自分は青年に対して吐き気を隠しもせずに、ことさらにげぇげぇと音を立てていなかったか。実際に涙と鼻水を流していたが、あそこまで当たり散らすように無様な姿を見せる必要があっただろうか。いや、ない。
しかし、シモンも少しエチケットに欠けたところがあった。
鼻がまともに機能していなくともあの強烈な臭いは口腔から入り込むのだ。無自覚とはいえその臭いを向けた彼に対してほんの少しの怒りを表したところでなにを気に病むことがあろう。(人には嗅ぎ取れもしないごくかすかな臭いであったが)鋭敏な感覚を持つ吸血鬼にとっては命の危険もある刺激だったのだから、そうとも、別にこちらから謝りにいかなくとも――。
ぼやけた視界の中でひどく凝り固まった顔をしたシモンのまなざしが何度も脳裏に浮かんでは消えた。鼓動のない胸に幻のような痛みが走る。
雨は変わらずしとしとと降っている。
目元や鼻を痛々しく赤らめた古の城主は城の大書庫にいた。
魔界の書物はもちろん世界各国のあらゆる文献を集めた博大たる図書館である。
花粉症を治すのに良い薬や療法はないものかと調べにきたのだ。
そこはしかし人間界の書物も数多く収集した一室であるので当然――
”花粉症にはニンニクが効く”
”黒ニンニクでアレルギー改善――体ぽかぽか、血液さらさら!”
”ニンニク卵黄は花粉症に効果アリ?”
伯爵は黙って本を棚に戻した。焼き払いたいところだがそんな野蛮な真似をする体力も残っていなかった。
人には効能あらたかな薬膳料理のたぐいが自分にはどうして命を削るような毒物になってしまうのか。
青年との七年越しの戦いの際にもこのいまいましい食物に悩まされた記憶がある。
今はだいぶましになったと思っていたのに、よもや花粉症などという鬱陶しい病を発症するとは想像だにしなかった。
だいたいなんで伝説の吸血鬼ともあろうものが花粉症にかかるのだ。
青年との散策の際、森の奥深くに分け入ったのがいけなかったのか――。
伯爵は数日前にシモンと一緒に月夜の森の幻想的な散策を楽しんだ。楽しんでいたのだ、ニンニクが群生しているとある一角に踏みいるまでは。
風も吹いていない穏やかな夜に、臭いもなく突然目の前に現れたその光景に、伯爵は毒の沼地を連想した。待ち構えていたようにさっと吹く一陣の風。強烈な臭いが鼻をつく。吐き気とともに伯爵は血とは違う本物の涙を流しながら木蔭にもたれかかった。みじめに背を縒る城主を青年は適切に介抱してくれて、城まで無事に送り届けてくれたのだが――翌日、伯爵は花粉症を患った。
鬱屈とした気分に寄り添うように雨も降りだした。
涙と鼻水が止まらない。肌がびりびりとして、痛い。
怒鳴りつけたあの日から三日は経っているだろうか。青年とは一度も顔をあわせていない。どうしているだろう。
最後に目にした青年の顔を思い出すまいとするように、伯爵は適当な本を手に取った。ぱらぱらとめくるも内容が頭に入ってこない。目に映るのは衝撃を受けたシモンの顔。痛みすら自覚できなかったであろう突然の侮辱。
伯爵は眉をしかめた。意識をはっきりとさせると本の内容も目に入った。
「なんだこれは」伯爵は憮然とした表情で呟いた。
『恋のおまじない辞典』――民間各地に伝わる恋の成就のためのまじないが、見やすいイラストとともに多岐に渡って記されている本だった。
伯爵はため息をついた。いくら世界各国の本を収集するにしても、こんな役に立たない、子供じみた本まで集めてどうする。
選別を行わなければならんな――ぐずぐすとした鼻をすすりながら、伯爵は品の良い仕草で元の棚に本を戻した。
雨はその日の午後(常闇ではあるが)に一度止んだ。
鬱陶しい雨の音がしなくなると気分が楽になったのか、伯爵の症状も少しやわらいだ。
しかし雨は再び降り始めた。激しい雷を連れて、ざんざんと古の城に降り注いだ。月のかたちも見えなくなるほどの真っ黒い雨だった。
なにもやる気がしなくなった伯爵は天守の棺桶に引きこもった。
忠臣である死神がせめてもと思い焚いてくれたペパーミントの香に包まれながら、絹のハンカチを何十枚も入れた棺でふて寝した。
眠れば少しは体の痛みや苛立ちもまぎれる。
鼻どころか頭も詰まったような感覚で、伯爵は棺の蓋をぼんやりと眺めた。
激しい雨だ。魔界の王が少し怯えを抱くほどに(彼はすぐにその感情を否定したが)あらゆるものの肌を震わせている。
金色の髪が暗がりに浮かぶ。あぁ、と伯爵はため息をついた。
思い返したいのはそんな傷ついた表情ではないのに。
自分の名前とともに届けてくれる、輝くばかりのほほえみを、この痛んだまぶたの裏に浮かべたいのに。
ふらふらとした頭で、伯爵はシモンのことを思い続けた。
ハンカチで鼻をかんでは、棺の蓋を爪でがりがりとひっかいた。
苦しくてやるせない。こんな不調は初めてだ。
この痛みはいつ終わる、彼はなぜわたしに会いにこない――。
そのうちに伯爵は眠りに落ちた。
闇の中で雨の音が大きくなる。
濁流に落ち込むような恐怖を覚えた。
黒外套がちぎれた翼のようにはためいて、きりきりと舞い、墜落していく自分。ごうごうとうなる流れ、待ち受けるのは恐ろしい冷気!
着水する瞬間に水の音はさらに激しく響き、彼の世界に広がった。
ある透明な光が射し込んで、新鮮な空気が頬に当たる。
目を開けると、月明かりに照らされた彼がいた。
不安と誠実さを表情にたたえた年若き狩人。
金色の房からひとしずくの水が落ちて、伯爵の額をぽつりと濡らした。「ヴラド」
すまないというように青年は伯爵の額を指で拭った。
激しい雨の中、わざわざここまで来てくれたのだろう。
なにをしに?
こうして頬をなでるために?
「眠っているとは思ったんだが――あまりに激しい雨なので、うなされていないか心配になって」
「怒っていないのか」
「なにを?」
そういう青年だった。
言葉につまる伯爵のかわりに、青年は「なかなか会いに行けなくてすまない」と謝罪した。
「ニンニクの群生地は、実を収穫したあと、あたりを焼いたよ。もう二度と生えてこないし、風で花粉が飛ぶこともない。今日、少しだけ雨が止んだから、苦労はしたが根を絶やすことができた。悪いとは思ったが、お前の体調を思うとな」
シャワーは浴びてきたし、ニンニク料理も食べていない。あれから日も経ったことだし、嫌な臭いはしないだろう? そう言ってシモンはほほえんだ。
なおも言葉を発しない伯爵の視線を気まずく感じたのか、シモンはなにげなくあたりに目線を移した。
ふと、目にとまるものがあった。
棺の蓋になにかが刻まれている。「これは?」
上向きの矢印を挟むように、ふたりの名前が書かれてあった。
ヴラド ↑ シモン
あ、と伯爵はようやく表情を震わせて、動揺したように目を大きく見開いた。
がばと身を起こした際に鼻水が垂れた。慌ててハンカチで拭い、きつく咳き込む。
背中をさする青年の手を大丈夫だというように下げさせて、伯爵は咳払いをしたあと、こう答えた。
「水難から守るまじないだ。その印を刻めば名前の主をあらゆる水の難から守ってくれる」
「こんな単純な矢印にそんな意味があるのか」
「……小さな屋根のようなものだ。わたしもこんな大雨の日には君の安否が気になってな。寝入る前に無事を祈って爪で刻んだのだ」
「そうか」シモンはいつもよりも喜びあふれる笑顔を向けた。目にすることはない太陽のようなほほえみだった。「ありがとう、ヴラド」
すぅと鼻が通る感覚が戻った。雨も激しさから一転、小止みになっている。風が吹いても目が痛まない。なにもかもを正常に直していく雰囲気を目の前の青年に感じた。明日になればきっと――。
「泊まっていかないか」強ばった表情の、緊張した声だった。シモンは眉を下げてこう答えた。
「雨も止んできたことだし、帰るよ。お前も本調子じゃないんだ、無理をしないでくれ」
「しかし――」伯爵はシモンを引き留めようとして、棺の縁を掴みながらこう言った。「礼をするから、ここに――」
「お前が元気になればそれでいいよ」静かにほほえんだあと、青年は立ち上がった。伯爵を勇気づけるようなしっかりとした力で、まなざしも清らかに。「夜分にすまなかった。おやすみ、ヴラド」
吸血鬼に言うにはおかしな挨拶をして、彼は天守をあとにした。
しばらくその後ろ姿を見つめたあと、城主は棺のふたを元通りにして、深い眠りについた。
心残りはあるのに、どこかに火を灯されたように、胸の上で組んだ手があたたかい。
目を閉じれば彼の顔が――輝くばかりの明るい笑顔がひりついたまぶたの裏に優しく浮かんだ。
翌日、シモンはラウンジで縫い物をしているところを風魔に話しかけられた。
「なんだそれは」と、マントの端に縫い付けたものを指してのぞき込まれたのである。
シモンは笑みを返しながら「水難から守る印だそうだ」と、得意げにそれを見せた。
きれいに刺繍されたそこには上向きの矢印の下にふたりの名前が、ヴラド、シモンと並んでいる。
風魔はおかしな顔をして、それをじっと見つめていた。
どうしたと聞くと、「いや」と口元を隠された。ふふっと笑っている。
「世の中にはそういうまじないもあるのかと思って――俺の知る世界では、それは名前を書いたふたりの仲を囃すための、いわばいたずら書きのようなものでな。第三者が目につくところに落書きするのさ。ふたりの仲をからかうために」
相合い傘と言ってな――風魔はなにも知らないシモンにそう告げた。そしてこんなことも、涼しげな目元で教えてやった。
「まぁ、囃す意味を知りながら自分で書いたのだとすれば――よほど相手のことが好きなのだろうと思って、つい、な。悪く思わんでくれ」
シモンは針と糸をしまった。熱の上がった目で昨夜のことを思い返す。
伯爵の動揺した顔、ごまかすように咳払いをしたあの態度。
どこで覚えたのか知らないが、しばらく会わない日にこれを彫って、彼はなにを思ったことだろう。自分に見られた時に、とっさに水難から身を守るためと偽った彼の気持ちは、想いの深さは。
シモンは腹の底から心が熱くなるようだった。実際に頬は染まり、たまらない気持ちがこみ上げた。顔を上げたその時に、ラウンジの入り口に黒い人影が見えた。伯爵だった。
シモンはマントを放り出し、伯爵のもとへ駆け寄った。
驚く伯爵にかまわず、彼の体を抱きしめてひとこと、想いをこめて名前を呼んだ。「ヴラド」
鼻をすすり、「シモン」と名前を呼び返す彼に向かい、青年は胸元でこんな言葉を繰り返した。「きっと治るよ、きっと――そのうちにきっと」
現実に、伯爵の調子は良くなっていた。
雨は止み、風は穏やかで、伯爵を悩ます花粉も今はない。青年が絶やしてくれたのだから、これ以降は良くなるほかに違いないのだ。
何日も交わしていなかったキスを雨のように降らして、シモンはまた、たまらないように伯爵の首筋に顔を埋めた。
伯爵も抱き返した。
あぁ、今はもう、ほとんどすべてが元の通りに――以前よりもずっと良いものに直ったのだと思いながら。
ラウンジの入り口で抱き合うふたりを見て、風魔はやれやれとマントに目を下ろした。
そして他の者の目につかないように、刺繍をした部分を隠すかたちに、きれいにマントを折り畳むのだった。
終
14/10/08(水)
相合い傘ネタはずいぶん前に考えていたので、今回ようやく書けてホッとしました。
甘々でもはやなにが悪魔城ドラキュラなのかわからない話ですが、まぁその、少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。