そう毎日会って退屈はしないかと、逢瀬を重ねるふたりの関係について何気なく尋ねられたことがある。話の種も尽きるだろうし、代わり映えのしない本の世界では新鮮さもなくて、顔を合わせれば気まずさが漂って疲れることもあるのではないかと。
「いいや、ちっとも」
シモンは意外だというように軽く笑ってそう答えた。
「あいつと会うたびに新しい体験をするんだ。ほんの些細なことだけど、それが私にはとてもおもしろくて」
どこにでも楽しみを見つける子供たちのように、確かにほんの些細なことが、彼らにはおもしろくてしょうがなかった。
いつもより風が強く吹いていたある日のこと。
古の城主のもとを訪れたシモンは、私室に入ったところで「目をどうかしたか」と伯爵に尋ねられた。しきりにまばたきをしては、下まぶたをいじるシモンを見て、伯爵は外の音に耳を傾けた。窓を揺らす強風が吹いていた。「目にゴミが入ったのかも」そう呟くシモンをソファに腰掛けさせて、伯爵は机の引き出しからなにかを取り出し、彼のもとに戻った。顔を上向けるように言うと、青年は素直に従ったが、目になにかを近づける伯爵を見て、驚いたようにその手をつかんだ。
「なにをするんだ」
「薬を差してあげようと」
「刺すって、目に?」
「そうとも。目薬と言ってな、未来に開発された便利な薬で、目の様々な症状をやわらげる効果があるんだ」
「そんなものを目に入れたらかえって痛みが増しそうだぞ」
シモンは伯爵の手に持つ小瓶の先を見て、いつになく取り乱した。差すという意味を取り違えたのか、先っちょで眼球をつつかれると思っているらしい。呆れず怒らず、ふっと息をついた伯爵は「よく見ていたまえ」と、自分に目薬を差してみせた。先端から透明な液体が数滴垂れて、伯爵の目を潤した。懐からハンカチを取り出して、仕草も美しく涙を拭う。痛む目でその姿に見とれながら、シモンは手を差し出した。怖いことは怖いが、手本を見せてくれたならやってみようという意思の表れだった。伯爵は薬を渡さずに隣に腰掛けてこう言った。
「はじめてでは難しいだろう。わたしがやってあげよう」
シモンはとまどいながらも待たせるのは悪い気がして、その膝におずおずと頭を乗せた。「あぁこれはひどい、真っ赤じゃないか」さぞ痛かったろうと囁きながら、伯爵はまぶたを押し広げた。そして点眼しようとしたのだが、思わぬ抵抗にあって、薬はシモンの鼻筋に流れた。尋常でない力でまぶたが閉じられたのだ。バレッタのバネが戻るような勢いでばちんと目をつむったシモンと、はじかれた自身の指を見て、伯爵はしばらく無言でいた。
「すまない」「シモン、君は治療ひとつ満足に受けられないのか」「わかってる。わかってるんだが、目になにかが迫ってくると思うと、どうしても」
焦らず慌てず。伯爵は閉じたままのまぶたに目薬を垂らした。怖がる子供向けのやり方だ。びくつくシモンに「ゆっくりと目を開けて、目薬をなじませるんだ」と説明した。これでも点眼はできるのだ。しかし青年は一筋縄ではいかなかった。薬を目に入れたら入れたで、まるで騙されたようにうなり、こんなことを叫んだのだ。「しみる! 毒じゃないのか!?」
目薬は清涼感の強いタイプだった。刺激になれない子供や老人向けではない。経験のないものならなおさらだったが、面倒くさくなった伯爵は「いい大人なんだから、我慢したまえ」とひとこと言ってハンカチを当てた。「第一、君に盛るわけがなかろう」
ゴミが流れるまで数回点眼を繰り返し――シモンはこわごわと目を開けた。
ぼやけていたが、まばたきをするうちに痛みは引き、視界は正常な輪郭を取り戻していった。「あぁ、ちゃんと見える」「よかったな」
感動を覚えたようにシモンは伯爵の手を取った。「ゴロゴロとした感覚もなくなって、すごくスッキリしたよ。ありがとうヴラド」
「よかったら持って行くかね」キャップを閉めた目薬を伯爵は目線に掲げた。シモンの視線は考えるふりをして拒否するように横に流れた。子供のとぼけかただ。伯爵はふっと笑い、年上の厳しさをもって宣言した。
「目薬を怖れなくなるまで練習しよう。刺激のないやつもあるからそれを使って――」
引き出しを探る最中にシモンはそっと部屋を出ようとしたが、退室寸前に瞬間移動をした伯爵にベルトを引っ掴まれて、抵抗もむなしくふたたびソファへと座らされるのだった。
バルコニーで三日月を眺めていたある日のこと。
城のまわりに広がる鬱蒼とした森を見渡して、シモンはぽつりとこう言った。
「この森の奥はどうなっているんだろう」
場所もそっくり同じように記録されているなら、森を抜けた先に町が見えるだろうか――そんなことを話す彼に笑いながら伯爵はこう言った。「見てみるかね」そして片膝をつき、肩に脚をかけるよう促した。肩車だ。少し背を伸ばせば遠くのほうまで見えるかもと提案したのだが、それは口実で、見えても見えなくともよく、ただ青年を肩で持ち上げる感触を楽しみたく思ったのだ。シモンは目をぱちくりさせて、とまどった様子で伯爵の背中を見下ろしていたが、せっかく誘ってくれる彼の思いを無下にはできず、ゆっくりとその肩に脚をかけた。ためらうように首に手をまわす。
「よし、いくぞ」
勢いよく持ち上げたのがいけなかった。場所も相まって、手すりを越える高さに驚いたシモンは、脚をきつくまわして伯爵の体にしがみついた。鍛え上げられた立派な太腿で伯爵の首を締め上げる。力みかたを気にかける余裕もなかったシモンは、バランスの悪いその位置で、必死に森の奥を眺めようとした。夜目は働くほうだが、高さがちょっと変わったくらいでは、遠くの景色はうまくつかめなかった。
「もっと高さがないと無理みたいだ。台にのぼればいいのかな?」
伯爵の頭に手をかけて、背筋を伸ばし、うんと首を上向けて遠くを見ようとするあいだにも、伯爵の顔色は月夜よりも青く冷たくなっていった。しかし伯爵は動じず、うめき声もあげずに、静かに青年の太腿を手で叩いた。その合図で伯爵の様子に気がついたシモンは、「すまない」と慌てて謝り、脚の力をゆるめた。
降ろされるあいだに乱れた髪の毛をなでつけて、心配そうに伯爵を見つめる。その視線が見上げる位置にまで立ち直った伯爵は、うぅんと控えめに咳をして、こう言った。
「どうだ、遠くのほうまで見渡せたろう」
太腿で耳を塞がれてシモンの言ったことがわからなかったらしい。
まるで父親のような気持ちで肩車をしてくれた伯爵のことを思って、シモンは「うん、とても――きれいだった」と、嘘ではないことを言った。青い夜空と黒い森は古の空気と静かに調和し、美しい景色となって青年の目に澄み渡った。伯爵は満足したように首をなでた。締め上げられてしまったが、首や肩に残る感触は快いものだったらしい。シモンは安心したようにほほえんだ。
「大人になってから肩車をされたのははじめてだ。すごく懐かしかったよ」
ありがとうと呟くシモンを、伯爵はやさしい目で見つめながら、その身を抱き寄せた。青年はまばたきをしたあと、やわらかくほほえみ、伯爵の胸に頭を寄せた。長い腕の中は力強く、安心感に満ちていた。頬に触れる高い鼻。こめかみの近くで小さく咳き込む声を聞いて、シモンは眉を下げながら、どうしようもなく嬉しそうに伯爵を抱きしめた。
たっぷりと愛し合ったある日のこと。
一緒にお風呂に入ったふたりは、互いの手で身を清めたあと、広い湯船に浸かって、肩や胸にお湯をかけあって遊んでいた。戯れる途中で、ふとなにかを思いついた伯爵は、水面で手を組み、それを勢いよく閉じた。お湯がぴゅっと飛び出し、シモンの顔に命中した。わぁと驚き、顔を拭って、それはなんだとシモンが尋ねる。「最近発見したんだ」伯爵は得意げに手のひらでお湯を捕まえ、小さな噴水をシモンに浴びせた。自分もやってみようと伯爵の指のかたちを真似たシモンは、その手を見て、ふと、ある武器のことを思い出した。
「蒼真の武器のハンドガンみたいだ」
手元からなにかが飛び出す形状が未来の武器とよく似ているとシモンは語り、それを聞いた伯爵はほうと感心したように顎をなでた。「ハンドガン、つまり銃だな。鉄砲とも言うな。ふむ」
鉄砲、鉄砲と何度か繰り返した伯爵は、インスピレーションを得て、喜びながらシモンにお湯を命中させた。「これを水鉄砲と名付けよう!」
わぁきゃあと水鉄砲でお湯のかけあいを楽しんだふたりは、さらに伯爵の提案した新たな遊びに夢中になった。ハンドタオルを湯船に漬けて、水面にわずかな隙間を残し、端を水中に引っ張ると、タオルは丸くふくらんで、細かい泡をいくつも生んだ。その形状と音がおもしろくて、ジュワーッと泡を立てて沈む様子を見ながら、伯爵はにこやかにこんなことを言った。
「海にはこれに似た生き物がいるそうだ。クラゲと言ってな、丸い傘でふよふよと海中を漂っているんだと」
「それじゃあこの遊びはクラゲと名付けよう。お前は新しい遊びを次々に発見する天才だな」
ふたりとも現世では湯船に浸かるという機会がほとんどなかったがゆえの興奮だった。ありきたりの遊びでも新発見をしたようにそれに夢中になったふたりは、熱い湯船のなかでぱしゃぱしゃと指がふやけるほどに戯れた。そして興奮に一区切りがついたころ、シモンは小さく笑って伯爵の胸にそっともたれた。充実した表情で広い浴室に声を響かせる。
「お前と一緒にいるといつも新鮮な体験をさせてくれるな。たわいもないことかも知れないが、お前とならなんでも楽しめる気がするんだ。きっとお互いに経験が浅いから、何気ないことほど、貴重ですばらしいものに感じるんだろうな」
シモンは伯爵の胸になめらかなお湯をかけながら、うっとりとした心地で肌をなでた。あたたかさに感じ入るように瞳をとじる。
「こうして肌に触れるのも、最初はとても緊張して……愛し合ったのだって、お前とがはじめてで……」
いとおしい囁きを受けた伯爵は、シモンを抱き寄せて耳にキスをした。枕辺で交わした愛の吐息を感じ取り、伯爵は静かな水音を立てて、シモンを愛撫した。背中をなでて、尻をさすり、またキスをする。甘いついばみはそのまま深く愛し合うものに変わるかと思われたが――シモンはずるずると伯爵の首筋に顔をうずめた。全身の力が抜けている。ハッとして伯爵が青年を抱き起こすと、シモンの目はあらぬところを向いていた。
はじめての湯のぼせだった。
ベッドまで運ばれたシモンは、腋の下や足首に氷嚢を巻かれて、伯爵が仰ぐ扇の風を浴びながらぐったりと横たわっていた。うわごとのように「すまない」と繰り返す。伯爵は青年の頬に自身の冷たい手を当てた。
「気にするな。気遣えなかったわたしも悪い」
入浴の、特に湯船での経験が浅いがゆえのアクシデントだった。
伯爵の献身的な介護により、めまいがいくらかやわらいだシモンは、ゆらりと手をあげて彼を求めた。その手をしっかりと握り、伯爵は青年に声をかける。
「シモン、まだまだ君としたいことはたくさんあるんだ。今度、竜に姿を変えたわたしの背に乗って、一緒に空の広さを確かめよう。森の奥も、この世界の果ても見渡せるぞ。わたしにしかできないことを、君だけに見せたいんだ。いいか、君だけにだぞ。だから早く、元気になるんだ」
ふふっと嬉しそうにほほえんで、シモンは伯爵の手を握り返した。楽しみにしているという返事だろう。その思いを受けて、伯爵もほほえんだ。青年に水を飲ませて、扇で仰ぎ、ゆっくりと眠りにつかせる。退屈など感じたこともない、かけがえのない相手に、やさしいまなざしを注ぎながら。
夜は深々と更けていく。
終
15/09/14(月)
いつもどおりツイートでのネタをまとめました。
たわいもないことがうんとおもしろいドラシモ、良いですよね。