Sympathy

 たんたたん、たた、たんたんたん。

 巨大な鍵盤の上で幼い女の子が軽やかに跳ねている。
 ふわり、ひらり、薔薇のふくらみを思わせるピンクのスカート。
 珊瑚色の旋律を弾き終えたとき、空中からなにかが落ちてきた。黄金(きん)に輝く王冠だった。
 少女は大きすぎる冠を頭にのせて「ね?」と、部屋の上段で眺めていた青年に笑いかけた。
「本当だ」とシモンは静かに微笑みを返した。
 スカートの端を両手でつまみ、ちょんと片足をつけてお辞儀をするマリアへ、おしみない拍手を送る。

 人形使いが支配する世界は、複雑怪奇な悪魔城のひとつとして、一冊の本に記録されていた。
 鉄の処女という陰湿きわまる罠をはりめぐらせる奇怪な支配者とともに、その巨大な鍵盤は世界の中央に据えられていた。

 遊戯場のように設置された鍵盤の上で一節のメロディを奏でると、どこからともなく金の冠が降りてくるという。
 不思議な現象に興味をもった青年のために、マリアはともにこの場を訪れて、白から黒へと場を変える可憐なステップを踏んだ。
 この幼くも勇敢な少女がなぜ自分をここまで導いてくれたのか、シモンは奏でられたメロディを耳にして、その意味を知った。マリアの唄う聖歌と同じメロディなのだ。魔を滅ぼす聖なる楽曲。喜びのように現れる金の冠。
 シモンは聖歌についてマリアに尋ねた。

「詳しくはわからないけど、シモンさんの時代に作られた聖歌なんだって」

 カーミラという女吸血鬼がこの世にある悲劇という悲劇を伝えた旋律だというが、その哀しみはむしろ人間を鼓舞させて、魔のものどもを滅する力を宿すようになった。運命的な響きは長い年月によって浄められ、神秘の旋律として生まれ変わった。純一無雑な乙女が唄えば、邪な存在を近づけさせぬ聖なる歌声として、七色の波を空気に伝える。

「別れをテーマにしてるって、リヒターお兄ちゃんが教えてくれたの。親しい人との別れがこの世で一番の苦しみだからって」

「親しい人?」

「女吸血鬼は自分のために唄ったわけじゃないって。主のため、あの伯爵のために作った曲じゃないかって、お兄ちゃんは言ってたよ」

 王冠を片手で押さえながら、マリアは花と花とを渡る妖精のように聖歌を刻んだ。

 たんたたん、たた、たんたんたん。

「別れた相手とは?」

 よく知らないけど、とマリアはその先のメロディを軽々と弾きこなしながらこう呟いた。

「奥さんなのかもしれないし、友達だったのかもしれないね」

 別れの曲。別離の曲。
 シモンは上段から脚だけをぶらつかせながら、マリアの言葉に思いを馳せていた。

 古の悪魔城にて。
 同時代に対峙したふたりが、鞭も構えず、火の玉を放ちもせず、天守からのぞく窓辺で、夜風に吹かれていた。

「マリアの聖歌を知っているか?」

 マリア? と伯爵が青年を見た。
 シモンは手すりから片手を上げて「あの勇ましい、金髪の小さな女の子がうたう歌だ」と説明した。
「ああ」と伯爵はその人物に思い当たったように「鳩をけしかけてくる小娘か」と苦々しく答えた。シモンは苦笑した。

「Bloody Tears――血の涙というそうだが、知っていたら詳しい由来を聞きたいと思ってな」

「聖歌など耳にしたくはないし、曲名を聞くのもごめんだ」伯爵は言下に切り捨てた。が、すぐに「聞きたいと言われても、記録した音源も書物もないしな」と、できうるかぎりの返事をした。シモンは続けて苦笑し、申し訳なさそうに眉を下げた。

「すまない。そうだな、お前たちにとっては苦痛でしかない旋律だろう。忘れてくれ」

 そうと言われて引きさがれる性格ではない。
 伯爵は、「なぜ聖歌に興味をもつ」と当然の疑問を口にした。
「別れを唄った歌だと聞いて」とシモンは答えた。

「私の時代に作られた歌らしい。歌といっても歌詞は消失して、曲だけが今に伝えられているのだが」

 ほう、と伯爵は顎をなでた。
「興味深い話だが、しかし、やはり旋律を耳にするのは――苦痛でな」

「だから、いいんだ。いやなことを思い出させて、すまない」

「他の曲は――」公は彼の夜風になびく金色の髪の毛を梳いた。その必要はなかったが、どこか、ためらいながらの提案だった。「別れを主題にした曲ならいくらでもある。音源も」

 シモンは髪の毛を指先で梳かれるまま、小首を傾げた。

「さきほどから記録した音源と言っているが、音など記録できるのか。音が流れる魔法みたいな楽譜でもあるのか?」

「CDプレーヤーだ」蓄音機ですらなかった。「演奏した曲を記録できる媒体と、それを可能なかぎり再現できる機械があってな……機器の性能や環境次第で、実際に歌劇場にいるのと大差ない音楽鑑賞ができる」

 魔法以上に想像を超えた世界が広がり、シモンは困惑の表情を浮かべた。
 同じ時代に生きたのに、自分だけが置いてけぼりを食わされた感じだった。

「そんな……そんなの、どこで知ったんだ」

「蒼真とかいう小僧と同じ時代にいた息子から色々と」
 臆面もなく情報源を明らかにした伯爵は口ひげをなでながら未来の最先端機器について話しはじめた。
「手のひらに乗るほどの薄型の機器で千もの楽曲を楽しめるというしな……息子よりものを知らぬのは気分が悪いから、やつらの時代の音響設備を城に設置してみた。君さえよければ、別離を主題にした楽曲をいくつか聴かせてやるが」

 話を聞いていてもわからないので、シモンは誘われるままに、伯爵の秘密のオーディオルームへ行くことにした。

「魔法じゃないのか」
「機械だ。科学の結晶というか、道具と同じだ。魔力は働かぬ」
「すごいな。それを理解できるお前もすごい」
「あとで使い方を教えてやる」

 君ならすぐに扱い方を覚えられるだろうと、秘密の通り道を抜けるさいに、壁に言葉を響かせて、ふたりは地下へと降りていった。

 防音対策もしっかりとした重々しい鉄扉のむこう、高級感あふれる繊細な機械を操作する伯爵という画を、シモンはぱちぱちとまばたきをしながら見つめていた。
 伯爵は音量調節や綿密なイコライザを設定しながら「そこの中央の座席に着きたまえ」とシモンを促した。

 席に着く前にシモンは尋ねた。「なにを聴かせてくれるんだ?」

「ここへくるあいだ、色々と考えたが」伯爵は一枚のディスクを機器に挿入した。「グスタフ・マーラーの『大地の歌』――君の時代からおよそ3世紀あとに作られた曲だ」

 そういって手渡したのはライナーノートだった。
 曲の解説はもちろん、唐詩を自由に組み合わせ、ドイツ語に訳された詩への対訳がついている。
 最終楽章に『Der Abschied――告別』とある。

 体をすっぽりと包み込む上質の天鵞絨の席に腰掛けて、ふたりはホルンによる壮大なはじまりを告げる曲を鑑賞した。
 もっとも、最初はどこからともなく響いてきた迫力ある音にシモンの全身がびくついたが――伯爵は目線で「おちつけ」と合図をし、青年の手を握りしめた。その感触からか、未知のものへのとまどいからか、青年は頬をかすかに染めて、ふたたび、ゆっくりと座席に身を沈みこませた。

 テノールとアルトの独唱が第六楽章からなる宇内を交互に導いていく。
 酒宴、晩秋、青春、美、陶酔と別れ。
 人は命の終わりを迎えるが、大地は永遠に生まれ変わり、その輝きは世界の果てまで続いていく。
 風が吹き渡り、あらゆる事物に意味を与える。虚無はなく、無常を思い、人は終日を歌い上げる。
 鷲の目をもつように、音楽は裾野の先へ、果ての果てまで響き渡る。
 のびやかに、厭い、立ち尽くすように。

 Er sprach, seine Stimme war umflort:
 Du, mein Freund,
 Mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold!
 Wohin ich geh’? Ich geh’, ich wand’re in die Berge.
 Ich suche Ruhe für mein einsam Herz.

 (私は愁いを帯びて口を開く。
「友よ、
 この世に私の幸福はなかった!
 私は一人淋しく山にさまよい入る。
 疲れ果てた孤独な魂に永遠の救いを求めて」)

 夜闇に消えゆくような絶唱のかなた、すぐ隣でかすかな雫の音がした。
 伯爵が見ると、青年のたくましい胸に涙が落ちていた。
 言葉もわからぬであろう年若き狩人が、女性アルトの『永遠に』という響きに、頬を濡らしていた。

 一時間弱の演奏が終わった。
 大きな手のひらで涙を拭う青年に対して、公は視線も移さずに「泣くほどのことか」と呟いた。
 シモンは気を取り戻すように小さく鼻をすすり、ライナーノートを読み返した。指先で第六楽章の歌詞をなぞり、意味をかみしめようと追念に汗を落とす。心が揺れた場所、おそらくここだという部分を何度も確認しながら、黙して、涙をにじませた。

「気分が沈んだか」
「そうじゃない。ただ」

 シモンは目尻を親指で拭った。
「ただ、この世に幸福はなかったと話し、別れを告げる男のことを思うと」
 公はしばらく黙り、訳をよく見ろといわんばかりに、傲岸不遜に言い放った。

「友に告げたのだろう」

 そのような存在がいて、幸福ではないか。

 は、とシモンは隣を向いた。
 導きの手を引かれたように顔を見上げる青年と、沈黙する機器のむこうを見つめているひとりの男がいる。
 口ひげのかたちが決まらないというような、心地の悪い椅子に座っているというような、むすっとした表情の男が、腕も脚も組んで、真正面を向いている。

 別れの曲。別離の曲。
 ピアノの音が聞こえてきても、青年はそれを悲劇とは思わずに――無垢な少女が唄うように――崇高な旋律として力に変えるのだろう。
 自分が別れを告げたのは、この男となのだ。

「そうか。そうだな」シモンはライナーノートを静かに伏せた。「そのように気づかせてくれる男が、私にもいたな」

 すばらしい音楽も聞かせてくれるし、とシモンは隣に向かって嬉しそうに微笑んだ。
 誰と重ね合わせているんだとその表情は語っていたが、公はなにも言わずに、青年から手向けられた賞賛の言葉を、至極当然のように受け取っていた。
 悪い気はしない。そんなふうに息をついて。

「操作を覚えたいか?」
 伯爵は長い爪を音響機器に向けた。
「ぜひ」

 よし、と伯爵は腰を上げた。
 青年に機器の操作を教えるその動作は、指のひとさし、声の張りのひとつひとつに、それらに応えるものへ向けての、隠しようもない喜びが表れていた。

 終
 12/09/17(月)

 聖歌のメロディがBloody Tearsだと知って、色々と妄想を膨らませた話です。
 悪魔城ドラキュラトリビュートVol.1のBloody Tearsの雰囲気が好きでして、あの渦のなかに落ちていくようなアレンジ楽曲を、もっと聴いてみたいなぁと思いました。
 現代機器を操作するメカに強い伯爵というのが書いていて楽しかったです……。

 文中の訳詩の引用元
 『マーラー:交響曲《大地の歌》
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ワルター(ブルーノ)』 所収