春の季節が終わった。
つづいて、壁紙に夏の光景が映し出された。
トランシルヴァニアの山稜と広大な森、そしてのびやかに風渡る平原が、緑影をきらめかして、若い命に萌えている。
盛夏の季節はそれらを観覧する城主と年若い狩人の目の前で霧のように細かくかすみ、その季節を一変させた。秋である。夕暮れの空と朽葉色の大地が室内を眩しく照らす。斜陽による刺激に目がなれたころ、壁紙はふたたびかすみ、白銀の世界に移り変わった。
「室内で四季を見られるなんて」
いいものだな、とシモンは隣に座る伯爵に笑いかけた。そのほほえみを受けて、伯爵はソファに肩肘をついた。妙につまらなそうな顔をしている。
「まやかしだ」
「そうだが」
「こんな幻影を見せて動揺させようとするなんて、悪魔城の城主とはやはり人の心を惑わす忌まわしき存在だ――そういった反応をするものと思っていたのだが」
過去に何度も繰り返した戦いの記憶のなかで、狩人はこのようなまやかしを見せる一角に侵攻したことがあった。奥には伯爵の腹心である死神が待ち受けていた。聖鞭を携えた青年が歩みを進めるたびに、この壁紙は少しずつ破れ、剥がれ落ちていった。まやかしを打ち破る強さをそなえた狩人という勇ましき雰囲気が、今の青年には微塵も感じられない。戦いとは関係のない状況で、この景色の移り変わりを楽しんでいる。
「つくりものの景色を眺めるなんて情緒に欠けるやつだとかなんとか、眉をひそめそうなものだが」
「逆だろう、それは」シモンは不思議そうに伯爵を見つめた。「そのものに情緒があるからこそこうした景色を楽しめるのではないか。実際に五感で得られるものしか良しと認めないなんて、情緒云々というより、想像力に欠けている」
伯爵はふっと視線をずらしながら笑った。「まぁ、実際にこんな土地へ赴けば厳しい環境が待っているだけだからな」
「そう、そうなんだ。あの場所は空気も冷たくて、乾燥しているのだろうな。見ていてほんとうに喉の乾きや肌の痛みを覚えるから、眺めるだけで充分という気になってくる」
腕をさするシモンを見て、伯爵はふ、ふと肩や喉を震わせた。感じ方が素直すぎておもしろい。下手をすれば愚か者に見えかねない感想を伝える。ただ、その思考は心の飛ばし方を知っている。実際を知ったうえで、空想も楽しめる余裕を持っている。強さがなければ、死闘の地を思い出させる物品を前にして、あんな言葉は出てこない。
「映し出される景色は、これだけか?」
ん、と伯爵は追憶にふける姿勢から顔を上げて、「いや」と壁紙を眺めた。
「他にもある。が、見せられぬ」壁紙を見つめていたシモンは、そのうっすらと細まったまなざしに気がつかなかった。「君にだけはな」
シモンは横を向いた。闇を前にしての不安げな表情を浮かべていた。
「――美しい景色なんだろう?」
伯爵は顎をなでて、ふっと息をつき、「まさか」と答えた。
「君が見たらおぞましさに卒倒するか、目を覆いたくなるほどの哀れみを覚えるか、そのどちらかといったような内容だ」
静けさは変わらない。声も落ち着いたものだった。
シモンは眉をひそめた。隣にいるのは魔王と呼ばれる男だ。
串刺し公、伝説の吸血鬼、苛烈かつ壮絶な存在感を力によって世にしらしめてきた古の城主。
「そんな、人に見せられない光景をいつもひとりで眺めているのか?」
「そうだな」
「いったいいつから」
「復活を繰り返すたびにこの壁紙は城の一部としてしつらえてきた。過去も現在も関係なく、見たいものを見られるのでな……」
腰に絡げていた聖鞭がかすかな響きを示した。腿がしびれを覚えた。
春に戻った光景に幾筋もの横線が走った。ナイフで切りつけたかのような灰色の隙間が壁紙に映し出される。
立ち上がった伯爵のもとへ羽音が近づいた。バルコニーから飛んできた一匹のコウモリが、公のすぐそばではばたいた。
「城門近くで魔力の変動が起こったそうだ」
やはり時代の異なる物品を作動させると、処々に無理が生じるようだな――彼はそう呟いて、外套を翻した。
バルコニーから大型の翼をひらめかせて、コウモリとともに、異変の起こった場所に飛び立っていった。
シモンはひとり残された。魔力の変動が聖鞭によるものだとは伝えられないまま、ソファの前で立ち尽くした。
頬にかかる光量に変化が起こった。
振り返ると、そこには月夜が広がっていた。三日月だった。
湖にかこまれた小さな島で、海色の草が夜風になびいている。星がまたたく黒水晶のような夜に、木陰で寄り添うふたりの人影があった。ひとりは宵の美しさをまとったような気品ある姿の伯爵であり、もうひとりは木綿の服とブレを身につけている純朴そうな青年――シモンだった。
ふたりは穏やかに話をしていた。
互いの声を頬に受けるあたたかな風と感じているように、その微笑は幸福に満ちていた。
時折、公が湖を指さしては、波紋の立つ水面を見て、なにごとかを囁く。青年は笑う。
お礼のように、シモンは遠い星空を指さして口を開く。星の名前や、それにまつわる話を聞かせているのだろう。
興味深いように青年の指さすほうを眺めて、公はなにかを尋ねる。彼はよどみなく答える。笑いあう。
言葉を交わすたびに深まる敬慕の念。
一緒にいられることが楽しいと、彼らの存在すべてがそう物語っている。
安らぎの空間へ木の葉が一枚降りてきた。
青年の鼻にさっと落ちたそれを、公は手ではなく、自身の高い鼻でくすぐるように払いのけて……。
頬に寄せられる手を感じたように、壁紙の光景を見つめていたシモンは、そっと顔に触れた。涙がこぼれていた。
この光景に覚えはない。
伯爵の言葉が胸のなかで繰り返された。
“君が見たらおぞましさに卒倒するか、目を覆いたくなるほどの哀れみを覚えるか”
シモンは涙をこらえるように手のひらで口元を覆った。
(そんなことを思うわけがないじゃないか)
“復活を繰り返すたびにこの壁紙は城の一部として……”
(ただ、逢いたかっただけなのだから)
実際にはなかったこの光景を、自分にだけは見せられぬこの情景を、彼は心の慰めにして――。
翼のはばたく音が聞こえた。
目の前の思い出にひびが走った。
バルコニーに影が降りると同時に、布の裂ける音を残して、壁紙は一瞬にしてはじけ散った。
まるで、主人に恥をかかせぬように。
シモンは目元を拭った。
室内の惨状を見て、伯爵は「やはり、魔力の干渉が原因か」と呟いた。
衝撃で怪我はしなかったかと青年に尋ねると、彼は「あぁ」と言葉短に答えた。
「もう帰りたまえ」
見るものはないのだからという声音だった。
シモンは振り向き、バルコニーから月を見上げた。三日月だった。
「なぁ」
外へ行かないかと青年は声をかけた。どうしても一緒にいたいというまなざしで、普段の遠慮がちな姿勢は一切見せずに。
伯爵は片眉を上げ、小首をかしげた。その表情はかまわないがと語っている。
「星が見える場所まで行こう」
あれとそっくり同じ光景はないだろう。
しかし、今だけは。
月明かりに照らされるふたりの姿が壁紙に映る景色よりも幸福であるように。
祈りをこめて、シモンは伯爵のやわらかな手を取った。
終
12/10/30(火)