ふたの開いたガラス瓶がある。
ライドウの机に転がるそれは中身がなく、内部と口の部分にべとべとした黄色い粘液がこびりついていた。異臭はしないものの、見た目は大変汚らしい。
ベッドで頭を抱えているライドウは応接室の声に気がつかなかった。
ノックのあと、扉が開いた。
「どうしたんだよ」
珈琲豆を買ってきてくれとライドウにおつかいを頼むつもりでいた鳴海は、その妙な空気をのぞき込むようにドア越しから声をかけた。
ライドウは顔を上げた。いつもの精悍かつ整った顔立ちはそのままだが、眼差しが暗い。鳴海を認めると「どうしました」と聞き返した。鳴海は部屋に入った。
「それは俺が聞いてるの」
「少し。落ち込んでいたのです」
「見ればわかるけどね。うん、それはわかるんだ」
「そこの蛙が逃げ出して」
指さす方向に瓶があった。
黄色い汚液は瓶の口から机や床にまで及んでいる。
口を横に引き延ばして鳴海は「うわー」と言った。
「なにこれ。いじめ?」
「川から拾ってきたんです」
「その、拾った蛙を瓶の中で飼ってたの?」
「元々瓶の中に入っていたんです。川面がきらりと光ったので、見たら蛙入りの瓶がぷかぷかと浮かんでいて――嫌がる仲魔に『取ってきてくれ』と頼んで、数日前に持ち帰ったのですが」
「その悪魔に同情しちゃうなぁ」
「おかげでピクシーに口をきいてもらえなくなりましたが、それもしばらくの間でした。彼女が口を挟まずにはいられないほど、僕は毎日、飽きもせずに瓶の中の蛙を眺め続けていたんです」
変なところで子供っぽいというかなんというか――鳴海はいつかオオクワガタをプレゼントしてやろうと心に決めて、話の続きを促した。彼はもうライドウの隣に腰掛けていた。
「水の詰まった瓶の中に、それは時たまきょろきょろと目玉を動かして、生きていました。口から吐き出すあぶくと共に、狭い水中に浮かんでいたのです。しっかりとふたが閉められた状態で目玉を動かし生き続けているこの生物はいったいなんだろう。とるものもとりあえず、僕はドクター・ヴィクトルのもとへ赴きました」
瓶を片手に銀髪の科学者は「調べたいのは山々だが」とライドウに向き直った。
「ふたも開けられぬ、瓶も割れぬというなら我が輩もお主以上の見当はつかん。
こいつはこういう生き物だと理解して、いささか不細工だが、鑑賞の足しにしたらどうだ」
手術台の上には、大小の金槌やペンチ、その他もろもろの圧縮機が転がり、小型レーザー機器まで奮闘した跡が見られた。が、そのどれもが蛙入りの瓶に歯が立たなかった。傷ひとつ付かなかった瓶を顔の位置に持ち上げてライドウは「魔法かな」と呟いた。
「うん?」
「魔法でガードしているのかも」
「開けられないように? ばかばかしい、誰がかように不細工な生き物を魔法をかけてまで守るというのだ」
「蛙自身が身を守るためとも考えられる」
「葛葉よ。お主の空想につきあっている暇は我が輩にはこれっぽっちもない。
いい夢のタネを拾ったと思ってさっさとそれを持ち帰るがいい」
「いやに不機嫌だ」
「我が輩の研究に非協力的なやつは好かん」
「……開かずにすんで良かったかな」
レンチが飛び出しそうになったので、ライドウはすたこらと瓶を抱えて金王屋を出た。期待はずれの足取りに黒猫がついていく。
『元の場所に戻したほうが賢明だぞ』
「川の中に? せっかく拾ったのに」
『いらんものを抱え込むなと言っている。お前の言うとおり、まじないのかかった品なら持っているだけで不運が舞い込むぞ』
「一度根こそぎ運を食われても大丈夫だったけど……でも、そうだな」
お払いはできないかな、とゴウトに尋ねた。
『ヤタガラスの使いがそんなわけのわからんものに清めの力を使うと思うのか。お前を止めなかったら、我がどえらく怒られるわ』
結局、捨てることをしぶったライドウは、ヴィクトルの言うとおり、観賞用として机の上に置いた。
最初は「気持ち悪い」とそっぽをむいていたピクシーも、ライドウがいつも瓶を気にかける様子を見て、いつしか口を挟むようになった。
「そいつ、背中ばっかり見せてるね」
勉強机に向かっていたライドウはちらりと蛙の視線を見て、ピクシーから顔が見えるよう瓶をまわした。「いいのに、見せなくてもー」と、イヤそうな声がした。
宿題を進めるうちにふと顔を上げると、蛙が背中を見せていた。まんまるの黒い目は窓のほうをじっと見ていた。もとの角度に瓶をまわしても、教科書を閉じるころには、視線は窓のほうを向いていた。
「窓から逃げ出したかったのかもな」
鳴海が軽い感じでそう言うと、ライドウは感嘆したようにため息をついた。
「鳴海さんはすぐにおわかりになったんですね。僕はなにも気がつかなかった」
いつもそうだったという。ベッドや扉のほうを向くよう瓶を直しても、ふと目を離したすきに蛙は窓辺を見つめていた。
「ねぇ、こういうハナシ知ってるよ」星の砂を思わせる羽根音をきらめかせ、ピクシーの唇がいたずらな話を紡ぐ。「王子様がカエルにキスをすると、カエルにかけられた呪いが解けて、お姫様になるの。ふたりは結ばれてメデタシメデタシ。
ね、ニンゲンもやってみたら? 王子様って呼ばれてるんだしさ、瓶ごしでも効果があるかも」
ベッドの上で丸くなっていたゴウトが顔を上げた。
『それは蛙が王子様で、呪いを解くのは姫君だ』
「えー、そうだったかなー」
ゴウトは物知りだ、そう思いながら瓶をちらりと見る。
話に夢中で誰も注意を向けていなかったのだろう。中の蛙は窓を見つめて、あぶくを吐いていた。
ある天気の良い日、ライドウは窓を開け放して学校へ行った。
意味するところをなにも知らないままだったが、蛙の視線がそうさせたのかもしれなかった。
硬いふたは瓶のすぐそばに転がっていて、中の蛙は消えていた。黄色い足跡は開けた窓に続いている。蛙がいた痕跡は窓枠を越えたところで終わっていた。
川の流れが眩しい。
「帰りたがっていたのだ、そうわかったとき、すぐに下まで降りました。銀楼閣のまわりを探したものの、黄色い足跡も、緑の体も、どこにも見つけることができませんでした」
うつむきながらぽつりと「死なせたかも」と呟くライドウを後目に、鳴海はベッドから腰を上げた。窓辺に寄り、件の川面をゆっくりと眺める。
(なんだ、そういうことだったのか)鳴海はたばこを吸いたくなった。
急に出て行ったと思ったら、浮かない顔をして部屋に戻って。
声をかけても返事がないから、妙に気を遣ってしまった。
珈琲豆なんてまだまだ底が尽きないのだ。
「まぁ、瓶のふたをこじあけるほどガッツのあるヤツだったんだし」視線を感じた鳴海はどうでもよさそうに頭を掻いた。「そう簡単には死なないんじゃないの?」
外に向かって呟いた。そしていかにも汚いな、というふうに、どろどろの黄色い液体へ眉をしかめるのだった。
雨脚も静かな買い物帰り、川面でラムネ瓶に詰まった蛙を見かけた。
行きたいところを行くように、ぷかぷかと水に浮いている。
ライドウがじっと見つめていると、中の蛙はふいと体を動かし、背を向けた。
見ていようが、見ていまいが。
ライドウはなにかを言いたそうに傘の下で佇んでいたが、ピクシーの「拾おうか?」という声に、無言で首を振り、探偵社へと帰っていった。
終
11/05/26(水)