ミルク味のキャンディをコロコロと舐めていた。
「はい、おみやげ」と、ある祝日の由来と共に鳴海からプレゼントされたものだ。
子供扱いをされるのが嫌だったのだろう。
だからといってルールも守らず、いたずらを仕掛けたあの日のやりようを肯定する気にはとてもなれない。
もしもあの時手を伸ばしていなければ、つかまえようとしていなければ、こんな怖さを味わうこともなかっただろうから。
「鳴海さん、白髪が」
「え」
ぷつ、と抜いたものを見せると、彼はかすかな痛みが残る頭皮をさすりながら大げさに声をあげた。
「うっそ、俺にそんなもんが生えてたのかよ」
「鳴海さんくらいの齢の方ならば普通のことでは」
「普通じゃねぇよ。そこいらのおっさんと一緒にするな、ライドウ。
……しかしうかつだったぜ、この長さから推測するにこいつは毎朝のチェックまでくぐり抜けて今の今まで俺の魅惑のてっぺんに」
「鳴海さんのチェックというものは案外ずぼらなんですね」
「なんだよその言いぐさ」
「だってまだありますもの、この長さと同じくらいの白髪が密集して」
「抜け! いやさ、抜いてくれライドウ!」
「毛染めのほうが早いかと」
「俺のこの蠱惑的な栗色の髪の毛をうそもんの黒に染めろってのか!」
つかまったのはいいが、いささか口調といい態度といい、じたばたが過ぎる。
少年はチェアの後ろに回り、ぐいと両の手で彼の頭を押さえた。
「ここで抜きますか」
「立ちんぼうはかわいそうだな」
互いの膝枕に寝るのは慣れている。
ソファはからっぽ、だから当たり前のように寝転がる。
鳴海は細くとも筋の確かな少年の脚に件の蠱惑的な頭を乗せた。
もじゃっという感触に少し眉を寄せる。そんな表情を彼は見なかったことにする。今にも鼻歌を歌い出しそうな顔だ。
対してライドウは不愉快そうに唇をとがらせる。
秋空の一幕、夕焼けがまぶしい。飴玉は溶けきり、喉の奥に消えた。
ちりちりとした白髪を五、六本も抜いた頃だ。ライドウが口を開いた。
「久しぶりですね、こういうの」
「お前、この頃俺のこと避けてたからな」
「プレゼントを渡したのもこの為ですか」
「うまく乗ってくれたよな」
「つかまえたのは僕のほうです」
「勝手に思ってろ。言いたいことあるんだろ、聞いてやるから話せよ」
「そういう自信家なところが嫌いなんです。こっちの調子を崩して自分が主導権を握ろうとする、あなたの悪い癖だ」
「お前こそ狙ってやってるような行動が多すぎるんだよ。 『僕なんにも知りません』 みたいな顔して、かき乱そうとするところはきっちりと罠にはめてきやがる。どこで覚えた、そんな癖」
「あなたと暮らしていたら自然とこうなったんだ」
「いーや、お前さんは元から腹黒いところがあるんだよ。保証するね、俺より小賢しく立ち回れる立派な探偵になれるよ、お前」
鳴海が短い悲鳴を上げた。
頭皮をさすって恨みがましくライドウを見上げる。涙目の前に一本の白髪。よれている。
「ほら、見ろ。わざと痛く抜きやがって、しかも毛根からじゃない、途中でちぎるように引っ張っただろ、お前」
「話を聞くと仰ったのでは」
「わかったよ。続けろ、でも白髪がなくなったらそこで終わりだからな」
「承知致しました」
少年はちぎった部位を指先で撫でた。少し赤みが差していて、熱まである。悪いなと思ったか、眉をわずかに下方へ傾けた。
横を向いている彼がその表情を瞳に収めることは、これから先、ずっとない。
「いつもこうだ。最初は親切からだったのに、いつのまにか逆のことをしている。それでどうしていいのかわからなくなるんだ」
「親切。お前の口から、親切、ねぇ」
「おかしいですか。僕、あなたに喜ばれるのが嬉しかったんです」
鳴海の身体が動きをなくした。力を無くすような言葉だったろうか。ライドウはそう考えて、わからないまま新たな白髪を目に止めた。指でつまんだ。根本をたぐり、爪先に力をこめる。
「いつだったか、あなたに 『大変ですね』 と声をかけた。あなたは眉を下げて 『はは』 と笑った。なんでもないことです。だけど僕には、その笑顔がとても嬉しかった。あなたのことを少し理解したような気がしたんだ。そういう時が段々と積み重なって……」
「ライドウ、もう抜き終わったんじゃないの」
ぷつ、と音がした。
「ここらへんに密集しています。あと五本はある。疲れているんですね」
ちり紙の上に乗せられたものを見る。
白髪だ。
増やした原因が抜いている。
どうせまた生えてくるんだろう。
鳴海はそんなことを思って瞳を閉じた。確かに疲れている。
「デビルサマナーとして自らを律する傍ら、僕はあなたと普通の会話をする楽しみを見つけた。珈琲の銘柄を香りだけで当てるゲーム、新しいトランプのルール――夕暮れの空に雲を見て、あなたがぽつりと話されたことなんてなにかとても、新鮮だった。
―― 『まるでたくさんの獣達が日の落ちるほうへ駆けていくようだ』 ――」
「そんなこと――言ったか?」
「冗談めいた感じで。あとに自分で笑っておいででした」
「お前も笑ったか?」
「少し」
「そうか。外さないだけましだな、そんな寒いこと」
「寒い?」
「理解しなくていいよ。話は終わりか?」
ぷつ。
「まだです」
「えらいこと引き受けちまったなぁー」
日が遠く落ちていく。
雲のかたちは四つ足の獣のかたち、ふるさとを想うように風に吹かれて流れてゆく――太陽のもとへ。
窓から差す落陽に目をやられたか、鳴海はつつと涙を少年の膝枕に滲ませた。
少年は湿り気に気づき、顔をそっとのぞきこませた。
「痛かったですか。ごめんなさい」
「気にするな」
「僕、まだ謝らなきゃならないことが」
「なんだ」
「あなたを弄んでいた」
鳴海はため息をついた。
瞳を閉じたまま、必要以上に大きな声で罵った。
「とんでもねぇことをさらっと言いやがるな、お前は!」
「でも本当なんです。あなたをからかっていた」
「なになになんなの、なにがどうしてそうなったの。いきさつを教えなさい、俺に身に覚えはないよライドウちゃん」
「伽耶さんやリンさんがよくこう仰っていました。
『好きな人に愛されるのは大変なこと』 と。
『振り向いてももらえない、どうしたら声をかけてくださるのかしら』と。
僕はその時、正直『どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう。女の人というのは馬鹿だなぁ』と思いました」
「なんか色々と問い正したくなるな。伽耶ちゃんやリンちゃんとそんなこと話してたお前とか、お前のその自信満々な理由とか。
ぶん殴りたくなるほど聞いてみてぇよ」
「お腹立ちはごもっともです。僕はその時、これ以上はないくらい調子に乗っていた。僕は愛されている、好かれているという実感があったんです。どんなそぶりをしたら気にかけてもらえるのか、どんな顔をしたら喜んでもらえるのか、それら全てをわかったつもりでいた」
思い当たることがないでもなかった。
ぷつ、とまた一本減った頭皮の方向へ目をやりつつ、鳴海はこんなことを思い返していた。
深夜零時を過ぎた頃だ。
時計がボーンと重苦しい音を鳴らしたとき、鳴海はうんと伸びをした。
珈琲はすっかり冷めていた。
働きすぎた、そう思った彼は、傍らで書類整理を手伝っていた少年に「もう休めよ」と声をかけた。
うなずいて珈琲カップを手に退室しようとした間際、ライドウはこう告げたのだ。
『昨日、僕の誕生日だったんですよ』
ドアの端からのぞく顔は微笑んでいた。子供のように、ただそのことを伝えたかったという風に。
鳴海は肩をほぐす腕も止めて、しばしあっけにとられたあと、慌てて 『おめでとう』 と言った。
少年は笑みを深くして、ひとつお辞儀をしたあと、扉を閉めた。
あれもわかってやっていたのだろうか。
そんな風には見えなかった。
急に、なんでもないことを思い出したように、ただ伝えたかっただけじゃないのか。
そうだ、心を開いた相手にするような顔をして――微笑んで、告げただけ。
祝福されるとわかっていたから。
俺ならそう言ってくれると理解していたから。
気持ちや心を預けていたからじゃないのか――ライドウ。
少年の心はつかめない。
預けていたのはなんだったのだろう。
今はその膝元で頭を預けている大人が一人、少年の話を聞いている。
白髪がまた一本、抜かれた。
「だけど――僕はとんでもない思い違いをしていた。自由に秘め事を楽しんでいるんだと軽く考えていた。でも違った、あんな怖い感情が待っているなんて予想もしていなかった」
「怖い感情?」
「――見ていないけれど、鳴海さんにじっと見つめられていた時があった。棚の本を取って読みふけていたとき、横からあなたの視線を感じた。
――急に、感じたこともないざわめきが心に――。
感情を抑えてそちらを見ると、鳴海さんは微笑んでいた。こうして見るのが当然という風に、その――好意と、それ以上のなにかを目に乗せて……」
鳴海はしんとしていた。
規則正しい呼吸の、ゆったりとした寝姿勢だった。緊張はかけらもない。
あのあと、ライドウは本を自分の足に落としたのだ。
大丈夫かと声をかけると「はい」と答えてすぐに部屋を出ていった。
表情を見てどう感じているかなど、わかりすぎるほどわかっていた。
けれど自分は、また――。
「怖かった。
まるで心をその瞳のまま愛撫されているような、くすぐったくて甘い、妙な気持ちに――。
自室の扉を閉めて、腰から砕けるように椅子に座った僕は、しばらく立ち上がることができませんでした。
顔を両手で隠して、僕はまるで女の子のようにうつむいてしまったんです。
ため息が熱かった。胸はまだ甘く心地よいかゆみを残してとくとくと音を鳴らしていた。
そして思ったんです、僕は馬鹿だって。
こんな気持ちになるなんて知らなかった、知っていたらあなたをからかうなんてこと絶対にしなかったのに。
報いだと思いました。
いつのまにか、僕はあなたのことを――」
「ライドウ」
「わかっています。だから僕はそれからあなたのことを避けるようになった。あんな気持ちは嘘だった、なにかの間違いだったと思いこみたかった。けれど、鳴海さん、あなたから変わらない視線で見つめられるたび、僕は決まってヘマをやらかした。ある時は鍵を落とした。またある時は手紙の住所を書き間違えた。ひどい時は刀の手入れの時に――」
「悪かったよ。あれ、治ったのか」
「今はもう平気です。あんなの、怪我とはいわない」
少年の人差し指には傷があった。そこには治りかけの薄皮が張っていた。刃で切った痕だった。
「僕はどうしたらいいのかわからなくなった。あなたに喜ばれるのは嬉しいはずだったのに、あの目で見つめられると、簡単なことが何もできなくなる。心は相変わらずめちゃくちゃなままで、なのに、なぜか――嬉しくて」
ぷつ。
指先と共にか細い声が震えている。
よく抜けるものだ、鳴海はそう思って瞳を閉じた。
「もうだいぶ抜いたろ。白髪、残ってないよな?」
「いいえ。あります、まだ――」
ぷつ、と少しの痛みが走った。ずいぶんと太い毛を抜いたらしい。
「――もう少し、このままで」
鳴海は鼻から大きく息をついた。
「わかったよ」
少年は彼の位置からは見えもしない会釈をした。癖なのだろう、姿勢は正しく、ぴんと張りつめた月のように美しくそこに在る。
「俺も最初からわかってたんだ。お前が本を落とした時からな。
あぁこいつは人からこんな風に愛されるのは初めてなんだろうなって。見ているだけで楽しくて仕方がない、そんな風に想われた経験がないんだろうなって。
……俺も謝らなきゃならないのかな。
なんらかの失敗をするってわかってて、俺はお前のことをあんな目で見ていたよ。まだ慣れないのかな、素直に好きでいてくれていいのになって。
そんな風に思って、自然と笑いながらずっと見てた」
頭を乗せている部位まで震えてきた。
ぶつ。
口の端から空気を吸い込むようにして痛みに耐える。
「ごめんなさい」と声が降った。
「――まだ、謝らなきゃいけないことが」
「まだあんのかよ」
「修学旅行から帰ってきたとき、僕は少し体調を崩していた。あなたはあの笑顔で 『楽しかったか』 と聞きました。僕はうなずいた。そしてこうも尋ねられました、『それで風邪を引いちゃったのか』 と。僕は情けなくてふがいなくて、見当違いのことを答えた。
『お土産も買ってこなくてすみません』 と。
あなたは眉をひそめた」
「……」
「そんなことを聞いてるんじゃないということは、あとからすぐにわかった。だけど、その時には僕はもう何も言えなくて――」
「ずっと気にしてたのか」
「気にかけてくださったのに――ごめんなさい」
がばっという音がしっくりくるだろう、そんな勢いで鳴海は身を起こした。
痛む頭皮を指先で撫で付けたあと、彼はあちこちの凝りをほぐした。首、肩、腕、背筋。
そして大きくふうと息をついて、隣に座るライドウを見た。
白髪を抜かれたわけでもないのに、涙目だった。
鳴海はふとちり紙を見た。そして「あーあ」と言った。
「俺の魅惑のダークブラウンまで抜いてくれちゃって」
ちり紙には十数本の白髪と、五、六本のこげ茶色の髪の毛が散らばっていた。
「別にこうして身を起こしていても話はできるだろう?」
困った奴を見るように、彼は眉を下げた。
ライドウはうつむいた。
「白髪がなくなったら、そこで話は終わりと」
「時と場合によるんだよ。ばかだね、お前は」
優しい声だった。
あたたかく、また少年の心は甘くくすぐられた。
「僕、結局なにを言いたかったのか……よく、わからなくなって……」
「だったら言わなくてもいいことだったんだろう。俺、もう忘れたよ」
「そう。そうですね、つまらない話をしました。すみません、余計な毛まで抜いてしまいました」
「ライドウ」
つかまえられたのはどちらなのか。
鳴海はまた、あの目で見つめた。
ライドウは立ち上がりたくて、そうはできなくて、寂しいように見つめ返した。
触れそうになる唇に、先に触れたのは――白い、長い指先だった。
「今日はハロウィンなんですよ」
笑顔だった。
無理という名前のつく微笑だった。
「ついさっき、教えてくれましたよね。カトリック教会の万聖節、全ての聖者を祝う日だと。
その日は子供たちがお化けの仮装をして、家々を訪ねて歩く。お決まりの文句はこうだ、『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ』――そう言えば、堂々と甘いものがもらえる。
いい祝日ですね、一日だけでも欲しいものが手に入る。でも僕はお菓子なんていらない、好きな人に好きなだけいたずらをしてみたい。その人がもし許してくれるのなら、そして――
やり方がわかれば、だけど」
は、は、は。
頬を伝う間もなく、弾けて飛んだその涙は、少年の黒いズボンにぽたぽたと染みをつけた。
ひどく真面目な表情をして、なおも顔を寄せようとする大人がいる。少年は近づいてくるたくましい肩を押して、なんとか逃れようとした。弱々しい腕には力が入らない。
「だめですよ、そんなことをしちゃ」
「キスなんてね、冗談じゃない」
「あなたなんて好きじゃないんだ、嫌い――嫌いなんですよ、僕は。
そう思わなきゃ、この心はもっとおかしくなって――」
おかしくもないのに笑う。
泣きたくもないのに涙が出る。
彼の言葉は杭となって、その心をつかまえる。
「俺も、お前のことなんて嫌いだよ」
口がふさがれた。
あたたかい。
どんなぬくもりよりも、この時が至上のものというくらいに。
この瞬間にしか手に入らない極上の愛。
「そう思わなきゃ、俺は」
角度を変えて、二度、三度、ついばむ唇。
そのどれもが心地よく、甘い痛みとなって全神経に渡り、広がってゆく。
痺れるように。
「思ってても、俺は――」
お菓子なんていらない。
いたずらできる時間さえあれば、それでよかったのに。
それが楽しかったのに。嬉しかったのに。
つかまえられたお化けがいる。
それは仮装のための白い布をはがされてしまっていた。
見ればただの、怖がりな、臆病な子供だった。
大人は白い布を放った。
近づいてくる。
とても怖いものがあるよと、教えてくれるその顔は、ひどく優しく微笑んでいた。
砂糖菓子の匂いがする。
甘いくちづけをくれた彼は、冷たい言葉を吐きながら、かぎりなくあたたかいぬくもりを寄越した。
まるで、いたずらの時間は終わりだという風に。
どうすれば?
少年は背中に回していた腕をほどく。
繰り返し繰り返し、何度も音を立てる唇から離れようと、彼の両頬に手を添えた。
顔が離れた。
泣いている少年は短い吐息をついたあと、にっこりと、彼の瞳を見据えて笑った。
「Trick or treat?」
彼は口の端を持ち上げた。
のしかかられる身を遠く、空の獣たちが見ている。
祝日が終わろうとしていた。
終
06/11/09(木)