天地の境もなく星がまたたいている。
炎の喧噪もここまでは届かない。
水草のほとり、白鳥が眠りについている。真新しい墓、乾燥した大地、土に埋もれた花は白く、ときおり風が吹いては褪せた色の草原に波を描く。
伯爵が転移の術を行使したのだろう、気づけば天守から遠く離れて、シモンは竜公の墓所にいた。膝に伯爵の首を抱いて、ふたりで三日月を仰いでいた。青い夜、星満る夜。
城は霧のようにかき消えてしまった。かつての城主は、わずかな力を残してここにいた。
「あのときと同じ月のかたちだ」
「そうだな」
「見えるか」
「少々かすむようだが、輝きは申し分ない」
シモンの胸に雪のような悲しみが降りた。首を抱くその手はかすかに震えて、肌の冷たさに同調していく。
「ここがお前の言っていた地か」
「そうだ。湖の光景を見たかね」
あぁ、と青年はあたりをみはるかした。覆いのように続く星空がふたりを守っているかのようだった。
「素晴らしい景色だ。お前が私をここまで連れてきてくれた」
伯爵もまた、彼と同じ景色を見た。
三日月の夜。月明かりに映える金色の髪。互いに相手だけを思っているこの瞬間。
これで、充分だった。
「そう……わたしの願いはすべて叶った。もうすぐ、ゆかねばならぬ」
腹の底からこみあげる涙の雰囲気に、シモンは震える顎を噛みしめ、悲しみを耐えた。彼が旅立つ前に、聞いておかねばならぬことがあった。
「いまの私に、光が見えるか」
「あぁ」伯爵はうなずくかわりに、まばたきで答えた。「魔王が滅びを迎えるにふさわしい、美しい光だ」
声が震えるのを止められなかった。
あぁ、今すぐにでも。
シモンは強く呼びかけた。
「友の名を呼びたい。お前はそれを許してくれるか」
伯爵は目を細めた。かまわないというふうに、よろこびをこめて。
「ヴラド」名とともに、熱い涙が落ちた。あらゆる意味をこめて、シモンは何度もその名を呼んだ。「ヴラド」
嗚咽を深めて、彼は伯爵の首を胸に抱いた。頬を寄せ、離れがたいものに触れるように、名を呼びながら。
伯爵の目が金の光にきらめき、口元から白い牙がのぞいた。
悲しみに浸る彼の首筋に、棘が刺さったような、わずかな痛みが走った。
はっと息を飲み、シモンは首筋から伯爵を引き離した。公の目は静かなものだった。その牙がのぞく口から淡々とした言葉が告げられた。
「君に呪いをかけた」
信じられぬという表情を見上げながら、伯爵は話を続けた。
「わたしに深く関わったことすべてを忘れる呪いだ。最も高名なる吸血鬼狩人が、人間ごときに呪いをかけられ、7年も苦しみ続けたなど、あってはならぬことなのだ。君にかけた呪いのすべてはわたしがしたこと。竜公と戦い、呪いごと伯爵を封印したと、人間たちにはそう伝えるがいい」
シモンは理解できないように、わなわなと首を振った。身を呈して自身の汚辱を濯いでくれたのは他ならぬ伯爵であるのに、どうしてそんなことをするのか、なにもわからなかった。
「お前をただの邪悪な存在とみなせというのか」
「ただの」竜公は面白そうに笑った。「いいや、純一無雑の悪の真祖として、わたしは人々に記憶されたいのだよ」
君のことだ、竜公はほんとうはいい奴なんだと、一部のものにこっそりと話すつもりなのだろう。教会関係者にも、わたしとのあいだにあったすべてのことを話すつもりではないのか。
「君を面倒ごとから解放したいという思いもあるが、わたしはこれから先も、魔界の王として君臨したいのだ。常闇の国でも、人間の世界でも」
そして、君に対しても。
うつろにかすむ目が、それでも誇りを失わぬように、強い光で青年を見据えた。
シモンは一度、ぐっと顎を噛みしめ、それから「忘れない」と彼に告げた。
「人であろうが竜公であろうが、誰の呪いにも私は負けない」
青年の目尻に残る涙が、小さな光のように輝いた。
その清虚な顔は、伯爵の思いを汲み、力になろうとする意思をたたえていた。
「お前は最後まで私を思って力を尽くしてくれた。そのような友を忘れる男が、お前のいう最も高名なる吸血鬼狩人であるはずがない」
伯爵はふっと小さくほほえみ、「そうだな」と、眠りに落ちる前の穏やかな息をついた。
瞳がとじられようとしていた。
「ヴラド」
息をつめての呼び止める声。
伯爵はかまわず、瞳をとじた。
「さらばだ、シモン・ベルモンド」
我が友よ、君に安らぎを。
竜の翼がちぎれるように、黒い影を四散させて、伯爵の首は青年の膝元からあとかたもなく消えた。
残された狩人は呆然と虚空を見つめ、膝をついていた。泣きはらした目は、もやがかかったように薄くにごっている。なぜここにいるのかわからないというふうに、月が雲に隠れたことにも気がつかぬまま、そこにいた。
鼻に雫が落ちた。
雨が降り始めていた。