長い長い行進が終わりを迎えた。
町を抜けて城門にたどり着いたシモンのそばから、金色の魂が離れていく。安寧の地にふたたび帰るように、狩人にすべての信頼を寄せて、勝利を願う表情で、天へとのぼっていく。
ひとつのひとつの魂に感謝し、シモンは狩人の祈りを心のうちで捧げた。すべての協力者のために、そして、いまから会うもののために。
城門前の闇夜に浮かび上がるように、死神が音もなく現れた。青い衣を気配なく風に吹かせて、登城をなさんとする狩人に語りかける。
『よくぞ来た』そびえたつ城を前に彼は大鎌を涼しく光らせた。『我が主が待ちかねている』
死神は冴え冴えとした白い指先を、衣の裾を払うように狩人へ向けてひらめかせた。
魔力の放出に気がつけば、そこはすでに地上から大きく離れた、風の吹く天守だった。
屋根はなく、そこはバルコニーと呼べる作りだった。丘のように大きくせりだした紅い床が、複雑で豪奢な模様の手すりへ伸びている。棺を安置する場所は無論ほかにあるだろうが、その地はまるで、ふたたび朝を迎えることはないと断言するかのように、開放的に、広く、雄大に作られていた。
彼がいた。手すりの向こうを眺めるように、来訪者に対して背を向けていた。
その背に呼びかけようと、シモンは口を開いた。言葉は出なかった。狩人の表情は、声を発せられぬことに焦りと惑いを覚えていた。
そんな彼に背を向けたまま、伯爵は静かに口を開いた。
「君に対して、石ひとつ、害ある言葉ひとつ投げかけられたら、即座に町ごと滅ぼすつもりであったが」
手すりに貴やかな右手をかけたまま、彼は狩人をかえりみた。
「どうやら町のものは君に救われたようだ。――いや、君の祈りにかな」
強大な力だ、と竜公は呟いた。
彼もまた強大な力を抑えようともしない、霊峰のような威圧感のある存在であった。遠く離れているのに、彼自身が放つ寒気と迫力に向かい合うと、狩人は心身が凍えそうになった。何度対峙しようが決して慣れぬであろう、自己を見失いそうになる恐るべき緊張感と、天守にふさわしく在る、竜公の偉大なるたたずまい。射抜かれるような眼光はまだ紅く染まってはいないが、それも、もうじきだった。
その瞬間をなんとか先延ばしにしようとして、シモンは何度も口を開いた。そして、声にならぬことに苛立ち、拳を握った。
どうした、と問いかけるふうに、伯爵は顔をわずかに傾けた。理由を知っているかのような平静としたまなざしだった。
「名を」シモンは悔しそうに言葉を切った。「名を、呼べぬ」
シモンの脳裏には、伯爵に
人に危害を加えないと自身の名にかけて誓わせた、すべてのはじまりの時を。
「なぜだ、一度お前を封じた時点で私との繋がりは断ち切られたはずなのに、なぜ誓いがいまも生きているというのだ」
「とうに断ち切られているさ」伯爵はどうということもないように言い放った。「わたしが君に名を呼ばれるのを許さぬだけだ。つまらない人間どもに誇りも英知も汚された狩人ごときに、なぜわたしの名を軽々しく呼ばれなくてはならぬのか」
無理強いに誓わせた制約とは関係なく、すべては彼の精神に委ねられる。彼は真実を語っていた。伯爵は青年に名を呼ばれるのを拒んだのである。対峙するいまとなっても、それは変わらなかった。
「光の行進ごときで君の精神性がもとの輝きを取り戻したとでも? いままでの祈りに対するひとつの答えかもしれぬ。しかし、はっきりとした君の力とは、わたしはやはり認められぬのだ」
「それは」シモンは口を開き、そしてまた、歯噛みした。自分自身、誰かの助けを得てばかりで、なにかの力を示したとは思えずにいたからだ。そうして、彼はこんなことを口にした。「なにをもって、お前は自身の名を呼ばれることを許すのだ」
「呼べる名はあるだろう。竜公の名が」見下す目で彼は言った。「なにをもってというのなら、君もいま一度この状況をかえりみてはどうだ」
見据えたくはない事実をつきつけられていた。シモンはわずかにうつむき、くちびるを引き結ぶ。
伯爵は笑いもせず、続く言葉を淡々と告げた。
「竜公とベルモンド家の青年が対峙しているのだ。なすべきことはひとつではないかね」
そのために来たのだ。しかし狩人は、ためらいを見せた。なすべきことはわかっている――しかし、しかし。
名を呼べば、なにがしかの説得に移れるのではと思っていた。誰の祈りを受けて竜公が蘇ったのかもわからなかったし、なにも確実なことなど考えられなかったが、しかし、もしかしたら、互いに痛みの伴わぬ安寧が訪れるのではないか、そんな、都合のよいことを思っていた。奇跡のような瞬間をかけらも望まずにはいられなかった。愚かなことだった。愚かなことを願わずにいられないほど、彼もまた、竜公に深く関わってしまったのだ。二回目に封じたときとは明らかに違う、こうして言葉を交わせて、話ができる状態にあるというのに。
名を呼ぶことができないだけで、彼は戦い以外のすべてを拒絶されたのだった。
「己が使命を忘れたか」
逡巡をみとめ、それを小さく笑うように、公は手すりの向こうへ目をやった。休めていた右手を伸ばし、それを町の方角へと開いた。目に映るのは大小の家々が並ぶ夜の町――彼は悪魔の右手をするどく薙いだ。
手のひらから閃光が走り、到達点である町の中心が、炎の壁を生んだ。雨の名残の雷雲をすべて吹き飛ばすほどの大爆発が巻き起こった。シモンの目が戦慄の光景に見開いた。町は溶岩の流れのような炎をこんこんと溢れさせ、鳥ほどの大きさの火の粉を飛ばして、三日月の夜を滅びの色に明るく染めた。
「やめろ」信じられぬ暴挙に狩人の震える手が聖鞭をたぐった。「やめるんだ、――」名を、呼べない。
伯爵はそんな狩人の様子に哀れむような目を向けていた。しょうがないやつだ、まだなにもわかっていないようだなと、炎の町を後ろにして。
彼はふたたび町をかえりみた。その顔がわずかに町より奥のほうをみとめた。山の上に建つ要塞教会を見つめている。あそこには避難した大勢の住民がいる。あぁ、そこにいたかと、自分の手から逃げた卑小な生物を見るように伯爵は薄い笑みを浮かべて、その手をのばした。青年の白い歯が覗いた。猛き咆哮が彼のもとへ遅れて届いた。
「ドラキュラ!」
狩人はその名を呼んだ。
ベルモンド家の男が、その名を口にした。
身は凍らず、魂は震えず、息は冷たさを覚えず、熱さが心を支配した。
怖れはない。やるべきことは、これだけだ。
伯爵はゆっくりと振り返った。
「そう。その名だ」真実を見つめる表情だった。「邪悪と恐怖、混沌の象徴――狩人の誇りを汚すものすべての上に君臨する名」
青年は鞭を握りしめた。
伯爵は外套で蝙蝠のように顔を覆い、そこからのぞく目で青年に語りかけた。
「わたしは混沌と邪悪の象徴として生まれてきた。これからも伝説は変わるまい。100年の眠りを経て復活を繰り返し、人間の邪悪な祈りを力にして存在し続けるのだ」
真実を語るその目は徐々に赤みを帯びていった。紅玉のように、血のように、つややかな妖しい光を満たしていく。青年は光に吸い込まれぬように腰を落とし、伯爵を正面から見据えていた。力がみなぎるのを感じる。
そう、伝説は変わらぬのだ――竜公はわずかに目を細めた。その色は哀しみか、怒りか。外套を掴む手を優美かつ悲しげに下ろしていくその表情の強さは、なにものにも変えられぬ決意にほかならない。
「人の祈りに左右される存在。しかし、それこそがわたしだ。わたしこそが悪の真祖なのだ。
君の魂を侮辱し、君の英知に曇りをあたえ、君の光を奪った奴原の祈りで復活した。そしてそのものらの力なぞ塵芥にひとしく、はるかに強大な力をもった魔王がここにいる。わたしと戦い、わたしを討ち果たせば、あの醜きものどもの祈りが叶わなかったことになる。力を示し、君の善き祈りが邪悪な祈りに勝るとき、同時に君の汚辱が濯がれるのだ」
公は竜の翼のように外套を払った。
さぁ、来るがいい。
威厳ある立ち居振る舞いで、そう告げた。
狩人が炎の鞭を振るう寸前に、竜公の手のひらがこちらへ向けられた。
町を破壊したときとおなじ力が感じられた。人に放たれたら骨も残らず焼き尽くされ、遠くへ吹き飛ばされるに違いない。しかし、そこから飛来したものは、人の顔ほどの大きさの、三つの炎だった。速度も遅く、彼は自身に到達する前に鞭で払い、残りを飛びすさって回避した。
狩人と竜公は同時におなじことを思った。
いつもこうだ。けた違いの魔力を放つとき、その威力はほんの微々たるものに抑えられる。魔王が手加減をしているわけではない。狩人に特別な力があるわけでもない。ふたりのあいだには、聖鞭があった。
人を卑小な存在に変えてしまう激しいいかづちを放つとき、その雷光は、時がその速度を鈍らせたかのような、避けることのできる数本の落雷に変じてしまう。
まばたきとまばたきの合間の早さであるはずの雷光が、決して対象者を追撃できぬ、回避可能の紫紺の稲妻になってしまうのだ。
聖鞭はいつもそのあいだにあって、不可思議な輝きを放っていた。
いまふたりは同時に理解した。
すべては聖鞭がその使い手を守護していたのだ。
目に見えぬ力をもって、対抗できぬほどの魔力をもつ存在に狩人を立ち向かわせる。戦いに勝つための可能性を切り開く一条の光のように、聖鞭は常に狩人へその聖なる力を分け与えていた。
「やはり、効かぬか」伯爵はひとりごとのように呟いた。「しかし、暗黒の力を借りるまでもない」
いや、もとより魔界の力を集めることは頭にない。青い体躯の醜い怪物の姿に変わるつもりはないのだ。
伯爵は優美さを失わぬ手のひらめきで、あらたな炎を生んだ。それも最小限の動きでかわされ、ついに竜公は、狩人の鞭の一撃をその首に受けた。
痛み、熱さ、それらは鼓動を忘れた胸にも響いた。
鞭の残す嘆きだ。『返して』『返して』ひた隠しにしていた復讐の念が、魔王の身に触れるたびに、埋め合わせを求める叫びをあげる。
なにを返してというのか、それは幾たび鞭の一撃を受けてもわからなかった。迎えるはずだった幸福か、人としての誇りか。鞭の声は女性のようであり、嘆くたびにその気配は、自身を律する緊張に包まれる。まるで自分のような存在を増やしてはならないと、己に言い聞かせるふうに。そのためには怒りで我を忘れてはならないと、聖鞭は狩人の守護に力を尽くす。聖なる存在であるように、そのような存在に少しでも近づくために。
その思いは狩人に伝わっているのだろうか。狩人自身の思いよりも強く騒ぐことがあると青年は語ったが、いまは果たして、どうであろう。
音楽は聞こえない。
まだまだ、彼の血は、逸っていない。
「ひとつだけ聞く。お前は、なにをもって蘇った?」
竜公は以前にも青年のこのような表情を見たことがあった。
要塞内で忘魂の給仕を受けたさいに、自身の祈りが間違っていたのかと立ち尽くした、あの時の顔。
しかし、為すべきことはわきまえている男の顔だ。自分を呪いから解き放ってくれたものに対する、真意を求める誠実な姿勢。
竜公の外套が火煙の風になびき、蒼黒の襟が彼の口元を貴やかに隠した。
「自身の力で」
「――そうか」
鎮魂を願う自分の祈りは届かなかった。その事実を受け止め、シモンは聖鞭の柄を握り直した。
星を求めるような狩人の心意あるまなざしは変わらない。
伯爵はその深淵な精神に思いを馳せ、こんな言葉を口にした。
「この復活にどんな意味があったのか――その理由を知りたいか」
青年の目は当たり前だというふうに決意にみなぎっている。それを見て、伯爵は満足そうに唇を結んだ。
「奇跡が起これば――教えよう」
「奇跡?」
「わたしを追いつめ、本気を出させることができれば――」
そして、音楽が聞こえてきたら。
言いながら、伯爵は小さく笑った。
それは望めまいというふうに。
暗黒の玉が放たれた。猛烈な早さで迫るそれは狩人の腕や腿をかすめ、血をほとばしらせた。狩人のうめき声が聞こえる。耐える声、諦めぬ声。
ブーツが地を噛んだ。飛びすさり、斜めに振り下ろした鞭が伯爵の首を打つ。青年の目はするどく、熱い。
『返して』
狂気にも似た叫びが伯爵を苛つかせた。聞きたいのはそんな声ではない。青年の戦いの鼓動だ。邪魔でしかない鞭の嘆きを鎮めようと、彼は聖鞭に狙いを定めて、呪いを放った。心を侵す黒い塊が蝙蝠の翼のような煤を中空に残し、鞭を喰らう。炎の先端は黒い液状の闇に浸食された。シモンは激しく鞭を一閃させて闇を払うも、その一条のつながりからは炎の熱さが消え失せ、怖気を伝える皮の表面が覗くのだった。
「なんという、力だ」
思わず言葉が漏れた。
かりそめの死から一日も経たぬのに、復活という大いなる力を行使してなお、どうしてこのような呪いを放つことができるのか――シモンは竜公の底尽きぬ魔力に疑念を抱いた。
「いったい誰が――誰が、そんな力をお前にもたらしたというのだ」
「まだ聞こえぬ」竜公は狩人の問いに答えるために、彼の問いを無視した。「まだ聞こえぬな――君の血の猛りは」
そして外套を、その神秘の指先で、竜の翼のように大やかに払った。
赤い床が隆起した。幾千の格子のように、首頭を旗とかかげんとする尖塔のように、狩人を囲い、刺し貫こうとする紅の槍が次々に天へと噴出した。飛びすさり、方向を変え、避ける狩人を追いつめるように、無数の巨大な棘が天守を埋め尽くしていく。串刺し公はただその光景を見つめながら、音もなく夜の風に吹かれていた。
体内を複雑怪奇に巡る血管のように、鋭利な真槍が山となる。
やがて狩人の姿は見えなくなった。千の棘、万のつるぎ、深紅の槍の彼方に埋没したかのように、あたりはしんと静まりかえった。
公のとがった耳は音をさぐった。
わずかな音も聞き漏らさぬように、瞳をとじて、狩人の気配に息をこらす。
脈が、かすかに。
炎のような、胎動のような、神秘の音が、遠く、紅い棘のむこうに。
風を切る音が聞こえた。
棘を破壊し、空を旋回し、それは伯爵の首を跳ね飛ばした。
古の狩猟具、
公の首を討った十字架は半円の軌道を描いて、棘のむこうへ戻っていった。鞭の閃きによって破壊される紅い槍。片手でクロスを掴む音。その中心に、狩人が立っていた。こめかみや、鍛え上げられた身体の端々から血を流し、彼は顎をきつく噛みしめていた。月の光を受けるその堂々たる体躯。炎の明かりに映える金色の髪、英雄然とした雄々しい立ち姿。
脈という音はとうに過ぎ、それは鼓動を打っていた。
赤いあかい、心臓の音。
見据える先に伯爵の姿はなかった。
彼は町の見える方角へ歩んだ。
先ほどまで対峙していた相手がいたほうへ、一歩一歩、音を確かめるように。
彼もまた確信していた。まだ終わりを迎えていない。まだ闇は払われていない。首をはねた感覚はあったが、それで虚無に還る存在ではない。
肌を焦がすしびれが走った。
大気が紫紺の空気に震えている。
町並みすべてに雷光が轟いた。
山を越え、天を貫き、竜の咆哮を思わせる極大の光が天守に落ちた。
稲妻が消え去ったあとに、青い人影が立っていた。
黒く染まった床にそびえ立つ圧倒的な存在感。
首を変えたかのような凶暴な顔立ち。魔王の形相、紅いまなざし。
失われずにいる王気と、歪んだ頬肉からのぞく白い牙。
その凄絶な笑みはまさしく竜公。
「心地よい音だ」
心臓を握りつぶすような手をかかげ、伯爵は高らかに笑った。
「しかし、わかっておろうな。聖鞭はもはやわたしの魔力に干渉することはできぬ。町を焼き尽くした炎を貴様に放てば骨も残らず、ベルモンドの血は聖鞭ごと潰えるだろう」
言葉を受け止め、シモンは息を静めた。自身の胸の高鳴りが聞こえた。
悲劇を目にしての血液の流れではない。沸騰するような脈動ではなく、闇を照らす炎のような、燃え立つ鼓動だ。
青年は皮の鞭をたぐり、眼前に輪にして掲げ、瞳を閉じた。祈りを捧げる表情だった。
鞭は光を帯びず、銀の輪も繋がず、静寂をたたえていた。黒く染まった皮の鞭が、魂を滅ぼされたように、沈黙していた。
シモンは祈った。
その間にも、伯爵は生命を抱きすくめるように広げた両手のひらに、破壊の力を集めていた。青年とのかつての邂逅を忘れたように、その目は邪悪なよろこびに見開かれて、牙がのぞく口元からは、紅い笑みがこぼれていた。
シモンは微動だにせず、鞭の復活を願って、心からの祈りを捧げていた。
ラルフ、クリストファー、名も知らぬこれまでの聖鞭の使い手たちよ、どうか私に力を――。
魔王と心通わそうとしたことを咎められているのか、はたまた竜公の命脈をいっときでもその身に流したことを責められているのか――それとも、貶められた精神性は真実、変えられることのない青年の本性だと定められたのか――彼の祈りに応えるものはなかった。
聖鞭は黒ずんだ表皮を力なく垂下げている。
魔王を討つことなど不可能だというふうに、人の思いの宿らない、ただの皮の鞭として、彼の手中にあった。
まぶたをふるわせ、シモンは凍える吐息をもらした。
「やはり」勝てぬというのか。善き祈りは邪悪な祈りに勝らないというのか。「私の祈りは、間違っていたのか」
はは、と純然な、この場にそぐわないような軽い笑みが聞こえた。竜公だった。「間違い? 間違いだと? 君はなにを祈ったというのだ」
自分はなぜ、このような問いを返す相手と戦っているのだろう。そんな焦燥感が青年の光を翳らせた。
この対峙にいったいなんの意味があったのか――なにもわからない。わからないが、しかし、自分の真意は、すべての力が尽きる前に彼に伝えておかねばならなかった。
シモンは祈りをこめてその言葉を――まるで詩を諳んじるような明瞭な声音で――口にした。
「お前の安らぎを、心から」
最初から、それだけを、ただひとつの願いとして。
「届いていたさ」伯爵の笑みが星の光のように、しんとした輝きを帯びた。「だから、わたしがここにいるのだ」
どういうことかわからなかった。
シモンは瞳をあけ、伯爵を見つめた。
彼は約束を守るように語って聞かせた。狩人が自分をここまで追いつめ、本気を出させたことは事実なのだ。いままでの問いにすべて答えるように、公はやわらかい笑みに表情を変えた。
「深い眠りについていたわたしは、常闇の国で、ある祈りを聞いた。魔王の伝説に終止符が打たれることを望み、わたしに永劫の安らぎが訪れんことを、心から祈る声だった」
シモンは彼の口から語られる真実に目をみはった。悩みぶかく静謐な表情は魔王を捉えて動くことがない。
「善き祈りというのだろうな。あまりに深く願うものだから、ついつい心配になってきてみれば、君は死にかけて命の灯火が消えようとしているではないか。わたしの臣下に聞いてみれば、君を呪った連中がいまもその命を奪おうとして、非道な行為を続けているという。もはやわたしの復活には関係なく、だ。許せるものかね、君のような素晴らしい人間が一部の邪悪な人間に利用されて、芥のようにその命を捨てられるなど」
魔王ではない。あれはひとりの友の顔だ。常闇の国から想像を絶する辛苦を乗り越えて自分を助けにきてくれた偉大なる王だ。
誰の祈りを聞き届けたか、竜公はそれを教えるために、いまここに。
彼は笑った。考えてみるとおかしくてしょうがないことに気がついたように。
「邪悪な祈りによって7年もさまよい続けてしたことといえば、存在が消えないように君のそばにべったり張りつき、人間の魔法使いにもこなせるような簡単な魔法を使って、魔王だなんだと虚勢を張っていただけだった。
それが、君の祈りはどうだろう。
復活に100年を要する時を一日も経たずにわたしに届け、君をこうして追いつめるほどの力をくれた。
シモン・ベルモンド。君の祈りが間違いであるはずがない。名よりも確かな証が、いま、君の目の前にある」
月を冠する闇の王。
炎の賛歌を受ける竜の息子。
彼はひとりの友に笑いかけた。
「善き祈りはとうに邪悪な祈りに勝っている。その証明が、わたしなのだよ」
シモンは震える心を抑えるように顎を引き締めた。このような偉大な友を讃える言葉を彼は知らない。ただ、心はすでに決まっていた。全身全霊をもって伯爵の思いに応えよう。
シモンは両手いっぱいに鞭を張りつめた。その一条のつながりは光を帯びて、神秘の
勇壮で、高潔な響きをもつ、英雄の旋律。はじまりとおわりの戦いの記憶――竜公と狩人の、仁を鼓舞する物語。
あぁ、光は彼のためにある。
伯爵は天上の音楽を聞いた。
このような礼賛の楽が聞けるのならば、たった一夜の命を蘇っても惜しくはない。
竜公は強大な魔力を放ち、狩人はそれに立ち向かった。聖鞭が太陽のように眩しく輝き、振り抜かれたそれは避けることのできない力の奔流を討ち払った。
偉大なる力を越え、鞭が伯爵の首をはね飛ばす寸前、ふたりは間近に顔を合わせた。
対峙と理解、友愛と敬慕、尊厳と躍動、闇と光。
それは伝説に語られるべき荘厳さだった。