忘れじの詩(うた)・21

 ロザリオを携え、玄義を唱えると、巨石によって封じられていた大橋が開いた。道は城門へと続いている。人の愚かな儀式の末、この世に現れたかりそめの城だ。シモンは疲労を感じさせぬ足取りで城内へ歩んでいく。

 この城に天守はない。階段を下る道も石によって隠されている静寂の場を、青年は地下深くへと降りていく。

 地の底に廟所びょうしょが設けられていた。
 石段をひとつずつ上がり、彼は伯爵の遺骸を台座の中心に据えた。
 指輪、爪、肋、心臓、そして目玉が空中で円を描き、閃光が走った。
 闇よりも昏く、血よりも濃い、幽鬼のごとく虚ろな存在が、このときのために用意された脆弱な空間を支配した。
 黒髪、黒い外套、灰色の肌。目は黒く、牙は白蝋のように生白い。
 見目は不快であり、空に漂う姿は哀れみを誘うほどに威厳がない。虚無をたたえる瞳に意識はなく、闇を掻く長い爪は混濁とした自身の知性に苛立ちを覚えていた。
 狂気を象徴するように廟所で渦を描く闇のかたまり。それは伯爵自身だった。
 シモンは聖鞭を手に構える。
 ひとことも言葉を交わさずに、炎を宿す一条の鞭を、何度も何度も、容赦なく伯爵に打ちつける。
 それが慈悲と救いであるかのように。
 虚しさと過ちに対する、自身へ向けての、心からの負荊ふけいであるかのように。

 荘厳な音楽は旋律ひとつ聞こえなかった。
 やがて、伯爵の身体は、消滅した。

 竜公の墓所は雨露と霧が交じりあった、仄暗い冷たさに包まれていた。墓前のむこう、すぐそばにあるはずの湖がとても遠くに感じられる。
 ここに立つと、幼いころに教えられた鎮魂歌を思い出す。
 シモンは心鎮めるような単純かつ繊細な響きを何度も心のなかに思い返した。
 どこか、夜の帳を想わせる、地の底に暗闇が沈みこんでいく重々しい旋律――そうだ、彼は天にはゆけない。

 伯爵自身とともに、遺骸はすべて消え去った。空の棺を宿した大地の上にひざまずき、彼はいつか摘んだものとおなじ、白いアネモネの花を墓前に捧げた。
 風が吹いた。青年の金色の髪が横に流れた。光の波が落ち着くころ、彼はなにかを指でなぞろうとして、それをやめた。
 シモンは墓碑名を見つめながら手を組み合わせた。
 長い祈りを捧げるため、しずかに目を閉じようとしたそのとき、湖から水音が聞こえた。薄くそちらに目を向けると、木立の隅に水草があるのがわかった。水面に映る鳥の影。シモンは目をすがめて、それが白鳥だということを理解した。

 唐突に、伯爵のことを思い出した。忘れたことなどなかったが、あの髪を梳く感触と、ささやきのすべてを、思い出した。

 もやの向こうを仰げば、夜には星空が見えるだろう。透き通った湖なら、きっと天地の境は生まれない。水草の陰を指さすほうへ自分は素直に目をすがめて――

 涙が落ちた。
 目も鼻も詰まるような息苦しさを覚えて、青年は熱くて熱くてたまらない息を吐きながら、ぐしゃぐしゃに泣いた。

 ここだ。ここだ、竜公の言っていた場所とは、ここなのだ。
 ここでともに夜を迎えることができれば、伯爵はきっと、その光景のすばらしさを教えてくれたに違いない。
 けれど彼はもういない。もう二度と逢うことは叶わない。
 自分がそのように弔ったのだから。

「ヴラド」

 枯れゆく草を握りしめた。その上に頭を伏して、痛む喉を絞り、何度も伯爵の名を呼び続けた。「ヴラド」

 やがて彼は嗚咽を切り、意識して悲しみの波を心の奥へと引き戻した。
 自分が竜公への未練を残してはいけないのだと、震える歯の根をしっかりと噛み合わせて、塩辛い涙と鼻水を飲み込んだ。顔を拭い、息をつく。吐息はいまだに熱く、震えていたが、彼はもう一度、膝を正し、祈りのかたちに手を組み合わせた。

 長い祈りを終えて、彼は立ち上がった。湿った風が吹いて、青年の金色の髪を冷たく梳いた。

「もう、ここへ来ることはできないが」

 シモンは言葉を切り、墓碑名を見つめて、こう言った。

「幼少のころから――父とともに、初めてお前の墓所を見舞った時から――思いは変わらぬ。
 お前の安らぎを、心から祈っている」

 すべきことを終えての言葉だった。
 生への執着を捨てたような、一切の未練を断ち切った姿勢だった。
 青年は竜公の墓前に背を向けて、白霧のなかを歩み去った。途中で、彼はよろめいた。ひどく、足取りが弱っていた。背中が重いように、影を引きずって、霧のなかへと消えていった。