忘れじの詩(うた)・16

 無数のしゃれこうべの眼窩にろうそくの炎が燃えている。
 炎の清らかさと人の尊厳を汚す燭台の明かりが、地の底の牢獄を照らしていた。それとは別に、大きさはたいまつの明かりを思わせる炎が、胴輪のような鉄枷に繋がれていた。自身の所有者である悪鬼どもから永劫とも思える責めを受けて人のかたちをなくした魂だった。その心は二目と見られぬ痛ましい傷を負い、自分が男であったか女であったかも忘れて、紙のように薄くなった自我を永代の獄に繋がれていた。そのものにとって音や気配は狂気と苦痛をはらむものでしかなかったが、このとき牢獄にあらわれた“力”は現世の教えである聖霊と人とのつながりを思い起こさせた。風の音が届いたのだ。

 その澄んだ風はろうそくの火を消した。魂が風に嘆きを訴えるように身をゆらめかせると、痛んだ壁に打ち付けられた鎖がかすかな音を立てた。ふだんは鎖の音が耳障りであるとして身動きひとつしただけでも所有者から新たな罰が加えられるのだが、そのゆらめきはこのとき確かな希望を感じて心を震わせたのである。

 風の気配がなにものをも断罪する鞭の音に変わった。枷が砕け、力は炎を解き放った。風の吹いたあとに、なめらかな黒髪をこめかみの位置で左右に束ねた美しい女性がたたずんでいた。彼女が祈りをこめて空の手を胸元で払うと、姿なき鞭の音があたりを切り裂き、同じように囚われていた魂の枷が次々と砕けていった。

 解放された魂を導くように、女性が片手を天へ差し伸べると、清らかな光に包まれた炎が人のかたちを取り戻し、地の底を飛び立つのだった。祈りと加護によって輝きを放っても、途中で誰に捕まることなく、安全に。
 ここに囚われていた魂はすべて昇天した。

 魂の無事を願うように牢獄から天を望む女性のもとに地響きが届いた。重い体を一歩一歩、億劫にゆらして、異変の起こった場所へ近づいてゆく悪魔の足音。慈悲と慈愛に満ちた彼女のまなざしが冷たい色を帯びていく。かつてこの世ならざる存在に魂を穢されたものが落とす、きっとした、憎しみと怒りの陰だった。

 聞くも不快な鈍足のろあしを響かせ、魂の前所有者である一つ目、一本角の巨大な赤い体躯の鬼がのたり出た。腿まで垂れ下がった分厚い腹、豪腕に携えた大鐘ほどもある鉄の鎚。足下に影のように黒い狼を従えた悪鬼の、意思の計れぬ恐怖に抜けた巨大な目玉が彼女を捉えた。

 黒いうなりが床を蹴った。清楚な青い上衣を体ごと引きちぎろうと飛びかかった狼が、そのいがむ顔のまま顎から裂けた。女性が扇のように手をひらめかすと、同じように足や頭を狙って跳躍する獣たちが、ふたたび地を蹴ることのかなわない、不帰の笞刑を受けるのだった。

 その一つ目にも捉えられぬ忌まわしい鞭の存在を感知して、鬼は狼ごと一拉ひとひしぎにする獰猛な鎚を彼女めがけて振り下ろした。石床と血肉が潰れ、底に砕けて混じり合う。鉄鎚の振動は鬼自身の肌を不快に揺らした。いらちのまま彼は獲物をいやったらしく地面に擦った。手応えがない。生身の人間ではなかろうが、魂をも穢す悪魔の鎚を女はかわしたのだ。いったい、どこにいる?

 悪鬼の目はいつのまにか暗い天井を向いていた。地を睨め付けていた頭は首から足下に落ち、肥大した自分の腹を見上げていた。ろうそくの火を消すようなかすかな風が吹いた。首を寸断された胴は力無くゆらめき、彼に虚無の影をかぶせた。ひどくあとから、鞭の音が鳴った。

 ここですべきことを終えた彼女は、両手をつつましく絞り、誰もいない牢獄を静かに打ち見た。心の鎮まりがもたらす暗闇に同化するように彼女は足音なく影に溶け込み、そして消えた。