育ちのせいか、思い立てばすぐという性格のせいか、自室に移動する手間すら忘れたというように、シモンは洗面台からほど近い食堂ホールの片隅にあぐらをかいた。
不要な装備品である衣類をナイフでハンカチほどの大きさに切り裂き、先ほど水ですすいだばかりのL・クロスをていねいに拭う。
古の狩猟具で数多の魔物を屠るたびに自身の技量は増していったが、かわりにその荘厳な輝きは不浄な血油を受けてうすく濁り、細微な装飾は曇りをおびていった。
たびたびこうしてクロスを磨く作業に入るのだが、今日の青年は動作に無駄が生まれてしまった。テーブルにある燭台を「やれやれ」という表情で見上げる。そのままあぐらを解いて立ち上がりかけたところに、見つめていたろうそくが瞬時に目の前に現れ、赤い床に落ちた。
気配のするほうを見ると伯爵がテーブルの向こう側からその高い背を覗かせていた。彼もまた、ろうそくと同じように瞬時に青年のそばへ居場所を移し、そして呻くように顔を逸らした。神秘の存在である自身がもっとも嫌う形状を青年の膝元に見つけたからである。
クロスを背後に隠し、シモンは「いつからここに」と彼に尋ねた。横目で所作を伺った伯爵は、苦手とする十字架が視界にないのを確認したあと「たった今だ」と答えた。
「床に座り込んで物欲しそうにろうそくを見つめているからなんだろうと思ってな」
そしてあからさまに嫌そうな顔を向けて「クロスを磨くのに使うものだと知っていたら、ここにあるろうそくすべてを溶かしてやったものを」と憮然とした声で呟いた。
「受け皿に残ったぶんで丁度いいんだ」シモンはろうそくを拾い、床に広げた布の上に、底にこびりついた少量の蝋をナイフで削り落とした。「でも、ありがとう。少し待ってくれたら、お前の用事につきあうよ」
「なんだ、続けるのか?」
「せっかく蝋をもらったからな」
そして青年は彼の不満そうな視線もかまわずにクロス磨きに入った。伯爵に少しは気を遣っているのか、彼に背を向けて。
公の苛立ちは細顎を噛みしめる音に表れた。非常に、神経質だ。シモンはその音にも平然として、十字架の光沢を増す作業を続けている。
「わざわざ訪ねにきた者に対してその態度か」
「急な用件があれば別だが、どうみても退屈をまぎらわせにきたとしか思えない登場の仕方だったからな」
「そう思ってあの言か」用事につきあうと言った青年の言葉を思い返して伯爵の苛立ちは腹の中で渦を巻いた。「君という男は本心ではわたしを軽く見ているのではないか? 無防備に背を向けても害のない相手だ、苦手とするクロスをしまう気遣いも不要な存在だとそう」
「軽く見たことなどないし、こんな場所で背後から襲いかかるような不埒な奴でもないと知っているが、相手の用事すら尊重しないわがままな奴に遣う気は持ち合わせていない」
「そんなにそれが大事か」
「お前がくれたやつだもの」
大事だよ、と穏やかな声がホール一帯にしんと沁みた。
伯爵は憮然とした立ち姿からかすかな衣擦れを起こし、青年とおなじく床に腰を下ろした。そして背中合わせに彼にもたれた。感じたこともない重さにとまどい、シモンは「椅子ならたくさんあるだろう」と肩越しに伯爵を振り返った。そのむつけた顔は彼からは見えなかった。
「お前たちが使うような椅子に腰掛けるつもりはない」
「地べたに座るほうがよほど恰好がつかないぞ」
「無礼な狩人を背もたれにしていると思えばわたしの尊厳も保たれる」
シモンはむっとしてうっとおしい重さを払うように肩を動かした。ところがその細身のどこにそんな力があるのか、退かそうとすればするほど、伯爵は全身から新たな重さを伴ってもたれかかってくるのだ。何度目かの抵抗もむなしく、シモンはもはや押しつぶされるのではないかという勢いの、ぐいぐいとした加重をかけられていた。
「どけったら!」
「断る。気にせず早く終わらせればよかろう」
「こんな体が半分折れ曲がった状態で作業ができるか!」
「たしかに調度の悪い背もたれだ。いや、わたしが知らなかっただけで、もしかしたらリクライニング機能が備わっているのかもしれんな」
あぐらをかいたまま、床に両拳をついてこれ以上倒されないようにふんばっていたシモンは、一度短く息をついた。諦めるためでも更に抵抗するためでもなく、伯爵の意地を汲んでのことである。
「寄りかかるのはかまわないが、そうやってモノ扱いをされるのは嫌だ」
伯爵は黙った。そしてゆっくりと背を起こした。息苦しさから解放されたシモンは普段の猫背をさらにきつめて、大きくため息をついた。指先が痺れている。半端な輝きを帯びたクロスを磨き終えるのにいつも以上に時間がかかりそうだった。
「どこか痛めたか?」
「少し指先が痺れただけだ。じきに治る」
「そうか」伯爵はなんのためらいもなくこう告げた。「すまなかったな」
そして「寄りかかるぞ」と、伯爵は断りを入れた。背格好どおりの、自然な重さだ。どうかすると、最初にもたれかかった時よりも遠慮して軽く体重を浮かしているような、気を遣っているような重さだった。
「相変わらず、子供みたいな体温だな」
「さっきので余計に熱が上がったんだ」
「最初にもたれかかった時とあまり変わらない」
「なぁ」
伯爵はかすかに首を動かして青年の話を促した。シモンは少々、申し訳なさそうな顔をしていた。
「いつもより時間がかかりそうなんだ。待っているあいだ、退屈しないか」
「いい。ゆっくりやれ」
とうに伯爵の退屈は解消されていた。傍から見れば手持ちぶさたで居然たるさまであっても、このあたたかな背に寄りかかれる時間を引き延ばせるなら、自身の影を古の狩猟具に映してでも、その輝きを鈍いままにしておきたいと、伯爵は思った。
終
12/03/24(土)
シモンさんで10章をプレイして初めてL・クロスを頂いた時の感動を忘れたくなかったので、こんな話を書いてしまいました。
初のL・クロスを伯爵様からというのがとても感慨深くて……。
それまでの道のりが、2回に1回の割合でタキシードを贈られるという嫌がらせに近いものでしたので、その感慨も大変なものでした。