ゆるみしからだよこたえて

 やわらかな月明かりに包まれるベッドのなかで、伯爵は嗚咽をこぼす青年の体をやさしく抱きしめていた。そのたくましい背中をなでながら、窓の外の神秘的な光を見つめて、数日前の情景を心に浮かべる。

 あとから思うと、ほんの戯れに頭をなでたことが彼にはよほどこたえたのだろう。ぬくもりは消えずに残り、心のやわらかい部分を刺激したのだ。
 ある日のこと、古の城にて。
 いつものように会い、いつものように談笑するふたりがいた。
 外は青く、風は冷たい。真夜中の冴え冴えとした空気に幾数もの星が映えている。青年は窓辺に立ち、壁に寄りかかりもせずに星を眺めていた。
 ほんの思いつきのことだった。伯爵は玉座から青年を手招きで誘い、とまどう間も与えずに膝の上に抱き上げた。シモンは慌てた様子で「よさないか」と言った。

「どうした、誰も見ていないぞ」
「そういう問題じゃない。お互いもう、いい大人なんだから」
「いつもがんばっている君へのご褒美だよ」

 そう言って伯爵はシモンの頭をなでた。子供を褒めるようなやさしい手つきで。
 シモンは立派な体躯をぶるっと震わせた。頭を振るつもりが、顔をのけぞらすだけで、手を払えない。腕をつかんでもびくともしない。
 城主の強靱な腕は体を抱く力をゆるめはしなかった。
 抵抗などものともしない伯爵の力強さに、自身が小人になった思いがして、シモンは顔を真っ赤にしながらこう叫んだ。

「おもちゃやぬいぐるみを扱っているんじゃないんだぞ。嫌がっているんだから、はなせ」

「なぜそうわたしの愛撫を拒むのだ」顔は悲しげに、腹を抱く手は鉄のように硬くして、伯爵はわざとらしく彼に歎いた。「親のいたわりを受け取らぬ子供などろくな大人に成長しないぞ」

「お前の子供ではないし、私はもう充分大人だ!」

 自身の力でというよりは、相手が諦めたかたちで、鉄の抱擁は解かれた。
 激しく身を起こしたシモンは、荒ぶった息を吐き出して、伯爵を振り返った。少し表情が曇った。伯爵は演技ではなく、悲しげな顔をしていた。その顔を見て、彼がこんなことをした理由に今さら思い至った。

 自分ひとりが玉座に座っているのを見た彼は、窓辺に立つ青年に落ち着く場所を勧めようとしたのだろう。冗談まじりで抱き留めて、労る気持ちは本心で、彼と戯れたかっただけなのだ。
 外は昏く、寒々しい。肌を重ねて、ぬくもりを分かち合って、愛の言葉を交わしたら、身も心もどんなにあたたまることか。

 今はそこまでわかったが、ふたたび彼の元へ戻る気にもなれなかったシモンは、少し申し訳ない表情でこう言った。「また来るよ」
 今日はさよならということだ。
 その意思に傷つき、わずかな怒りも湧き、伯爵はなにも言わずに彼の背中を見送った。もやもやとした気持ちに付き添うように、雨が静かに降りはじめた。

 翌日、シモンが大怪我をして帰還したことを、伯爵は狩人たちから知らされた。人形使いが支配する世界で、アイアンメイデンのトラップにかかったという。人型の器の内部に大小様々な釘がびっしりと張り巡らされている拷問器具だ。かろうじて命をとりとめたシモンは、神薬によって今は傷跡もないが、ある困った状態異常に見舞われたという。

 風魔から話を聞き、彼に注意をうながす視線で見つめられながら、伯爵はシモンのいる部屋へと通された。ベッドにいる彼がこちらを見た。少し黙り込んだあと、気まずげな表情で青年はこう言った。「ずいぶん変わっただろう」

 こんな状態だが生きて動けるんだ。青年は眉を下げて自身の手を見つめた。
 伯爵は何度もまばたきをした。事態の認識ができないように「どうなっているんだ?」と青年に声をかけた。自分でもよくわからないといった感じにシモンは額を抑えた。

「ビーズみたいな目に、2.5頭身の大きさ、綿の詰まったふにゃふにゃとした体……トラップに引っかかったと同時に、魔法で人形に――いや、ぬいぐるみにされてしまったようなんだ」

 伯爵は彼のそばに寄り、手を握った。青年の姿をまじまじと見つめ、同情するように瞳をとじる。目を開けると、ぬいぐるみになったシモンがそこにいた。
 縫い目がわかるやわらかな手。健美さが失われた愛らしい体つき。シンプルな光を映すまんまるの目。毛糸のようなふさふさの髪。どこからどう見ても可愛らしいぬいぐるみの姿だった。
 伯爵は事態を飲み込んだようにふっと息をついた。小さくなった彼の手を両手で包み、こう語りかけた。

「いずれ元に戻るだろう。一時的な魔法にかかっただけだ。普段どおりに生活すれば、夢からさめたようにある日ぱっと元の姿を取り戻せるだろうさ」

 楽観的な伯爵の言葉にシモンは軽く首をかしげて苦笑した。

「魔法にくわしいお前がそう言うなら、心配はなさそうだな」

 ぬいぐるみになったと言っても、シモンの戦闘能力に変化は見られなかった。
 体と一緒に装備品も小さくなったので、伯爵が見るにシモンの戦う姿は、さながら鞭の妖精といったものだった。
羽が生えたかのような脅威のジャンプ力、容赦のない鞭さばき。ふにゃりと着地しても、次には威力の変わらないスライディングや踏みつけを行い、ナイフを投げる。敵は痛みも感じないうちに燃え尽きて、小さな彼にひとつしかない道を譲るのだった。
 最初は不安げに見ていた仲間からの気遣いも、共に敵を討つころには信頼と称賛の声に変わっていた。「やるじゃん!」「よくやったな」「さすがです」……
 かわいらしい容貌にも、ふだんの敬意はそのまま生きていて、なれなれしく愛撫しようとする者はいなかった。ただひとりを除いては。

 伯爵はここぞとばかりに玉座でシモンを待った。
 なにかを我慢するように見上げるシモンも、やがてはぬいぐるみの本能(?)に抗えきれずに、自ら伯爵の元へと歩んでいった。もそもそと膝によじ登り、ちょこんとそこに座る。しばらく待ったが、なにも反応がない。おずおずと見上げると、肘をついて得意げに微笑む伯爵と目が合った。うつむき、小さな手で伯爵の膝をそっとつまむ。ふだんから行う甘えのサインだった。ふっと高貴な笑みが降りた。

 伯爵は良い子だ良い子だと何度も繰り返しながらシモンを抱きしめた。
 丸々としたお腹を揉みしだき、顔に頬ずりをして、また膝に乗せて頭をなでる。赤ん坊サイズの彼にキスをすると、シモンも遠慮がちにちゅっとした。 玉座のまわりに幸福な色のハートマークが生まれた。

 死神が城の補強工事について相談に現れても、伯爵は膝の上のシモンを飽きずに揉みしだいていた。
 最初は恥ずかしげにしていたシモンも、やがてはとろんと丸い目を細めて、伯爵のなすがままに任せた。
 ぬいぐるみにとって構われ、愛撫されるのは至福の行為である。

「防御城塔の壁がだいぶ傷んできております」
「お前がやたらと鎌を振り回すからではないのか」
「これでも小鎌の使用は最小限に抑えています」
「あれでか。あの量でか。あやしいな、ほんとうか?」
「小壁体の損傷も激しく、修繕をご検討のほど」……

 頭の上に降る会話が遠くなる。体があたたかく、心地よくなる。
 もぎゅもぎゅとさわり続ける伯爵に頭を寄せて、シモンは子供のように眠りに落ちた。

 時には自分の歳を思い出して反抗することもあった。
 シモンは本棚から小難しい本を取り出して、伯爵に背を向けて読書に集中しようとした。遊びにきたのにこの態度、そしてなんとも幼いあらがい方。
 単なる思いつきだったのだろう――その丸い体は集中力が切れたように段々と寝転ぶ体勢に変わり、頭をころんとさせて、片側のページを枕にした。そしてむっちりとした足をぱたぱたと上下させて、本の内容が頭に入っていないことを城主に伝えた。伯爵を誘うには充分すぎる愛くるしさだった。隣に寝転んだ伯爵は「読んであげようか」と声をかけた。シモンは待ちかねていたように伯爵を見上げた。背中を抱かれる感触が気持ちいい。

「”では当時、私はどのような罪を犯していたのでしょうか。泣きわめきながら、大口をあけて乳房をもとめたことでしょうか。じっさい、いまもしそんなことをしたならば、もちろん乳房ではありませんが、いまの年齢にふさわしい食物を、そのように大口をあけてもとめたとしたならば、私は嘲われしかられるでしょうし、それはきわめて当然のことです。”……」

 穏やかな声、美しい声。暖炉の薪の爆ぜる音。
 うとうとと眠りに落ちながら、シモンはそれらの心地よい音を聞いていた。

 食事も摂る。当たり前のことだが。
 悪魔城ではなじみのある大きな骨付き肉にがっぷりと全身で取り組んで肉をたいらげる様はなかなか見事で、その小さな体のどこに入るのだろうという不思議さがあった。
 意図したわけではないが、マグカップに注いだホットミルクを飲む様子は双方の心を穏やかにさせた。誰もなにも言わなかったが、両手でカップを包むその姿は、赤子が乳を飲むようなかわいらしさがあった。伯爵は一瞬ほ乳瓶を連想したが、さすがにそれを向けるのは失礼だと思って、黙って彼の食事風景を眺めていた。

 入浴中は体がぺっとりと潰れる。伯爵は水気の含んだ重い体をしぼってあげようかと彼に提案したが、それは大丈夫だと断られた。そのとおりに、彼は犬のように全身を震わせただけで、しわしわではあったが、軽やかな体を取り戻した。ぎゅっぎゅっと自分であちこちをしぼり、できるかぎり水気を抜く。その後は伯爵に丁寧にドライヤーをかけてもらい、ふんわりとしたやわらかな体に戻るのだ。ひとりきりの場合は暖炉の前に座り込む。

 トイレは秘密だ。彼なりに工夫してうまく用を足す。ぬいぐるみには触れてはいけない部分があるものだ。夜分に子供部屋で動き出すようなファンタジーの詰まったぬいぐるみには。

 お祈りをすませ、床に就く。目をとじて、風の吹く音を聞く。しばらくして、シモンはあることに気がついた。
 寝返りをうち、うつぶせになって、やがて体を丸めた。広いベッドには自分ひとりの膨らみしかない。
 むっくりと起きて月を眺める。
 明日は彼のもとを訪ねよう。ひとりで戦いを終えることができたなら、彼に会いに出かけよう。そう考えて、今日一日は我慢することに決めた。

 翌日、泊まりにきたシモンは、ふたりきりの甘やかな時間を過ごしたあと、もそもそと伯爵のベッドにもぐりこんだ。隣に横たわった伯爵に、上掛けを肩までかけてもらうと、その小さな瞳を嬉しそうに細めた。
 三日月の静かな明かりに照らされながら、ふたりは色々な話をした。

「こんなふうになっても、皆はおろかお前も普段どおりに接してくれるな。私も気分の落ち込みはないし、いつもより穏やかに時を過ごせているよ」
「今日はどこへ行ってきたのだね」
「あの人形使いの支配する世界だよ。ぬいぐるみに埋もれそうになりながら戦ってきた」
「皆と一緒に?」
「いや」
「君の精神力は感嘆と称賛に値するが、同時にとても叱りつけたい気持ちでいっぱいになる。こうして戻ってきたということは無事に探索を終えたのだろうが、もしもまたなにかあったらどうするつもりだったんだ」
「何度でもやり直せる世界なんだ。なにかあっても帰ってこられるし、人が完全にいなくなるなんてことはない」
「しかし今の状態を思えば危険極まりなく、言ってはなんだが、君は不安定で――」
「寝よう。いつかある日ぱっと元の姿に戻れるんだろう。疲れてるんだ」

 伯爵はシモンをそっと抱きしめようとした。シモンはそれを拒んだ。

「ひとりで行動できるようになったんだ。甘えが身につくといけない」

 シモンは伯爵に背を向けた。それを受けて、伯爵は仰向けに横たわった。
 さらさらと流れる月明かり。時計の針の進む音。花瓶に生けられた赤い薔薇が、花びらを一枚、はらりと落とす。

 シモンは枕に顔をうずめ、しばらくじっとしたあと、むっくりと起き上がった。うつむきながら、伯爵の膝のかわりに、自身の膝をそっとつまむ。

「あの。がんばろうと思ったんだが、どうしてもダメで」

 抱っこされないと眠れないとシモンは告げた。
 おそらくはこれもぬいぐるみの本質に支配されているせいなのだ。
 誰かの寝床にいるときは、愛撫されていなければ存在の意義がない。人の役に立てなければ意味がない。昨夜も結局寝付けなくて、ひとりさみしく夜を過ごした。その後に戦いに赴いて、そして――。
 シモンはしかしなにかに気がついたように顔を上げた。「いや、忘れてくれ」きっぱりとした口調で、まなざしもまっすぐに伯爵に告げる。

「ぬいぐるみを抱いて眠る城主なんてひどく恥ずかしい姿だろうから――」

 伯爵は無言でシモンを抱きしめた。吐息は彼の気持ちをたしなめるように熱く重い。シモンは息を飲み、やがて落ち着いたように瞳をとじた。

 視界が暗闇になると同時に、数日前の、あのときの恐怖を思い出した。
 火を当てられたような峻烈な痛みが全身に走る。なにが起こったのかもわからずに目や胸が熱くなった。その場には誰もいなくて、即死には至らなかった自分は、結局みじめに、ひとりで外へと這いだして――赤く染まった顔を上向けて、心のどこかで彼を求めた。

「意地や強情を張る時期じゃなかったのかもしれない。あの恐ろしい拷問器具に閉じ込められたとき、お前の顔が思い浮かんだんだ――後悔と共に。 あぁ、膝の上に抱かれていれば良かったと」

 ポーションは尽きていたので、誰かが来るまで、自分はその場に横たわった。
 目元を押さえて、体を丸めた自分を魔物にも見られずに時は過ぎ――やがて慈悲のような意識の途絶えが訪れた。

 あの時自分は、ふがいなく倒れる姿を誰かに見てほしかった。自身のもとへと駆け寄ってほしかった。ただひたすらに、助けてほしかったのだ。
 誰かと思っても、脳裏に浮かぶのは伯爵の顔ばかりだった。
 息を飲む彼に、名前を呼んで、抱き起こしてもらいたかった。
 あんな痛みを受ける前に、子供の部分を呼び起こされなければ、きっともっと狩人らしい対応ができていただろう。魔術にも抗しきれていただろう。丸めた体はどんどんどんどん小さくなって……。

 シモンは考えてもしょうがないというようにふっと笑った。
 艶のある小さな青い目をぱちぱちとさせて、シモンは伯爵の胸に語りかけた。

「ぬいぐるみでいれば遠慮会釈なしにお前に甘えられるな。この姿でいれば、抱きしめられなければいけないんだから、きっと魔法をかけられて良かったんだと思う」

 伯爵はそうだなというようにシモンの背中をポンポンと叩いていた。
 互いの目には綿の詰まったやわらかな体で、月明かりが照らすのは筋肉の盛り上がったたくましい体で――同じ人物は同じベッドに横たわっている。

 伯爵の瞳は海を映すような不思議な光をゆらめかせていた。おそらくそうだろうと思っていたことに確証を持った、いたわりに満ちた瞳だった。

 この姿になりたかった意味がわかったのだ。
 彼はきっと、自分はぬいぐるみになったと思い込み、言い訳をしなくとも誰かの愛撫を受け入れられる存在になりたかったのだ。命を落とす恐怖の内に、自身に魔法を――暗示をかけたのだ。
 皆にも、伯爵にも、シモンは人の姿のまま目に映っていた。
 ただひとり、本人だけがぬいぐるみの姿になってしまったと信じ込み、三日が経った。
 伯爵は彼と同じ世界を共有し、かわいらしい容貌を愛して、心のすき間を満たす手伝いをした。それだけは確実に自分にしかできないと思ったからだった。
 その広い背中を撫でながら、伯爵は子供にするように、落ち着いて眠るといいと声をかけた。「ん」とシモンは瞳をとじた。

「そうだ、全部わかったんだから、もうそろそろ、ちゃんとしなきゃ……」

 うとうととした声は伯爵の胸を詰まらせた。
 誰も責めない。そう伝えたかったが、背中をなでるだけに気持ちを留めた。

 翌日、シモンは自身の手を見つめてはっと目が覚めた。
 ふにゃふにゃの手ではない。ごつごつとした立派な手、体を触れば鍛え上げられた肉体がそこにある。

「ヴラド、ヴラド」

 肩を揺さぶり、目を覚まさせた伯爵に、シモンは喜びの顔を向けた。

「戻ったよ。ははは、お前の言ったとおりだ。ある日ぱっと、目が覚めたら!」

 シモンは伯爵を抱きしめてキスをした。
 伯爵はゆっくりと目を細めて、あるべき彼の世界を共有した。
 頑健な肉体、年相応の精悍な顔つき。「あぁ。良かったな、シモン」
 そのまなざしは慈父のごとく。
 軽い落ち込みと、憂いと、やさしさが滲んでいた。

 君は――あぁ君は、たった三日で満たされるのかね。
 そうか、そうか……そうなんだね。
 そうでなければならない環境で育ったのだね。

「君はとても、がんばったんだね」

 シモンの表情は明るいままだった。

「なんだ、せっかく戻ったのに、どうしたんだ」

 そして知らずに涙を落とした。頬へ流れたものがよくわからないというように指で触れる。あとからあとから伝う涙。笑顔のまま、静かに首を振ると、ため息がこぼれた。
 伯爵はシモンを抱きしめて、頭をなでた。
 立派な体躯を震わせて、シモンは心細かったように泣きじゃくった。

 今だけは。いいや、いつでも、どんなときでも。

 月の光がふたりを慰めるように部屋を包んでいた。

 終
 15/02/24(火)

 訳文・題の引用元
 アウグスティヌス 山田晶(訳)
『告白 Ⅰ・Ⅱ(中公文庫)』所収